第16話
ぐっすり寝て起きても、窓から見える外は夜のままだった。室内に時計らしきものが見当たらないので、時間がよく分からない。体感では多分数時間は寝た気がする。
(目が覚めても観測都市にいて、子供のまんまで……夢じゃ、ないんだなあ)
のっそりと体を起こせば、寝る前よりかはいくらかスムーズに起き上がることができた。空腹感はなく、ついでに排尿感などもない。トイレの場所もよく分からないから都合がいい。
サイドテーブルに用意されたシャツとズボンを見つけて着替える。ホテルなんかで見る鏡台のようだと思ったら、ホログラムめいた鏡が空中に現れた。建築様式や雰囲気としてはエルフの住まいめいているのに、この鏡といい壁面が湾曲するみたいな扉の開き方といい、近未来SFっぽくもある。
鏡の中にはくしゃくしゃにもつれた灰銀の髪と、橙の中に金を混ぜた目の子どもがいる。彩度が高めというか妙にきらきらしていて、ここのホドやメムと似た色になっている気がする。
(目が覚めたら体が縮んでいた! ってやつ、実際くらうと洒落になんないな……)
確かメムは星辰が弱いから小さな体しかつくれなかった、というようなニュアンスのことを言っていた気がする。
裸足で踏んだ床は滑らかで、見た目から想像していたより冷たくない。石のような光沢を持っているのに、感触としては木目の床に似ている。メムが部屋に入ってきた辺りの壁の前に立つと、ぐにょんと壁が
ちょっと散歩するだけ、ちょっと歩いてみるだけ。内心で、今は一緒にいないメムにも向けてそっと言い訳する。新しいマップになったらまず探索したいと思うのは、もうゲーム好きにとって自然の摂理のようなものなのだ。
誰かに咎められたり、行き止まりになったら大人しく部屋に戻るつもりだった。
五分か十分か、おそらく環状だろう回廊の景色の変わらなさに少しがっかりし始めた頃、小径の向こうが薄明るく光っているのを見つけた。進んでみればこの塔の中心部に出て、見事な吹き抜け構造の上層にいるらしい。下層を見下ろしてみたいと思って、中央に向かってせり出していく螺旋階段を道なりに上ったら、てっぺんの踊り場のような開けた場所の床がぼうと光り始めた。
(あ、これ、たぶん転移陣……)
新にも使えるならば、きっと使って怒られることもない……と思いたい。迷ったのは一瞬で、創世世界での旅で二度味わったのと同じ、奇妙な浮遊感に身を任せた。
ほんの数秒後、足元がまたしっかり床を踏みしめる感触が戻る。
移動した先は円形の広間だった。中央に、見上げる程巨大な両開きの扉が一枚ある。新が今立っている転移陣を含め、十の転移陣が円周に等間隔に並んで、扉を囲んでいる。
扉は氷かガラスめいた透き通った材質で、厚さは人一人分くらいもあるだろうか。裏も面も同じ、十一の大きな星と、それらを取り巻く星々が描かれた透明な戸板が、何の支えもなく直立している。
明らかに重要な場所に繋がる扉だ。さすがにここには入れないだろうと元の転移陣に戻ろうとした時、しゃん、と鈴のような音に足を止める。
しゃん。しゃん。しゃん。
ゆっくり、微かに響くその音と共に、扉がひとりでに開いていく。
扉の先には、夜空というか、宇宙空間が広がっていた。無数の星の光が部屋いっぱいにふわふわと漂って、時折ちかりと瞬いている。
(ここ……最初に来たとこか……?)
観測都市の名前も知らない内に、魂だけ──星辰の状態で放り出された場所を思い出す。高く遠い天井には、あの時と同じ、十一の眩しく大きな星が輝いている。
改めて見回すと、無限に広がる空間などではなく、端に壁面があるだだっ広いホールであったことに気づく。世界遺産なんかの建築のような、いやそれさえもまるごと入ってしまいそうなほど広い部屋だ。床を歩くと星屑が舞い散る。
星屑を散らしながら床──はっきりとした平面は見えないが、確かに踏める床がある──を歩いて、壁面に近づいてみる。正しくは壁ではなく、今の小さくなった新が腕を伸ばしたぐらいの大きさの板状のものがずらりと並んで、床上から天井まで伸びて、壁面を形作っているらしい。ここに入った時の扉と同じ材質だろうか、ガラスとも氷ともつかない透き通った板だ。
(鏡……か?)
