第2話
「火と花」 二
寝床から起き出すと時計は九時三分を指している。完全に遅刻の時間だった。昨日の散歩を始めたのが九時ごろで、家にたどり着いたのが十時過ぎ。それから湯船に浸かって、傷口にお湯がかからないようにするのに苦労した。でも、お湯がはねて傷にかかった時の痛みに、一瞬体を縮こませる自分はやっぱりかわいそうに感じられて、痛みは良いものだなあ、なんて考えていたのだった。
お風呂から出ると、やることも無くて、すぐに歯を磨いて布団に入った。それがまだ十一時前のこと。でもそんな時間に寝ようとしても小学生じゃないんだから、全然眠れない。私は棚の菊池寛や志賀直哉なんかの文庫本を引っ張り出して読み始めた。漫画ですらなく文庫本。この辺に私の陰キャラの病巣があるのかも。
いくつかの短編を拾い読みして、気が付いたのが夜中の三時過ぎ。もう四時になろうとしていた。さすがにもう寝ようと決めて、もう一度布団に入ると思いのほかすぐに眠れて、起きたら今の状態になっていた。
五時間の睡眠は、寝ていないとは言えないけれど、「学校に行くことが憂鬱だ」なんて、そんな無気力が眠気を増幅させているんだろう。もういっそ休んでしまおうか。そう考えたけれど、生徒指導室の齋藤の「生徒指導」は耐え難い。生徒指導室では「どういうつもりなんだ」という斎藤と「すみません」という私の無気力な返事が延々と続くだけ。不毛で体力の無駄使い。不快感が形になったような斎藤の薄くなった髪とタバコ臭い息を回避するという理由のためだけに、私は仕方なしに着替えを始めた。遅刻だから学校に行かないということをしないのは、良くも悪くも斎藤の存在があるからだ。そのうち学校から「先生、あなたのおかげで生徒の欠席が減りましたよ」なんて言われるかもね。良かったですね。そして死ねばいいのにね。まあ、どちらにせよ私は指導の対象なのでしょうけど。
だらだらと、ヒダの乱れたスカートをはいて、ブラウスの上にダサいセーラー服を頭からかぶる。シワがよっていようがどうでもいい。タンスから引っ張り出した靴下は履かずにポケットに詰めると、私は鞄の中身も確認せずに、これまたゆっくりと階段を降りていった。
「おはよう」
洗面所へ行こうとすると母と出くわした。でも彼女はいつものように、
「何か食べる?」
とだけ乾いた口調で訊ねただけで、私が学校へ急ごうともしないことをとやかく言ったりはしない。
「いい」
「そう……」
ごく短いやり取りだけが交わされて、私達はどこか壊れている筈なのに、「暮らし」のような現象は何事も無かったかのように進んでいく。それは、とても恐ろしい現実の痛みを伴ってのしかかってくる。おかしな現実と、普通の現実のどこが違うのか私には分からなくなりかけていた。だって「毎日」は狂っていても、おかしくても、私を置き去りにしてどんどん進んでいってしまうのだから。
はだしのまま靴を履くと、足の裏や側面にひたひたとした、皮の感触がまとわりついた。その感触の向こうには、靴の芯の堅さが表れて痛かった。
「やっぱりおかしい」世界で生きる痛みなんかに対して、そう独り言をつぶやきながら学校へと向かう。空は晴れて、一人だけ世界がおかしいなんて言ってる私の方が、よっぽどおかしいのかもしれない。歩道には犬を散歩させる老人とか、だらけた格好の中年の男が、ぽつんぽつんとさまよっている。どこかすっとぼけた、間の抜けた平和がそこにはあった。「だからなんだよ」と、「無意味」ってやつにしっぽがあるのなら踏みつけてやりたいと、地面を踏みつけるけれど、現実は、石ころがはじけて散歩中の犬に当たってぎゃんぎゃんと吠えられただけだった。あからさまに嫌悪感の表れた目で私を見る飼い主のじじいを無視して、私は足を止めずによろよろと学校へ向かった。
