第12話
バキ、とどこかくぐもった音に目を開ける。アインがラメドの顔を思いっきり殴ったところだった。新の背中には硬い感触があって、湖のほとりの木を背もたれに座っているようだ。毛布がわりにかけられた外套の、腹のあたりに回復の水薬の瓶が乗せられている。持ち上げただけでも震える手でゆっくり飲み干すと、体がいくらかすっきりしてくる。
「……オレを試すのに、シンまで巻き込むな!」
アインの、激情を無理やり押し潰したような声が遠く聞こえる。
「私は貴方方ふたりともの力を正しく把握する必要があった。実際、シンもいなければ危うかったでしょう」
「だからって!」
剣の柄に伸ばされた手に向かって空になった瓶を投げつける。外れて地面に転がったが、アインの行動は止められたから問題ない。
「治癒士の仕事を増やすな……」
殴ったアインとおとなしく殴られたラメド、どちらの気持ちも分かるが、面倒くさいことこの上ない。水薬で回復させたささやかな魔力をすり減らしてふたりともに治癒をかける。座ったままでは格好つかないが、立ち上がれないからしょうがない。
「アイン。ラメドの言うことには一理ある。俺は実戦経験がほとんどないし、治癒と補助術がどれくらい使えるかも自分で分かってなかった。だから今日はいい勉強になった」
「……ええ。貴方の後方支援は的確でした。更に経験を積んで体力をつければ、従軍治癒士にもなれるでしょう」
「だから軍人にはならないしなりたくもないんだって。……俺にはお前らみたいに宝器はない。峻国で聖錫を手に入れられても、使えるようになるか分からない。でもただの足手纏いになるんじゃなくて、思ったよりやれそうだって分かったのはよかった。あの大魔を俺たちが倒せなかったら、街に被害が出てたかもしれないし。──今の戦いには、いくつも意味があった」
「…………」
アインが唇を噛んで顔を逸らす。アインがそうやって言葉を飲み込んで、言いたいことをぶつけてこないのは、新が頼りないせいかもしれないとふと思う。
「……でも俺の代わりにアインに怪我させたし、悪かった。それからラメドも、考えてることは先に教えてほしい。俺はあらかじめ心の準備をしたいタイプだから」
「……分かりました」
互いに譲歩して妥協点を探る。今日のことは、大魔戦になるだろうと予測しながらラメドを止めなかった新も同罪だ。だからそれで新は納得したのだが、むしろラメドの方が納得のいかない顔でため息をこぼした。
「シン、貴方は……思い切りが良すぎる。……治癒士の最も重要な仕事は何だと思いますか」
わざわざラメドは地面に膝をつき、新へ視線の高さを合わせて訊いてくる。
「えーと、死なせないこと」
「いいえ、それは誤りです。まず、“己が生き残ること”です」
回復役の鉄則を答えたのにばっさり切られた。
「治癒士が
従軍の予定はないが、ラメドの言いたいことは分かる。ヒーラーのいない戦闘の心許なさはゲームでだって理解できる。
「もしも貴方が死ぬ時、貴方は満足しているかもしれない。貴方を生かしたいと、共に生き延びたいと願った者の絶望を知らないままで」
ぼんやりとアインの方を見やれば、少し離れたところで汗みずくの苦々しい顔がこちらを見ていた。傷だけは治したが、血と泥と汗でどろどろの顔だ。それがふと、ベランダから飛び降りた新を助けた藍川の顔と重なった。
(アインは。……藍川も。
あの時の藍川は、観測都市に自身の“不正観測”が見つかるリスクを犯しても新を助けたのだと、メムとの会話で知った。
(──“観測者のシン”の存在を知って。俺をシンって呼んでたのも、何度も死にかけるのを止めてたのも、全部そっちのシンのためだった、って思ったけど──……俺、自分のことしか考えてなかったんだな)
藍川の考えは本人に直接聞くまで分からない。だが、“少年シンを死なせたくないアイン”の気持ちは、忘れないようにしようと思った。
(だって
まだ動けない新のために、ラメドが「周囲の索敵をしてきます」と言って森に入っていった。所在なさそうなアインへ、「顔でも洗ってくれば」と湖を指差す。大魔が消滅した後の水、と思うと飲む気にはなれないが、この世界では魔物は煤になって消えるので血も肉も残らない。水は綺麗なはずだ。アインを送り出して、新は外套を枕にして本格的に横になる。
戻ってきたアインは甲斐甲斐しく新の腕や顔を濡らした布で拭い始めて、放置していた切り傷に軟膏まで塗ってくれる。世話焼きなのは兄ゆえかもしれないが、同年でしかも藍川と同じ顔にそうされるのはどうにも居心地が悪い。が、ろくに動けないし心配をかけた手前、大人しく手当てを受ける。
「……アイツが言ったことだと思うと癪だけど。治癒士は生き残るのが仕事なんだから、自分の分も回復手段は残しておいてくれよ。オレじゃ治してやれないんだ」
「……後でちゃんと治すし」
「頼むから、無理はしないでくれ」
「……反省したけど、でもそれはお前もだからな……」
アインだって、新を、シンを庇って無茶を度々やらかしている。
