慧遠2  慧遠サマリー

ここから老荘ろうそうの思想に

限界を感じた慧遠えおんが仏法に目覚め、

やがて廬山ろざんの大僧侶となるまでを

追っていくのだが、その前にいちど

東晋五胡十六国とうしんごこじゅうろっこく時代の仏教界について、

大雑把にまとめておこう。



一般に五胡国家が

仏教を奉じようと動いたのには、

中原に深く根付いているじゅどう

対抗しうる価値観を持ち込みたかった、

とされている。その端緒が石勒せきろく

西方から来た仏図澄ぶっとちょうを顧問として迎え、

大いに信任した。


ちなみに前趙ぜんちょう前燕ぜんえん

あまり仏教と絡んでいない。

匈奴きょうど鮮卑せんぴは「部族」という

確固たる基盤があったが、

石勒にはそういった地縁的基盤が

薄かったため仏教という「力」を

意図的に取り込んだのだろう

感じがうかがえる。


後趙こうちょうで存在感を最大とした、仏図澄。

彼に認められたのが釈道安しゃくどうあんだ。

釈道安はいちど東晋の領域、

襄陽じょうように拠点を構えたが、

苻堅ふけんに拉致され、前秦ぜんしんに。

以降前秦での発言力を高める。

これが後に後秦こうしんが仏教大国となる

きっかけともなっている。


釈道安の元には、

二人の名僧が接続している。

一人がクマーラジーヴァ。

そして一人が、慧遠だ。

慧遠は釈道安の弟子。

クマーラジーヴァはその名声を慕い、

釈道安によって招聘を提案されている。

クマーラジーヴァが長安ちょうあん入りしたのは

釈道安の死後ではあったのだが。


こうして釈道安をハブとして、

クマーラジーヴァが長安に、

慧遠が廬山に拠点を据える。

両者は書簡にて交流こそしていたが、

大雑把に言えばこの二つの系統が、

そのまま南北朝時代の

仏教の二大潮流になった、

と見なしてしまえば、

ひとまずは流れがつかみやすいかと思う。



  ○  ○  ○



と言うわけで、改めて、

慧遠の東晋末期に至るまでの概略だ。


俗世の知識に限界を感じ始めていた慧遠、

釈道安が太行たいこう山脈の恒山こうざんに寺を構え、

布教していたと聞き、訪問する。

で一発KO。弟の慧持えじとともに出家。


二人は学資に事欠く有様であったが、

曇翼どんよくと言う僧侶の援助もあり、

とことん学問に打ち込むことができた。

釈道安は曇翼のこの振る舞いについて

「さすがにあの二人の才を見抜いたか」

とご満悦だったそうである。


慧遠二十四歳の時、講義を任される。

ここで聴講者が内容を咀嚼しきれず、

講義が停滞。すると慧遠、ここで

「俗世の学問」荘子そうじを引き合いに出す。

すると聴講者はたちどころに理解。

以降釈道安も、慧遠については

いちいち俗世の本から

遠ざけるまでもない、と判断した。


後に釈道安に付き従って襄陽に出たが、

釈道安大好き天王苻堅が苻丕ふひを派遣、

釈道安をかっさらわんと目論む。

襄陽守将であった朱序しゅじょ

釈道安を奪われるまいと、拘束。


身動きの取れなくなった釈道安、

弟子たちを解散させ、

それぞれに行きたいところに

行くよう命じる。

そして別れに際し弟子たちに

アドバイスを与えるのだが、

なぜか、慧遠にはアドバイスがない。


「わ、私が不肖の弟子だからですか?」

「そなたについてはは、

 何も心配しておらぬのだ」


仲間とともに慧遠は荊州けいしゅうを南下、

上明じょうめい寺を経て

羅浮山らふざんに向かおうと考えるが、

途中の潯陽じんように到着したとき、

廬山の清靜なるたたずまいに打たれ、

ここに拠点を定めるべき、とした。


この地には同門の慧永ええいがいた。

慧遠、再会した彼と

修行をともにしよう、と考える。

ただ慧遠らを受け入れるには

寺が狭かったため、慧永は刺史の桓伊かんい

新しい寺を用意してもらった。


新たな拠点での修行の日々の中、

慧遠の中に天竺てんじくへの思慕が募る。

すると天竺出身の僧が

当地の様子をつぶさに語る。

それを聞いた慧遠は腕のいい画家に

天竺の絵を描かせ、それを見ながら、

