修羅の果てまでも

眞壁 暁大

第1話

 躊躇せずにそのボタンを押せる自信はあった。

 志願した時にそれを真っ先に聞かれたし、メンタルテストも合格している。

 外は見えない。

 カメラを使えば目の前のモニターに映すことはできるが、さすがにそれはしなかった。見てしまえば感傷を呼ぶ恐れがある。

 執着になりそうなものはすべて捨てなければならない。

 その覚悟を決めていたはずのに、最後の一押しができない。

 スイッチカバーを跳ね上げて、スイッチは露出させたものの、押し込めない。

 発射最適時間は幅がある。その範囲内であれば、いつでも自分の好きな時に飛べばよいということになっている。


 外の人間から見た時、自分がまだ飛び立たないのは余裕に見えるのか。

 それとも、躊躇していることがバレてしまっているのか。


 不意にそんな思いに駆られて、シートに寝そべったまま声を出さずに笑った。

 そもそも今から飛ぶことを知っている人間、外にはいないのだから。


 深呼吸して外周カメラの映像をモニターに呼び出した。

 暗く沈んでいた画面に、数秒で外の様子が映し出される。

 靄がかかっていたが、以前の動作テスト中よりは晴れている。機体の頂部に搭載したカメラは見通しが利くから、はるか遠い峰々まで見えた。


 動作テストの時に流した方向へカメラを操作し、正常に作動するかどうかをチェック。すでに完全に作動することはとっくに確認済みだったから、チェックの体をとった暇つぶし、あるいは決断からの逃避だというのは自分でもわかっていた。


 映し出された街がいくつかあったが、煙を上げているのは一つだけだった。

 動作テストの時にはそのどれもが煙を上げ、生産活動をしている、生きている兆候を見せていた。

 その煙が集まってやがて靄となり、周囲を覆っていたのだがそれも薄れてしまっている。

 遠くの山が見えるというのはそれだけ靄が薄くなったということ……、煙を上げる街が減ってしまったということだ。


 そのまま街を眺めているのが何となくいやになって、カメラを望遠にして峰々に向ける。ところどころ、緑色の山肌に、白く太い筋がうねうねと横に伸びているのが目立った。 

 何事かと思い、その筋に照準を合わせて最大望遠にして不意に気付く。

 外は桜の季節だったのだ。


 暮らしてきた下のシリンダーでは、不自由することがなかった。

 ただ不自由することがないだけで、より多くを求めることはできなかった。

 外の世界を出歩くことなどぜったいに許されなかった。

 ウィルスへの抗体を持たないからこそ、シリンダーで暮らしているのだから、外へ出るなど論外だ。

 抗体を持った人々が自分の住むシリンダーのさらに下層、そして外周にいて、さらには外の地表世界にもいくらか存在していることは知っている。

 だが、彼らは「違う種類の人間」だ。

 彼らはいくらかの不自由と引き換えに、より多くを得ている。

 そうして世界のバランスが取れているのだと、教えられてきた。


 外の世界は欲しいものであふれていた。

 この目で見ることが叶わず、この手で触れることの叶わないあらゆるものがあった。

 機械の目を通して、外の世界の事象・光景にはいくらでも見られたし、いくばくかは仮想現実を通して触れることもできたが、あくまでもそれは、機械をとおした経験に過ぎない。

 下層の人々はそうした仮想現実を経験することも出来ない――電力不足・エネルギー不足でそうした娯楽に類する経験は規制されている――ことを思えば、恵まれていたのだということは分かってもそれでも小さな不満は積もっていった。



