いつか辿り着く

香月読

いつか辿り着く

 玄関の鍵を閉めてから、振り返って空を見上げた。空は澄み渡り、端に見える山に白い雲が薄らと掛かっている。時折吹く風に、隣家に生えた大きな木がくすぐったそうに葉を揺らす。気温が上がったからか、風に熱が奪われることはない。むしろ体温に近い為か心地好いくらいだ。


 今日はいい天気だ。


 小走りで河川敷まで向かう。紐をきちんと調整して締めたランニングシューズは足を包むようで、重さもなく走りやすい。新しい靴は、綺麗なままでは硬く動きにくいこともあると言う。この水色のシューズは、そんな心配が嘘のように軽やかな走りを提供してくれる。

 いち、にい、さん。地面を蹴っているのに、足の裏に力が掛からない。スキップでもしているかのような足取りになる。


 河川敷は犬の散歩をしている人が多く見られた。太陽が中天に差し掛かる頃、外を走っている自分は目を引くだろうか。

 そんな心配をしながら踏み出した足だったが、意外と他者を気にしないものらしい。こちらを見た人も、挨拶なのか会釈をしてくるくらいだ。自分が思うよりも、世界は自分に興味がないようだ。かつてあんなに欲していた目線が注がれないだけで、胸の内につかえていた何かが取り除かれた気がした。


 走る。青く茂り出した草が風に揺れる。

 走る。手を繋いだ母子とすれ違う。

 走る。川の傍でリードを外された犬が嬉しそうに駆け回っている。


 タイムを気にすることなくゆっくりと走っていた。何に追われるわけでも、何と競うわけでもない。気の向くまま自由に地面を蹴って進んで行く。たったそれだけの行動が、どれほど自分の心を満たすことか。追われていた時はわからなかったに違いない。

 

 あはは、と高い笑い声が響く。壁のない外だから反響することこそないけれど、その声はしっかり自分の耳に届いた。道の向かいから、小学生くらいの男子が二人走ってくる。兄弟だろうか、無邪気な笑みを浮かべて。フォームも何もない無茶苦茶な走り方だ。けれど彼らはとても楽しそうだった。

 まるで遊ぶように楽しそうで、息をするように自由に、二人は走って行く。横をすり抜けた時、彼らと一緒に通った風は土の匂いがした。

 振り返る。笑いながら駆ける少年二人。何の柵もない、自由な走り方が、少しだけ。本当に少しだけ、羨ましかった。



 昔は。ただ、走ることが楽しかった。走って風を起こせば、その風に乗って世界のどこにでも行ける気がした。

 地面に落とされた人間は、空を飛ぶことはできない。鳥のような羽も、蝶のような翅も持っていない。ならばどうしたら飛べるのか。幼い頃はそう思っていただけだった。空を飛べるように、風のように、速く走りたいと。


 短距離走を勧める人も多かったし、親もそうすればいいと言った。しかし自分は中距離の道を選んだ。少しでも走りたい、というだけの考えだ。マラソンは長く走ることが楽しかったけれど、風になる感覚とは少しだけ違った。ならば、と選んだのがそれだった。

 短距離よりも長くて、マラソンよりも短い。走るペースとバランスを考えて、その上で風に近くなるようで楽しかった。身体を鍛えて、教えを乞うて、ただただ走り続けた。

 色々な大会に出た。色々な選手と走った。それだけで新しい世界に飛んで行けたようで、ある意味幼い頃の夢を叶えていたのだろう。

 持て囃してくれる人がいた。褒めちぎってくれる人がいた。問題はそれを当然だと思い始めた傲慢だ。


 だからあれは、思えば罰だったのかもしれない。

 無灯火の自転車とぶつかって、左足首を負傷した。症状としては捻挫だったが、厄介な状態だったらしい。これなら骨折した方が良かったね、と言った医者の顔はもう思い出せない。

時間がかかるだけで、きちんと治療すれば問題はなかった。だから選手生命が潰えたわけではない。しかし大会に出られないと言うことは、あれだけ囃した連中が離れることを意味していた。

 何もできない。走ることを突然奪われた自分には、テレビの向こうで笑うライバルすら見ることができなかった。



 治療が終わって足がすっかり元通りになる時には、あれだけ煩わしかった周りの声は殆どなくなっていた。おかげでこうして自由に走る時間が取れたとも言えるから、世の中はわからないものだ。

 ゆっくり走ったことで、背中には汗が滲んでいた。買い直したランニングシューズは、いつの間にか埃で薄汚れている。


 さあ、と風が通り抜けて行く。

 穏やかな時間に終わりはない。競技場でないこの道に、ゴールはない。

 つまり、だ。それはゴールテープの存在しない場所を、どこまでも好きなだけ走って行けることを意味している。


 休むなと言うわけではない。しかし、ずっと走れと言うわけでもない。

 ずっと走り続けていては呼吸の仕方が変わってしまう。見える景色も変わってしまう。ならば、どうすることが最善なのか。

 それは立ち止まって振り返ること。己の踏み均した道を見つめ直すこと。何が好きで何が大切なのか忘れてしまったら、幼い頃の気持ちを失くしてしまうから。


 いつか辿り着くゴールで、それまでの気持ちを思い出せるように。


 見上げた空に、届かない白い雲があった。

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いつか辿り着く 香月読 @yomi-tsuki

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