2021 2/14

 ぱちくりと開いた目が、小さな金魚鉢を覗き込んでいる。硝子の中で揺れる水草と、赤と透明の間を彷徨う尻尾。人間が近付いてきてはぱくぱくと餌をねだり、ばらまいたフレークを我先にとつつきはじめる。

 明るくも暗くもない朝に、その少女は問う。


 「この子達は、ロガエスの書をどう解読するのかしら」


一 朝


 せんせえ、変なの。変なの。日差しの弱い朝、ぜいたくをして砂糖一、ミルク二の珈琲を作っていたら、急に地下へ行って埃だらけの哲学書を山積みにして戻ってくるんですもの。それからまた喉が渇いて、メロンソーダをストローでぶくぶく泡立てていたら「金魚のようで下品だ」と睨みつけるし。仕方なくうたた寝をしていたら、事務所の日陰でゆらゆらしている金魚たちが目に入って、あたしがなんともなしに発した「金魚はロガエスの書をどう解読するのかしら」という言葉に、先生は少しだけ驚いた顔をして、そして、取り憑かれたように書物を漁り始めて。ぽかんとするあたしを他所に、先生は貴重な文献をばさり、ばさりと床に散らしながら、その綺麗な形の頭を抱え、床に座り込み、嗚咽混じりに咳き込んで、ギリギリの呼吸を保っているんだもの。絶対に変よ。

 使用人のあたしは先生に駆け寄って、携帯している喘息用の吸引器を取り出した。せんせえ、大丈夫? の言葉と共に。先生はよれたシャツを握りしめ、ただの発作だ、と息も絶え絶えに答えた。先生は時々こうやって苦しそうにして、あたしを突き放すけれど、あたしは放っておけないわ。だって、あたしは使用人で、先生が好きなんだもの。チューブを咥えるその薄い唇も、真っ黒の細い髪も、気だるそうで光のない瞳も、ちょっと変なところも全部好き。ワイシャツの奥から覗く、腕の白さも。そのまた奥の、傷だらけの細い体も。


 ロガエスの書は、解読不能の天使エノク語で書かれた文書。昔の偉い人は、「神の言葉の書」と呼んだ。アダムとイブの時代からの天使の記録が書いてあるらしいけど、重要なのはそこじゃない。


「金魚たちは、これをどう解読して、どう解釈するのかしら?」


 餌のフレークを撒きながら、透明な水の中を泳ぎ回る三匹の金魚に尋ねる。

 落ち着いた先生を、事務所のソファーに横にした。身長百五十にも満たないあたしが、百八十をゆうに越える先生を運ぶのは大変だった。同期だったリヱ子ちゃんに相談をしたら「地下に台車があるでしょう。あれで運ぶのよ」と言われたことを思い出して、くす、と思い出し笑いをしたら、毛布を被って寝ている先生に睨まれた。大丈夫よ、先生。あたしは先生の好きな歌を口ずさみながら、珈琲を淹れる簡単なお仕事に戻る。先生は寝返りをうって、カーテンの外の果実園を眺めているようだった。



二 昼


 ・先生とは、小説家である。

 ・先生は事務所の地下で暮らしている。

 ・あたしは先生の使用人である。

 ・リヱ子ちゃんは先月行方不明になった、同期の使用人である。


 先生は食事を摂らない。いち使用人として、あたしは不安で不安で、無理やりハンバーグを口に運んでみたら、気持ちが悪いと拒絶された。お肉が上手く焼けたのに、としゅんとしてしまったのが顔や態度に出ていたのか、次の日のシーザーサラダは食べてくれた。しかし、先生が事務所で食事をしているところなんて、原稿の横にある小さな籠に詰めたパインアメを舐めている瞬間しか見たことがないわ。食事しているところを他人に見られたくないっていう神経質な人も近頃居るみたいだし、あたしが休憩や事務所外の出来事に対応している間にこっそり摂っているんだろうけれど。ふん、先生のばか。あたしは、ふたりで食卓を囲みたいわ。ああでも、事務所の机は散らかっているから、まずはお掃除からね。


 「せんせえ、お掃除できた?頭の中、すっきりしたぁ?」

 「……」


 先生は、昨日の過ぎた話題を持ち出して自論を展開することは好まない。ただし、一部を除いて。


 「……答えは、チョキだ。前提として、この遊びは僕とお前のみで行うものとする。そして、お前はグーとチョキとパーを寸分の狂いもなく同じ確率で出す。昨日お前は『グリコで負けたくない、お菓子が欲しいから』と言った。必ず勝ちたいのではなく、『負けなければよい』。勝った分の歩が多く、負けた方の歩が少ない。最低保証利益だけを考えると、チョキだけを出し続けるのが無難だ」

 「あは、あはは!せんせえったら、昨日あたしが言った戯言を覚えていらっしゃったのね。グリコなんて、もともと遊戯として成り立っていないじゃないの」


 先生の首襟をぐいっと引っ張った。途端に息が苦しくなった先生はあたしを見上げて、金魚みたいにぱくぱくと息を吸おうとする。長い前髪の向こうにある真っ黒な目は、あたしすら写さない。見えるのは深淵の向こうの虚無だけ。甘言を欲する気持ちさえ、もう彼には無いのだと思うと、あたしはぞくぞくするわ。


