仇池3  西の守り    

益州えきしゅうを治めていた毛璩もうきょは、

桓玄かんげん漢中かんちゅうに配置していた桓希かんき

攻撃を仕掛けたが、失敗。

そうこうしているうちに桓玄が倒され、

漢中の統治者がいなくなってしまった。


そこで楊盛ようせいは甥の楊撫ようぶを漢中に派遣。

ひとまずそこを守らせた。


その三年後、407 年。

楊盛は臨時官として

使持節、北秦州きたしんしゅう刺史に任命された。


ここで配下将の苻宣ふせんを漢中に。

梁州りょうしゅう刺史を代行させ、楊撫と交代。


さらに六年後、413 年。索邈さくぼう

正式な梁州刺史となり、南城なんじょうに入った。

そのため苻宣は仇池に撤収。


420 年に劉裕りゅうゆうが即位すると、

楊盛は車騎大將軍、侍中となった。


422 年には武都ぶと王に改封され、

嫡子の楊玄ようげんを武都王世子、前將軍とし、

楊難当ようなんとうを冠軍將軍、

楊撫を安南將軍とした。


そして楊盛、425 年6月に死亡。

楊定から位を継いで 30 年。62 歳。

惠文王けいぶんおうと諡された。




時益州刺史毛璩討桓玄所置梁州刺史桓希,敗走,漢中空虛,盛遣兄子平南將軍撫守漢中。三年,又假盛使持節、北秦州刺史。盛又遣將苻宣行梁州刺史代撫。九年,梁州刺史索邈鎮南城,宣乃還。高祖踐阼,進盛車騎大將軍,加侍中。永初三年,改封武都王,以長子玄為武都王世子,加號前將軍,難當為冠軍將軍,撫為安南將軍。盛嗣位三十年,太祖元嘉二年六月卒,時年六十二,私諡曰惠文王。


時に益州刺史の毛璩の桓玄が置きたる所の梁州刺史の桓希を討てど敗走し、漢中は空虛たれば、盛は兄の子の平南將軍の撫を遣りて漢中を守らしむ。三年、又た盛を使持節、北秦州刺史に假す。盛は又た將の苻宣を遣りて梁州刺史を行せしめ撫が代りとす。九年、梁州刺史の索邈の南城に鎮ぜるに、宣は乃ち還ず。高祖の踐阼せるに、盛を車騎大將軍に進め、侍中を加う。永初三年、武都王に改封され、長子の玄を以て武都王世子と為し、前將軍を加號し、難當を冠軍將軍と為し、撫を安南將軍と為す。盛の位を嗣ぐこと三十年、太祖の元嘉二年六月に卒す、時に年六十二。私諡して惠文王と曰う。


(宋書98-3_政事)




仇池きゅうちが揺らぐと、北魏ほくぎが割と簡単にしょくに入れてしまうんですよね。なので仇池がいるといないとで、だいぶ宋の守備力が違う。車騎将軍ってのは、言ってみれば「めっちゃ偉い将軍」です。基本的には上に驃騎将軍くらいしかいない……いやまあ太尉だとか大司馬、大将軍みたいなのはいますが、人臣としてはほぼ極み、みたいな立場です。どれだけ重要だったかがよくわかる。


そう言う立場を利用して仇池はかなりしたたかに立ち回るんですが、結局 441 年に北魏に滅ぼされます。まぁ、よく頑張った方だと思う。一般的に北魏の華北統一は 439 年なわけですが、どうしてもこの人たちの存在が見過ごし切れないぼくは心の中で 441 年を統一年としてます。それをする事によって何かメリットがあるのかって聞かれたら、そりゃ全くないんですけどね?

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