自分の姿が映るわけでもないのに、鏡という言葉が浮かんだ。覗き込むといくつかの星が表面に浮き出ている。はっきり強く輝くそれらは、線を繋いで星座にできそうだ。じっと見つめ続けているうち、鏡の奥にどこかの風景が揺らいだように思った。もっとよく見ようと鏡に手をつこうとして、
「
「うわっ?」
その手を後ろから柔らかい力で包まれた。
「初めまして、小さなシン」
慌てて振り向けば、薄青の少年が立っている。髪も目も、肌の色まで薄青い。背はそれほど高くなく、元の新よりも少し低いくらいかもしれない。
「えっ、あっ。あの、入ってすいません……!」
「どの星も、いつでも歓迎。──アインだけ、今は立ち入り禁止だけど」
柔和な声音だが、喋っている中で表情がほとんど動かない。少年か少女か、機嫌がいいのか悪いのかも読み取れない。
(そういや、メムの性別すら未だに知らないんだよな……)
ぼんやりしているうち、握られていた手はゆっくり上下に動かされて、握手の格好になってからそっと離された。
「きみ、名前は?」
「あ、新です」
「アラタ。あたらしい……いい名前。ぼく、ダアトだよ」
(ダアト──シン少年とアインのいた村の名前、だ)
もしかしたら、一国の王をやっていたホドと同様に、観測都市の偉い人たち──
「ぼく、〈知識〉の星冠」
思考を読まれたようなタイミングにどきりと心臓が跳ねる。話す声と言葉だけ聞いていれば、幼いこどものように思えるのに、眼差しには深い落ち着きがあると感じる。
座って、と指し示された場所にきらきらと砂のように細かい星が集まっていくので、そこへおっかなびっくり腰を下ろせば、クッションのようにふんわりした感触で包み込まれた。
「あれ、“
細い小枝めいた指が天井を指し示す。
「橙の大きな星が、〈栄光〉ホド。隣、灰色の星、見て」
言われるまま、橙の眩い星の隣へ目を凝らす。小さく弱々しく、ちらちらと瞬く灰色の輝きが……ふたつ。
「シンの星と、アラタの星。双子の星。……シンの星、あんなに光ってたのに。もう、生まれたてのアラタと、同じ」
ダアトの声の調子は平坦なままだったが、囁きの中に、落胆か哀惜かの感情が滲んで少しだけ揺れた。
「……ごめん。観測者のシン、見つけられたんだけど。俺の連星、死なせちゃったから、もう行けないんだって」
藍川に、メムに、おそらくホドも。そしてダアト。この観測都市で新が知る数少ない人間は、皆シンの心配をしている。新は本来のシンのことを何も知らないが、少なくとも、あの世界でひとりきりで魔王なんてさせているのは良くない、と思う。創世世界で生きる人たちのためにも。
(こんなの、誰も望んでないのに。幸せになれないのに)
それでも、連星のからだをなくし、接続できなくなった新にはもう何もできない。やるせなく唇を噛む新の前に、星鏡がひとつ、すいと飛んでくる。
「きみの星、まだ、消えてない」
「え」
「見て」
覗き込めば、天井の星図と同じように、橙の星を取り巻く灰のふたつ星がある。中央で金色に強く輝くやたら眩しい星はきっとアインで、真っ赤な星の脇に控えた深紅の星はラメドだと感じた。そして背景に揺らめく、黄昏の王城の風景。
「これ、創世世界の星鏡……? でも、メムは」
創世世界の星鏡は、確かにメムが「破砕した」と言ったのを聞いた。新の連星は消え、星鏡もなくなって、もう創世世界には行けないのだと。
「ホドが、きみを、助けた。きみの連星も、星辰も、助かった。ぎりぎりで。だからメム、きみのこと、本当に心配してる。観測、まだ早いって、思ってる」
「…………ぁ、」
まだ、終わりじゃない。星鏡はここにあって、新の連星は、少年シンは、生きている。
「よかっ……」
目の奥が痛んで、ぎゅっと熱くなって、吐いた息が震える。少年シンを死なせてしまったことを、アインたちにもう会えないことを、観測者のシンを魔王のまま残してしまったことを、思う以上に後悔していたのだと知る。
「きみが、行くのなら。……シン、助けてあげて。きっと、苦しんでいる」
「うん。助けたい。今度こそ、ちゃんと、連れて帰ってくる」
目元を擦って深呼吸する。星鏡の向こうに透けたダアトの顔が、無表情の中にもどこか緩んだ気がした。
「そろそろ、ねむった方がいい。……迎えも来た」
ダアトに促されて部屋から出る。一度ダアトの方を振り返ると、すい、と片手を上げてくれた。それに軽く会釈しつつ扉をくぐろうとして、ぼすんと柔らかい壁にぶつかる。
「んが」
壁というか、立ち塞がる人間だった。橙の丈の長い服を着た男性の骨格で、目の前の腰元から胸、喉、顔と目線を上げていって、黄昏の瞳を目にした瞬間にがっと下を向く。
(ほ、ホドだ────!!)