 不満が消え去ったように感じたのは、ウィルスの変異速度に、遂にワクチンの開発が追い付かなくなった頃だった。

 いずれ訪れると予言されていた破局。

 迎えてみればどうということはなかった。


 シリンダー上層の人間たちは地上から脱出する手はずは既に整えていたから、その準備のとおりに動くだけでよかった。

 まず貯蔵庫をいっぱいに満たした後、外の世界、地表の街との交易を遮断した。

 旧くなったワクチンと引き換えにエネルギーや食糧などを得ていたが、脱出のスケジュールが確定すればあとは備蓄だけでしのげばよい。

 ワクチン製造に回していたエネルギーや資源はいずれも脱出用の機材の建造と、それに充填する燃料の製造に振り向けられた。

 交易を打ち切られた地表の街がシリンダーに寄ってくるのは、地上の無人防衛システムによって撃退させている。


 次に遮断したのは外周のシリンダーだった。

 これは遮断というよりも、自立させたといったほうが正しい。

 自給体制を構築するのに時間をかけたことが奏功して、最低限の食糧とエネルギーは自前で調達できる態勢を整えている。

 シリンダーの内筒の下層との交通は遮断されていないから、外周シリンダーの住人たちは自分たちが切り捨てられたことに気づくこともないかもしれない。


 シリンダー内筒、下層の住人がいちばん切り捨てるのが難しかった。

 心情的にはとくにそうだ。

 ウィルス抗体の少なさでは上層とあまり変わらない。

 随時更新されるワクチンの供給が止まれば、外の世界、外周のシリンダーよりも先に絶えてしまいかねない脆弱な存在だった。

 ギリギリまでワクチンの更新に望みをつないだのも、彼らを見捨てるに忍びなかったからだ。

 ウィルス抗体を豊富に持つ(と信じられている)外の人々ほどには、下の人々を軽く切り捨てることはできなかった。

 外周が生きているかぎり、給気フィルターは機能するから即座にウィルス環境に曝露するわけではないけれども、それでも上層は自分たちだけが助かることにためらい、議論は紛糾した。


 けっきょくのところ、ウィルスの変異のほうがずっと早く、ワクチンを更新したところで早晩役に立たなくなるということが明らかになったことで議論は打ち切られた。

 ギリギリまでワクチンの更新を続けられる最低限度の資源は投入しつつ、ワクチンの更新を終了することが決まった。

 更新されたワクチンを受け取れなくなった時が、下の人々が切り捨てられた瞬間である。

 それがまさしく今日、この時間であった。


 この最後の脱出ロケットが打ち上げられた信号を受信すると同時に、最後の更新ワクチンが下の人々に供給される。

 それでお終い。

 脱出ロケットが飛び立たなかったところで、もう下の人々に新しいワクチンが供給されることはない。

 むしろ、ロケットが飛び立つのをためらって地上に残ってしまう方が、最後の最新ワクチンが下の人々に届かず不利益を与えるとすらいえる。


 それがアタマではわかっていたし、すでに決まった未来だということももうずっとずっと分かっていた。

 最後のロケットの操縦士に選ばれたのも、「必ず飛び立てる」という精神力を評価されてのことだということも分かっていた。

 

 それなのに押せない。

 発射最適時間の残り時間を告げる人工音声が操縦室内に満ちる。

 残り時間が減るたびに一段回、ボリュームが上がるようになっていて今は怒鳴り声のように響いていた。

 何をためらっているのか。

 自分でもよくわからなかった。


 自分以前に飛び立った人間も優に百人を超えている。それによって運ばれた人間はさらにその数十倍。

 その後に続くだけの話だ。

 客室と操縦室は遮断されているから最後の乗客の様子は分からない。

 操縦士の判断を鈍らせることがあってはならないというロケット設計者の配慮。

 有難いと思っていたが、今は繋がっていたほうが良かったと感じる。

 一人では重すぎる。

 響き渡るカウントダウンの中で、指が震えた。


 発射最適時間が残り60秒を切る。

 人工音声とともにサイレンが鳴り響く。

 声が「58び」と言いかけたところで、俺はボタンを押し込む。

 数秒もせぬうちにじわじわと、だがしっかりとシートに体を押し付けられる感覚。

 訓練の時のような振動もない、ただ体全体にのしかかる重さだけが増えていく奇妙な感触だった。外に響いているはずの轟音は遮断され、今はだいぶ落ち着いた人工音声のカウントアップの声だけが室内に響く。


 重さがふいに消失する。

 シートに縛り付けられたようになっていた四肢が自由を取り戻す。


 俺は眼前に震えていた指を、ボタンを押し込んだ指をかざした。

 もう震えていない。

 だが、押し込んだその時の感触も覚えていない。

 俺はその時の感触を思い出そうとしたが、あきらめて息を吐いた。


 もうどうでもいいじゃないか。

 すべては終わったのだ。

 

 軌道に到達したことを人工音声が告げる。

 あとは自動操縦装置が順調に機能するのを監視するだけ。

 その監視を続ける気力も意欲も薄れて、俺は睡魔に呑み込まれる。


 襲い来る後悔に呑まれる前に、一仕事終えた安堵に逃げ込むように。

 俺は眠りについた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

修羅の果てまでも 眞壁 暁大 @afumai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