第94話 名前で呼んでとしつこいから、仕方なく

 ライオンとトラのコーナーはさぞかし大迫力だろうと思っていたら、どちらも暑さに負けて、係の人に差し入れられた氷漬けの餌を抱えて寝転がっていた。

 こんなの、もうデカい猫じゃないか。


 しばらく行くとカワウソたちが暑さに負けず元気に目をキラキラさせており、僕の中で動物の魅力ピラミッドの構図が入れ替わった。

 走りもしないダチョウと、首を伸ばさないキリンの順位も下がり、今のところ動物園の食物連鎖の頂点はコツメカワウソと言う事になっている。


「小早川さん、ちょっと休憩しようか。動物たちほどじゃないけど、僕らも水分補給しながら回らないと、倒れちゃうよ」

「…………。あっ。うん」


 小早川さん、隣でタヌキを眺めていたカップルをさらに眺めると言う、高度な動物園の楽しみ方を披露する。

 人間も突き詰めたらただの動物だよと言う高尚な考えが見て取れて、「やるなぁ」と僕は尊敬のまなざしを向けることにした。


 涼風動物園は500メートルごとに日陰があり、ベンチが並んでいる。

 ついでに、確実に冷たいものを売る屋台も並んでいて、商魂たくましさが服を着て笑顔をこちらに向けていた。


 なるほど、20年も潰れないわけだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇



「すみません。コーラと、あとは……。小早川さん、何にする? 小早川さん?」

「あ。えと。じゃあメロンソーダがいいな」


「じゃあ、それをお願いします。はい、どうも」


 屋台の売り子のお姉さんから飲み物を受け取って、速やかに汗で失われた水分を摂取する。

 相変わらずこのクソ暑いのに手なんか繋いでいるので、余計に暑くて仕方がない。


 まったくデートと言うのも大概には面倒だなと思っていると、その不敬がデートの神様に通じたのだろうか、「では試練を与えよう」とその手に持った杖を振られた気がする。

 余計な事をするんじゃない。


「来間くん、くるま……。あの、ね。来間くん。あ、違う。えと」

「どうしたの。またなんだか歯切れが悪いと言うか。さてはしょうもない事を思い付いたね?」


「むぅぅ。しょうもなくないもん。大事でステキな事だもん」

「ほほう。それじゃあ言ってごらんよ。しょうもなくなかったら、即採用してあげるから」


「ホントに!? あのね、来間くんのこと、大晴くんって呼びたいな」

「ええ……。名前を呼ばれるのはギャルゲーのヒロインまでって決めてるんだけどなぁ」


 すると小早川さん、半分飲んでいたメロンソーダを膝に置いて、頬を膨らませる。


「来間くんがいいよって言うまで、私はメロンソーダ飲まないからね? そしたら、そのうち熱中症で倒れるよ? それでも良いんだ、来間くんは」

「まさか自分を人質にして交渉を始めるとは、驚いたなぁ」


 先ほどカップル鑑賞していた小早川さんは、見ていたのではなく聞いていたのだと理解した。

 彼らはなんだか仲良さげに名前で呼び合っていた気がする。

 三次元の事情なので確信は持てないが。


「呼び方なんて何でも良いじゃないか。呼んでいると相手が認識できたらさ」

「その言い方だと、別に名前で呼んでくれても良いと思う。もぉ」


「おお、確かに。今日の小早川さんは賢いね」

「むぅ。バカにされてる気がする。あ、そだ、来間くん。来間くん。小早川さんなんて長くて労力の無駄だよ? 美海なら二文字。ずっと楽になるよ?」


 ずいぶんと論理的な攻め方を見せる小早川さん。

 思わず「なるほどなぁ」と声が漏れた。いやいや、お見事。

 この僕を感心させるなんて、三次元にしておくにはもったいない逸材。


「僕にとってのメリットは分かったけど、そのロジックでいくと、小早川さんは僕の事を呼ぶ手間が増えているよね? 来間から大晴。ほら、一文字ほど余計に」

「来間くん、そーゆう理屈っぽいところ嫌いじゃないけど、女の子は嫌がると思うな」


 理攻めで来ていたはずの小早川さんに何故だか怒られる。

 なんたる理不尽。


 だが、彼女にしてはかなりしつこく食い下がる。

 そんなに名前で呼ばれる事は特別なのだろうか。

 少しだけ試してみたくなった。



「じゃあ、美海って呼ぶとして、例えば学校で美海の友達とかに聞かれたらどうするの? 美海だって恥ずかしいんじゃない? 僕は美海みたいに友達いないから良いけど」



 これでもかと小早川さんの名前を連呼してやった。

 すると、白い彼女の肌がなんだかピンク色に染まって行く。

 桜前線の到来だろうか。


「あぅ。そんな風に、いきなり呼ばれると、恥ずかしいよ」

「ほら。慣れない事はしない方が良いってことだよ」


 すると、小早川さんは僕の手を掴む。

 意外と力があるので、そのまま連れ去られる僕の右手。


「ヤダ。美海って呼んで欲しい。た、大晴くん。美海の前だけで良いから、美海って呼んで欲しい!」


 何だろうか、このずしんと来る衝撃は。

 別に、手を取って名前を呼ばれただけなのに。


 しかし、困った。

 こうなると、小早川さんはこちらが了承しないと梃子てこでも動かないのは良く知っている。

 僕の右手を今にも抱きしめそうな気配も、僕の判断を鈍らせた。


 後ろから、売り子のお姉さんの好奇心に満ちた視線をビシビシ感じる。

 やれやれ。根負けだ。


「……分かったよ。これから美海って呼ぶよ。美海も、僕の事を好きに呼べば?」

「ほわぁっ。私、呼び捨てで名前を呼んでもらえるの、初めて! あのね、あのね、すごく嬉しい。ホノカちゃんの事、ずっと羨ましかったの。えへへ」


 こうして僕の中で小早川さんが美海に進化した。

 進化なのかはぶっちゃけよく分からないけど、呼びやすくなったと言う事は、多分進化なのだろう。


「大晴くん。ふふっ。大晴くーん」

「用がない時は呼ばないで欲しいんだけど」


 ホノカ以外の女子に名前で呼ばれるのは初めてで、なんだか違和感がある。

 違和感の正体は分からないけど、さほど嫌な気分ではないのは何故か。


 そちらも考えたところで答えは用意されていないようなので、早々に自問を切り上げる僕だった。

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