 「あたり。チョコレートよ、せんせい」


 あたしはポケットにひとつだけ入れていたミルクチョコレートの包みを外し、優しく噛んだ。そして、ソファーに寝転がったままの先生に覆い被さるようにキスをする。椿の花の良い香り。地下室のお香の匂いがとろとろ頭を支配する。互いの舌で溶かし合いながらの、甘い甘い口付け。こういう時は目を閉じるって少女漫画で習ったけれど、先生はきっと目は開けっ放しで、なんにもないところをぼんやり見てるんだわ。指を首元に這わすと、首輪の跡がくっきりと残っていて、あたしはよりいっそう彼が愛おしくなって抱きしめた。


三 夜


 無限の書物と、埃をかぶったアンティーク物の瓦礫。彼の父が表彰された額縁、そして真ん中に置かれた純白のステージ。どこからか流れる掠れた音のオルガンはベートーヴェンの「月光」を奏でている。薄暗い地下室に降り注ぐ、一筋の光は廃墟に差し込むスポットライトのようだった。劇場に降り立った少女はくるくる踊る。椿の花の香りで充ちた部屋の隅に、リヱ子の死体がぶら下がっていた。


 「せんせえ、どうしてハンバーグは食べてくれないの」


 玉座に縛り付けられている男は何も答えない。

 月の光だけがちらちらと応答した。演劇の次のセリフを読むかのように、少女は続ける。


 「せんせえ、ソースをかけたお野菜なら食べてくれるわよね」


 崇高なる晩餐の時間。少女はぱっ、と振り返り、手を叩いた。男は最後の抵抗で歯を食いしばる。少女は簡単に、まるで部屋着のワンピースのリボンを解くように、男の衣服をほどき、にっこりと微笑んだ。少女の瞳には月光の薄青が滲んでいる。対して男の眼には、もう何も写っていないようだった。

 躊躇なく脱がされた衣服類が、すとんとステージ外に落ちる。少女は一瞬だけそちらを見たが、すぐに笑顔に戻って男を見上げた。なんの返事も返ってこないとわかっていても、少女は話しかけるのをやめない。壊れたおもちゃで何年も何年も遊び続ける幼児のようであり、この空間は純粋な狂気で満ち溢れていた。


 「あーっ、もう、せんせえったらぁ」

 「…………ぐ、ぅ……」

 「あたしの唾液、混ざっちゃうけど、いいよね。それともまたチョコレートがいい? せんせえ、あたしね、実は知ってるのよ。餌が欲しくて主人に媚びる金魚は、ロガエスの書の解読ができるって」


 うふふ、せんせいが天使であたしが博士。今から交霊実験をするの。そして神聖な月の光の下、朝まで愛し合うのよ。年端もいかぬ少女がけたけたと笑う。一人芝居と化した劇場で、オルガンすらかき消す笑い声が、荘厳な地下の書物庫に響き渡り、何度も木霊する。


 「ねえ、せんせえ。あたしより先に未解読言語で『あいしてる』って言えたら、あたしは使用人を辞めてどこかへ行くわ。リヱ子ちゃんでもユリ子ちゃんでも、また可愛らしい女の子を雇って暮らせばいいじゃない」


 せんせえ、と呼ばれた男は何も応答しなかった。やはり動かぬ玩具、腕白な少女にとってはつまらない物なのだろう。途端に退屈そうな表情になる。しかし、興味を示すある一点が指の刺激によりぴくりと動いたのを見て、少女はまたその幼い顔にぱあっと喜びを宿した。


 「あっ、あはは、あはは! 結局あたしのこと好きなんじゃん、手離したくないんじゃん! ふふ、せんせえ、可愛いからいいよ。日本語でも英語でもエスペラント語でも。ロガエスなんて偽書よ。真実の言葉で『あいしてる』って言えたら、あたし、全部許してあげちゃう」


 月の影が落ち始めていた。劇場に響き渡るのは少女が発する魔女のような甲だかい金切り声のみ。精気を失った男はもう抗う気力も無いといったように項垂れ、長い前髪からは雫がぽつりと華奢な体に落ちる。そして数秒後、表情ひとつ変えず、小さく口を開いた。


 「…………ぁ、い……し……」

 「あはは、あは、あーっはっは! ふふ、そうよね! せんせえは、あたしを『あいしてる』んだわ、ニセモノでない、他のどの使用人よりも優秀なこのあたしを!」


 囁くよりも小さな愛の言葉を、悪魔はかき消す。

 男が言葉を言い切る前に、恍惚の感情が頂点に達した少女が、カタカタ震えながら笑い始めた。その様は、壊れた機械と表現するにはあまりにも軽い。未知の生物の産声のように、確実な絶望を予感させるように。舞台の上で少女は、愛でも恋でもない感情を、偽典聖書の内臓を引きずり出して、踏みつけながら踊る。ぷつりと糸が切れた。ついに鳴り止んだオルガンに、祝福の拍手はない。


一 朝

 ・あたしは先生が好き。

 ・先生はあたしが好き。

 ・リヱ子は他殺ではない。

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