校門をくぐって上履きをはいて校舎に上がる。三年の教室の前を通ると、いつものめまいがした。九月の始め、中学は始業式が終わったばかりだけれど、もうすぐやってくる受験のために三年の教室はだんだんと息苦しい空気に変わって行きつつあったから。その息苦しさとめまいの原因は分からない。だけど何のために息苦しくなっているのか分からないのは、みんな同じなのだと思う。みんな圧迫されて、息の苦しさに追い立てられて勉強している。私はそんなふうに、得体の知れないものにせっつかれたから勉強をしなくちゃいけないと思ってる奴らを見るとめまいがするのだ。なんで人は意味も無く自分を押しつぶすのだろう。そして私が一番きらいなのは、自分を押しつぶしているのが自分自身だってことに気がついていない人間の群れ。だからめまいは止まらない。
齋藤に見つからないように、あたりを警戒しながら教室に入ると、二時間目と三時間目の間の休み時間で、塾の宿題や英単語帖を開いている子もいた。
「おはようございます。社長」
「何それ」
自分の席に着くと、前の席の海がニヤ付いた顔を向けていた。本当は海と書いてマリン。でもそれだと普通じゃなさ過ぎるからマリになったらしい。どちらにしても変わりは無いような気もするけれど、俗に言うキラキラネームが彼女の名前だった。薄い化粧をして、耳たぶにはピアスの穴が小さく空いている。私服のスカートなんて短くて階段の下から覗いたら中が見えるくらいだった。「色々都合がいいんだよ。おっさんとかにはね」と、恐ろしい世界の言葉を語っていた。
学校のスカートは短くしてもダサいから短くしないと言っていた。髪は明るい茶色に染めていて、地毛ですというのが彼女の言い分。先生達もそんなことは嘘だと分かっているけれど、度重なる注意の末、全く従わない彼女に注意なんて無意味だと結論づけたのか、問題を起こさない限り何も言わなくなった。今日も名前に恥じぬキラキラっぷりだ。
「だってあんた、いつも重役出勤だし」
「まあ、確かに」
私は頷いてもう一度席に座り直すと、
「あんたのとこさあ……」
彼女は思い出したようにつぶやいて見せた。
「親は何にも言わないの? 受験あるのに毎日遅刻だし、勉強してないし」
その質問は突然で、でも現実的なその問いは普通と言えば普通だけど、その質問が彼女の口から出たことが私には驚きだった。彼女の見た目からは、そんな質問がくるなんて思ってもみなかったから。
「何、どうしたの急に」
受験とか成績なんて無関係な彼女がそんなことを大真面目に聞いてくることが可笑しくて、私は笑いながら訊ね返した。
「いや、別に。興味本位で聞いてみただけ。あんたのとこ親の学歴とか高いんでしょ? 二年の時なんて、進路で大喧嘩したって聞いてるし、今はどうしちゃったのかなあ、なんて気になっただけ」
「どうもしてないよ。ただ飽きただけだと思う。私に何言ったって無駄だって諦めたんじゃない? 私、バンドマンになる、なんて言い張ってたから。あ、でも一番の原因はお父さん死んだことかな。一番うるさかったし」
「ふーん」
聞くだけ聞いておいて、父親が死んだと言われたのに、全く動じてないような無反応。「少しは反応しろよ」と、話を続けたくなってしまう。自分でも興味が無いと思い込んでいる事なのに、人に無反応でいられると、少しだけかまって欲しくなってしまう自分がいやになる。彼女は新手の聞き上手なのかもしれないな、なんてことが頭をよぎる。だから、私はまんまとそれに乗ってしまう。
「高校でやりたいことなんて無いし、人の言う通りに生きてていいのか分からなくなったの。無理なような気もするし、まだあきらめ切れてない気もするけど」
「なんだそれ」
「虚無主義?」と言ったら笑われた。
何かの本の影響だろうけど、と昨日の哲学ごっこの間に考えたことを付け足して気を引こうとしたら、彼女はいかにも真面目そうな顔をして、どこか一点だけを見つめるように考え込み始めてしまった。
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