モネ
くらくらと酩酊感。ふらふらと街を歩く。覚束無い足取りでは、ひとりで家まで帰ることなど不可能に近いが、本能は覚えていた道を進んでいく。電車を知らない街で降りた。気持ち悪くなって世界が逆転して、そこからは何もないようだった。脳が焼けたような心地に襲われ、胃の中を回る液体がぐっと水位をあげる。気持ちが悪い、と脳が感知した直後、仕方なくその辺に吐こうとして、周りを見渡すも公衆トイレどころかビニール袋一枚すら転がっておらず、諦めながら視線をふわりと上に移した時だった。
「う、わぁ」
震えて勝手に開く口からどろどろと胃液を吐き出し、住宅街と思わしき、道路で立ち止まり。すべてが夢でも見ているかのようにスローモーションになる、この宇宙ごと止まってしまったかのような超越空間の中で、それは浮遊していた。
□
それは規則正しくくるくると回りながら、私の机から二十センチくらい上空をさまよい続ける。あの日私が捕獲したUFOの子供(と、私は思うしかなかった。小さな小さな怪異だった)は、私によってモネと名付けられ、青い機体を回転させ続けている。その軌跡にはうっすらと銀色の線が見えて、こんなに小さいものに、銀河というものを知らされた気持ちになった。私はモネを初めて見た時、地獄からの迎えかと思ったが、この別世界からの物体Xに悪意がないことを知ると、ただ黙って家に持ちかえるしかできなかった。友達より早くゲームをクリアして、ネタバレの宝物を見つけてしまったような気がして、誰にも報告などできなかった。私の机の上でモネは回り続けている。私の机の上でモネは回り続けている。
□
「ヤスダさあ、もうちょっと加減とかできないわけ?大体うちのチームがこう、追いやられてるのもさ、あんたのせいだし」
「はいはい、承知ぃ」
時は2022年。都内恵比寿の小劇場廊下に、カツカツとヒールの音が鳴る。ヤスダと呼ばれた少女は、意地悪そうに笑って敬礼のようなポーズをした。隣を歩く同い年くらいの娘は、はあーっとため息をついて呆れ、小言を吐き出そうとするけれど、何を言っても無意味だと感じたのか、静かな劇場を進み続ける。
「モネこそさ、ちゃんとしなよ、まだ具合悪いんでしょ」
「うっるさいなあ……あの日は本当に、酔ってたってか、気持ち悪くて……」
「お偉いさんたち怒ってたよ、あんたが中抜けして帰ったって」
「そんなんどうでもいいし、てか、私さ、」
UFO捕まえたんだよね、と喉元まで声が出かかる。どうにか飲み込むも、あの日の嘔吐物のように勝手に溢れ出そうで仕方がない。モネという名の少女は、ごくりと唾を下してそれを誤魔化した。アイドルだってトイレには行くし、道で吐くし、UFOだって捕まえる。
「はあ、めんどいなあ……」
次の公演は十五時から。二人はほかのメンバーが居るやや大きめの楽屋に戻ることになっている。今やもう聞きなれたアイドルソングや客の歓声も構わず、UFOは今も机の上で回り続けている。
□
「名前、変えられるなら何がいい?」
「なんで?」
「え、あー、いや、天音ちゃんてさ、あんま天音って感じしないじゃん」
「……まあ、天から恵まれた音楽のセンスは、ないよね」
「そういう事じゃなくてさあ、ほら、ステージに上がってる時の天音ちゃんと、今こうやって話してる陰キャラオタクの天音ちゃんは別人じゃん」
「そんなつもりないけどね」
「そう見えるんだって。人格が変わったみたいになるの、本当に!天音ちゃんとあの子は別人だよ。だから、」
「名前をつけてやれってこと?」
「そうそう!芸名って目立つじゃん、売れるじゃん、確定ルートじゃん」
「はあ……」
「ま、考えといてよ」
□
私の机の上で回り続けている。
モネは、一晩で世界を征服した。次の日私が朝起きてテレビをつけると、トーワモネという名前のアイドルが生放送に出演していた。少女は長い髪を揺らして、にっこりと笑っている。まるで人間味がなくて、作り物みたいで、それは、昨日拾ったUFOのようで、てか、UFO拾うってどういうこと?いや、そんなんどうでもいいじゃん、こっから無理やりこじつけて最後まで書きなよ。えーなんで、だるい、録画した番組見たい、TVerの配信すぐ終わるよなあれ、なんであんな終わるの早いん、見逃しリストとか通知とか送れるようにして欲しいわ全く
2022年、都内某所。産声を上げた小さな命に、母親は「もね」と名付けた。どんな漢字を当てるのかと楽しそうに親族に聞かれるも、それはまだ考えていないようで、候補をいくつかあげて黙り込む。平仮名か、カタカナが良いんじゃないの、可愛くて。え、名付けってもっとちゃんとやるべきなんじゃない? 今の時代、誰でもペンネームみたいな、ラジオネームみたいな、別の名前を持っているものよ。それは、あなたも私も。だから、いまはひとまず、呼びたい名で呼んであげればいいんだよと笑いかける。
モネは一晩で世界を征服した。あなたの前にも私の前にもこれから増えつづけていくであろう。たった今、目の前の作家がモネになった。
おしまい
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