五章からなる歌を詠み上げた。



昔、東晋の武将である陶侃とうかん

武昌ぶしょうに安置された霊験あらたかな仏像を

側に置きたいと持ち運ぼうとした所、

あまりの重さに持ち上げられなかった、

と言ったことがあった。


その仏像を慧遠が供養したいと思い、

持ち運ぼうとしたところ、

なんとふわりと持ち上がる。

信心薄い陶侃と

信心厚き慧遠の差である、と、

人々は歌に歌ったそうである。


このことが慧遠の評判を決定づけ、

廬山には多くの人々が

慧遠の教えを授かりたいと

出向くようになった。


彭城ほうじょう劉遺民りゅういみん豫章よしょう雷次宗らいじそう

雁門かんもん周續之しゅうしょくし新蔡しんさい畢穎之ひつえいし

南陽なんよう宗炳そうへい張菜民ちょうさいみん張季碩ちょうきせきなど、

宋書において「隠者」として

扱われる人物たちは、

こぞって慧遠の元に詣でている。

そして彼らと仏法を修めるにあたり、

その宣言を劉遺民に書かせている。


その宣言の大意は

「修行によって得られる功徳は

 人それぞれだが、そこに腐らず、

 皆で大いなる方を求めよう。

 それはなんと喜ばしきことであろう」

といった感じである。



慧遠の雰囲気は厳粛そのもの、

その姿を目にする者は

誰もが身震いを起こしたという。

ある僧侶など、慧遠にプレゼントを

贈りたいと思いながらも、

二、三日迷ったあげく、

結局渡せずじまいだったほどである。


そのような中、慧義えぎと言う僧がやって来、

慧遠の弟子である慧宝えほうに言う。


「そなたらは慧遠殿を必要以上に

 遠く見すぎではないのか、

 どれ、わしがちょっくら

 彼を試して進ぜよう」


そうして『法華経』の講義をする

慧遠の元に向かった。

が、何かをしようとすれば汗が流れ、

動悸が止まらない。

結局何一つ話しかけることもできず、

引き下がると、

慧宝に対して言うのだった。


「あのお方は、何とも驚くべきお方か!」


その人々を圧倒すること、

かくのごときであったという。




時沙門釋道安立寺於太行恒山,弘贊像法,聲甚著聞,遠遂往歸之。一面盡敬,以為「真吾師也」。後聞安講『般若經』,豁然而悟,乃歎曰:「儒道九流,皆糠秕耳。」便與弟慧持投簪落發,委命受業。


既入乎道,厲然不群,常欲總攝綱維,以大法為己任,精思諷持,以夜續晝。貧旅無資,縕纊常闕。而昆弟恪恭,終始不懈。有沙門曇翼,每給以燈燭之費。安公聞而喜曰:「道士誠知人矣。」遠藉慧解於前因,發勝心於曠劫,故能神明英越,機鑒遐深。安公常歎曰:「使道流東國,其在遠乎!」年二十四,便就講說。嘗有客聽講,難實相義,往復移時,彌增疑昧。遠乃引『莊子』義為連類,於惑者曉然。是後,安公特聽慧遠不廢俗書。安有弟子法遇、曇徽,皆風才照灼,志業清敏,並推伏焉,後隨安公南遊樊、沔。


偽秦建元九年,秦將符丕寇斥襄陽,道安為朱序所拘,不能得去,乃分張徒眾,各隨所之。臨路,諸長德皆被誨約,遠不蒙一言。遠乃跪曰:「獨無訓勖,懼非人例。」安曰:「如公者,豈復相憂。」遠於是與弟子數十人,南適荊州,住上明寺。後欲往羅浮山,及屆潯陽,見廬峰清靜,足以息心,始住龍泉精舍。


此處去水本遠,遠乃以杖扣地曰:「若此中可得栖立,當使朽壤抽泉。」言畢清流涌出,浚矣成溪。其後少時,潯陽亢旱,遠詣池側讀『海龍王經』,忽有巨蛇從池上空,須臾大雨,歲以有年,因號精舍為龍泉寺焉。


時有沙門慧永,居在西林,與遠同門舊好,遂要遠同止。永謂刺史桓伊曰:「遠公方當弘道,今徒屬已廣,而來者方多。貧道所栖褊狹,不足相處,如何?」桓乃為遠復於山東更立房殿,即東林是也。遠創造精舍,洞盡山美,卻負香爐之峰,傍帶瀑布之壑,仍石壘基,即松栽構,清泉環階,白雲滿室。復於寺內別置禪林,森樹烟凝,石逕苔合,凡在瞻履,皆神清而氣肅焉。


遠聞天竺有佛影,是佛昔化毒龍所留之影,在北天竺月氏國那竭呵城南古仙人石室中,經道取流沙西一萬五千八百五十里,每欣感交懷,志欲瞻睹。會有西域道士敘其光相,遠乃背山臨流,營築龕室,妙算盡工,淡彩圖寫,色疑積空,望似烟霧,暉相炳曖,若隱而顯,遠乃著銘曰:


 廓矣大象 理玄無名

 體神入化 落影離形

 迴暉層岩 凝映虛亭


 在陰不昧 處闇逾明

 婉步蟬蛻 朝宗百靈

 應不同方 迹絕而冥


 茫茫荒宇 靡勸靡獎

 淡虛寫容 拂空傳像

 相具體微,衝姿自朗。


 白毫吐曜 昏夜中爽

 感徹乃應 扣誠發響

 留音停岫 津悟冥賞


 撫之有會 功弗由曩


 旋踵忘敬 罔慮罔識

 三光掩暉 萬像一色

 庭宇幽藹 歸途莫測


 悟之以靖 開之以力

 慧風雖遐 惟塵假息

 匪聖玄覽 孰扇其極


 希音遠流 乃眷東顧

 欣風慕道 仰歸玄度

 妙盡毫端 運微輕素


 托彩虛淡 殆映霄霧

 迹似像真 理深其趣

 奇興開襟 祥風引路


 清氣迴軒 昏交未曙

 彷彿神容 依稀欽遇


 銘之圖之 曷營曷求

 神之聽之 鑒爾所修

 庶茲塵軌 映彼玄流


 漱情靈沼 飲和至柔

 照虛應簡 智落乃周

 深懷冥記 宵想神遊

 畢命一對 長謝百憂



又昔潯陽陶侃經鎮廣州,有漁人於海中見神光,每夕艷發,經旬彌盛。怪以白侃。侃往詳視,乃是阿育王像,即接歸,以送武昌寒溪寺。寺主僧珍嘗往夏口,夜夢寺遭火,而此像屋獨有龍神圍繞。珍覺,馳還寺,寺既焚盡,唯像屋存焉。侃後移鎮,以像有威靈,遣使迎接。數十人舉之至水,及上船,船又覆沒。使者懼而反之,竟不能獲。侃幼出雄武,素薄信情,故荊、楚之間,為之謠曰:「陶惟劍雄,像以神標。雲翔泥宿,邈何遙遙。可以誠致,難以力招。」


及遠創寺既成,祈心奉請,乃飄然自輕,往還無梗。方知遠之神感證在風諺矣。於是率眾行道,昏曉不覺,釋迦餘化,於斯復興。既而謹律息心之士,絕塵清信之賓,並不期而至,望風遙集。彭城劉遺民,豫章雷次宗,雁門周續之,新蔡畢穎之,南陽宗炳、張菜民、張季碩等,並弃世遺榮,依遠遊止。遠乃於精舍無量壽像前建齋立誓,共期西方。乃令劉遺民著其文,曰:


維歲在攝提格,七月戊辰朔,二十八日乙未。法師釋慧遠貞感幽奧,霜懷特發。乃延命同志息心貞信之士,百有二十三人,集於廬山之陰,般若臺精舍阿彌陀像前,率以香華敬廌而誓焉:惟斯一會之眾,夫緣化之理既明,則三世之報顯矣;遷感之數既符,則善惡之報必矣。推交臂之潛淪,悟無常之期切;審三報之相催,知險趣之難拔,此其同志諸賢,所以夕惕宵勤,仰思攸濟者也。蓋神者可以感涉,而不可以迹求。必感之有物,則幽路咫尺;茍求之無主,則眇茫何津?今幸以不謀而僉心西境,叩篇開信,亮情天發,乃機象通於寢夢,欣歡百於子來。於是雲圖表暉,影侔神造,功由理諧,事非人運。茲實天啟其誠,冥運來萃者矣。可不剋心重精疊思,以疑其慮哉?然其景績參差,功德不一,雖晨祈云同,夕歸攸隔。即我師友之眷,良可悲矣。是以慨焉胥命整襟法堂,等施一心,亭懷幽極,誓茲同人,俱遊絕域。其有驚出絕倫,首登神界,則無獨善於雲嶠;忘兼令於幽谷,先進之與後升,勉思彙征之道。然復妙覲大儀,啟心貞照,識以悟新,形由化革。藉芙蓉於中流,蔭瓊柯以詠言,飄雲衣於八極,汎香風以窮年,體忘安而彌穆,心超樂以自怡;臨三塗而緬謝,傲天宮而長辭。紹眾靈以繼軌,指太息以為期。究茲道也,豈不弘哉!


遠神韵嚴肅,容止方棱,凡預瞻睹,莫不心形戰慄。曾有一沙門持竹如意,欲以奉獻,入山信宿,竟不敢陳,竊留席隅,默然而去。有慧義法師,強正不憚,將欲造山,謂遠弟子慧寶曰:「諸君庸才,望風推服,今試觀我如何。」至山,值遠講『法華』,每欲難問,輒心悸流汗,竟不敢語。出謂慧寶曰:「此公定可訝。」其伏物蓋眾如此。


(高僧伝6-2_為人)




高僧伝なのに東晋の名将たちがそろい踏みしてるのがちょっと面白かったです。

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