(んん、でも少年シンのからだが死なないように、俺が自分でもっと気をつけなきゃなんだろうな……)
一通り手当てを終え、満足した様子でアインも隣に腰を落ち着けた。
ここは村近くの森と植生が似ているせいか、雰囲気も慣れ親しんだ場所に近い気がする。アインの気配も緩んだようだった。
「アイツのやり方は許せないが、気持ちは……分からないでもない、と思う」
ラメドとアインの間の溝をどう埋めていくべきか、口を挟んでいいものか迷っていたのだが、アインは新が思うより冷静だった。
「宝器と仲間を失って。聖剣の遣い手はオレみたいなガキで。使えるかどうか試して、ダメならさっさと見切りをつけるつもりだったんだろう」
アインが悔しそうに髪をかき混ぜる。
「ラメドは俺のことも試してたよ。さすがに本当に死ぬようなことにはならなかったと思う。……多分、いざとなったら俺たちを逃して、ラメドだけで戦うぐらいのつもりで来たんじゃないかな」
三人とも死に急ぐところがあるなんて、まったく危なっかしいパーティだけれど。
「大人だし軍人だし、非情な判断をすることもあるんだろうけど。多分ラメドは、俺たちのこと、見捨てない。見捨てられない。……だから俺たちも、ラメドのこと、見捨てないでいよう」
やわらかい木漏れ日を見上げて言う。日差しが眩しくて、あたたかくて、生きていることを実感する。
三人とも、死に急ぐような無茶をするのは、誰かをもう死なせたくないからだ。そのためなら自分の命を使ってもいいと、思ってしまうからだ。
「……シンが、それでいいなら」
はああ、と大きく息を吐き出して、アインも同じように空を見上げた。
「うん。だからもう、突っかかるのはやめろよ」
ギスギスしていてもいいことなど何もないからそう言ったのに、はあああああ、とさっきよりも盛大な溜息をつかれた。
「…………シンは警戒心が足りなさすぎるんだ。よく知らない人間のこと、せめて最初ぐらいはちゃんと警戒した方がいい。他人にもらったものをすぐ口にするのもどうかと思う」
「アインが警戒しすぎ。俺たちに一服盛ったって誰にも何のメリットもないだろ」
「……いえ、アインの警戒は正しいですよ。シン、貴方はもっと、自分の身の安全に配慮すべきです」
戻ってきたラメドにも呆れられてしまった。
結局新は最後まで立ち上がれなくて、いよいよ眠気にも勝てなくなってきたので、アインに負ぶられて街へ戻ることになった。屈辱的だが仕方ない。不貞寝のつもりで目を閉じれば、ゆらゆらと揺れるせいで本当にだんだん眠くなってくる。
実際に少し眠っていたのかもしれない。アインの声が遠く聞こえる。
「……治癒士の素養があったって、シンは元々戦う人間じゃない。……オレに付き合わせたみたいなもので」
アインの言葉を否定したいと思ったが、口はうまく動かなかった。
「戦う意志も、生き残る意志も薄いシンは危うい。それを支えとする貴方も同じです」
前を歩くラメドが、今までよりもずっと冷たく硬い声で言う。
「危ういって、死ぬ思いさせたアンタが言うのか。大魔を憎んでるのはアンタも同じだろ。……アンタもオレも、とにかく大魔を殺したくて仕方ないんだ」
「……否定はしません。──本来ならば、貴方方を戦わせるのなら戦闘経験をもっと積ませるべきであると、分かってはいるのです。宝器の遣い手をこれ以上失うわけにはいかない。若者を無為に死なせたいわけでもない」
しかし時間がないのです、とラメドが絞り出す。
「峻国の地下聖堂の封印はいつまでもつか分かりません」
「宝器の遣い手を三人も殺した大魔……」
「……ええ。峻国のテットとヘットとは、兄弟のように育ちました。宝器に選ばれ、今代こそ魔王を完全に討ち滅ぼすのだと誓って厳しい訓練を積んできた。けれど結果は大魔への惨敗です。ザインは最後の力で大魔を封印し、私ひとりを生かして死んでいった。……──これから我々が向かわねばならないのは、そういった死地なのです。それでも、戦えますか」
アインの足が止まり、ややあってからまた動き出す。
「……行くしかない。他にやれることも、やりたいこともない。オレも、アンタも」
でも、とアインは言葉を区切って、けれど続きは何も言わなかった。
「……優秀な治癒士は戦いに必要です。連れて行かざるをえない。ですが……」
ラメドも続きは濁した。それきり沈黙が降りる。目は覚めてきたが、体はまともに動かないままだったので、寝たふりを続ける。
ラメドが試したかったのは、やはり新の方だった。治癒士といえど宝器の遣い手でもない、アインのおまけでしかない新を、この先の戦いに連れていけるのか測られていた。死なせてしまった治癒士への後悔もあるだろう。
(俺も、死なせたくない。アインも、ラメドも、誰も)
大魔が待ち受ける地下神殿。そこに魔王になったシンもいるのだろうか。
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