うっかり見てしまった色にぞぞぞ、と背中が震えて、今すぐここから逃げ出したい。俯いたまま今出てきたばかりの扉に後ずさろうとして、その前に脇の下に大きな両手を差し込まれて、あっさり持ち上げられてしまった。
(ひえ)
細っこい子供の体だから体重も軽いのだろうが、もう何年も誰かに抱き上げられるなんて経験していない。急に遠くなった床が、ぶらんと揺れる足が結構怖い。腕に座らされて縦抱きにされているようだが、何も見たくなくてきつく目を閉じた。
「……メムが探していた」
「ヒッ、ハイ、すみません……!!」
こつこつと硬質な足音、少しの浮遊感、それからまた靴音。転移陣で移動する気配に薄目を開けると、見覚えのある青白い回廊に戻ってきている。
(今更だけど自分で歩くべき? でも逃げるって思われる?)
よく知らない、見た目も雰囲気も苦手な大人の男性相手に、どう振る舞うのが正解か分からない。がちがちに強張ったままでいる新のからだが、とん、とひとつ叩かれる。肩から少し力が抜けて。
もうひとつとんと押されて、胸元に耳が当たった。
(──あ)
あたたかい。光、いや、星がある。
このひとの体の中に、橙の温かくて大きな星がある、と感じた。そして新のこの小さなからだの中にも、同じかけらがある。目には見えなくとも確かな繋がりがあって、同じものでできている。
観測者のシンがホドから力を与えられて、その力を切り分けて生まれたのが新なのだと藍川が言っていた。それを今、理屈ではなく感覚で納得した。
父のようなもの、とメムは言ったけれど。地球世界での父とは全く違うものだ。苦手だとか居た堪れないとかの感情は置き去りにして、自分の「もと」がこの人なのだとどうしようもなく分かってしまう。血の繋がりよりももっと明確に、存在が結びついている。
この人のために死にたい、消えたいと願ってしまったシンの気持ちが、少しだけ理解できる気がする。
(こんなにも強くて眩しくて、あたたかい星を、ずっと見てきたなら)
ホドの名を呼んで暗い鍾乳洞の天井を仰いだシンの表情が、峻国で見た星の飾りに手を伸ばした子どもと重なる。
ずっと仰ぎ見ていた星が消えたら。
大切に思う身近な人間の喪失を、新はまだ経験したことがない。
そしてその星を受け継いで──成り代わる。
(シンには、それが、どうしても嫌なんだ)
何度も殺して殺される、というようなことを言っていた気がする。創世世界で魔王になったシンは、世界ごと自分の星を傷つけて弱らせて、消そうとしているのだ。
(……ばかだな)
シンを助けてやりたい、と初めて思った。他の誰かや、新自身を助けるためではなくて、シンを救って、ホドに会わせなければと思った。
星の定めや役割、星冠や星径、観測都市のことも観測者のことも新にはよく分からないけれど。
生きているものは、いつか死ぬものだ。どんなに大切に思っていても、必ず別れの時は来る。その別れを受け入れられずに、自分と他人を巻き込んで大騒ぎを起こしたシンは、大馬鹿者の大迷惑野郎だ。
けれどもう、他人とは思えない。藍川に頼まれて、メムからも話を聞いて、ホドの星の光を知ってしまったから。
(バカ
あたたかな揺り籠に揺られるような心地のまま、心を決める。
「俺の連星、助けてくれて、ありがとうございました。──シンは必ず、連れて帰ります」
ダアトに言った言葉に重ねて、ホドにも宣言する。ぎりぎり視界に入れた顎先が僅かに動いて、頷きが返ったと分かる。
シンの星が審判を司るというなら、きっと新はシンを裁くためにシンから分かれて生まれたのだ。
静かに降ろされた先は、新の部屋の前だった。
「メムには言っておく。よく休むように」
「はい。……おやすみなさい」
シンを助けて、黄昏と向き合えるようになったなら、このひとの目を見て挨拶ができるようになるといい。
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