鏡の先

行きつけのバーで起きたこの出来事はオチもなく話も短い。


遠野物語を本が擦り切れるまで読んだ僕が短くて不思議な話を語ろうと思う。




***




僕は飲食店の店長をしていて店が閉まるのが深夜一時頃、片付けなどをしてから顔馴染みのバーへ行く事が日課になっていた。


そこはオーセンティックな雰囲気ではなく気さくなマスターと愉快なスタッフがカウンターに立っていて和気藹々とスポーツをスクリーンで観戦し皆で騒ぐ感じの店だった。

僕はオープン当時からすぐに気に入り通い詰めていたのでだいたい座る席も決まっている。



梅雨が明けるか明けないかくらいのジメジメとした夜の事いつものように仕事が終わった僕はコの字型をしたカウンターの端っこでマスターとウィスキーを飲んでいた。


このお店で教えてもらったスコッチのアードベッグは今になっても飲むくらいお気に入りになった。あれはフロートで飲むととても旨い。



今日は客も少なく常連の女の子と僕、マスターとスタッフが二人の全部で五人しかいなかったので夏になるし怖い話でもしようかという事になった。


体験した話だとか人から聞いた怖い話をして、終わるとキャンドルを消す。


そしてまたそれを付けては消すという図らずも擬似百物語の様な雰囲気になった。


閉店間際に始まり雰囲気を重視して明かりはいくつかの蝋燭のものだけ


最初は怖すぎるのは止めてだとかと騒いでいたのだが場が進む内に徐々にその雰囲気に僕達は飲まれていく。


誰かの話を黙々と聞きそれ以外は無言、暗闇に包まれている店内、息遣い


纏わり付く様な生暖かい空気


何巡目かの僕の番の時に僕は完全におかしくなった。

ぶちまける様に体験した怖い話を話し出して止まらない。

自分が喋っているのか誰かに喋らされているのか分からなくなるくらい僕は一人で喋り続けた。

私の話をして!俺の事に気付いて!とあの世の者に急かされる様に


おかしいと気づいていても無言のまま聞き続ける皆と話し続ける僕。


そして、背中から肩にかけて異常に体が重たくなりそのまま僕はカウンターにうつ伏せのまま動けなくなった。

気持ちが悪い、動けない気持ち悪い上手く言葉が出てこない。


酔っているわけでも無かった。


人を背負っていると錯覚する程重たく鉛の様に動かない身体を強引に起こし呂律が回らない口でトイレで顔を洗ってくると告げる。


マスターの

「何かあった時の為に一応鍵は開けておいてな!」

と言う声にも上手く応えられずトイレに入る。


気分が悪い。

顔を洗う、悪いものを洗い流す様に。


そして鏡を見ると僕は悲鳴を上げた。


僕の目の視線が左目が下、右目が上を向いていた。

真っ直ぐ見ているにも関わらず僕の目はどこも見ていない。


思わず声を上げ両頬を叩く。


心配した皆がドアを開けた時には僕の目は元に戻っていた。


あの顔は僕では無かった、誰だったのだろう…


それから怖い話をあまりするのは止めようと思った。

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