ゴール

鱗卯木 ヤイチ

第1話

 朝の7時少し前。

 僕は神奈川県の藤野駅に降り立った。もうすぐ4月だと言うのに、少し肌寒く感じる。この辺りはちょっと気温が低いのかもしれない。

 でも、天気は悪くなさそうだ。見上げた空に雲はほとんど見当たらず、くっきりとした稜線が空と地上の境を明確に分けていた。

 藤野駅の改札を通り、僕はそのまま線路沿いを左手へと歩き出した。駅からほど近い踏切を渡ると、すぐにトンネルに出くわした。歩道と車道の区別はなさそうだ。対向車同士がすれ違える程度の幅員はありそうだが、その横を並んで歩きたいとは思わなかった。

 朝だからなのか土地柄なのか、幸いにして今の交通量はさほど多くはない。僕は意を決してトンネルへと足を踏み入れた。

 トンネルに入った途端、僕の身体がキュッと締まる。外界よりトンネルの中はさらに冷えた。寒く感じるのは気温だけのせいではないように僕は思えた。

 トンネルは思いのほか長く、僕の他に人通りは無い。トンネルに入る前は、車が通らなければ良いのに、などと思ったが、今はまるで反対の事を思う。僕は自然と足早になった。

 やっとトンネルの外に出られた時には、首の辺りに少し張りを感じた。


 7時40分。

 僕はやっとの思いでスタート地点に到着した。神奈川県と東京都の境にそびえる山、陣馬山へと続く登山口に僕はいた。

 登山口まではバスや車で来るのが一般的だったけれど、今日はなるべく歩いて進みたい気分だった。ここまで殊のほか距離はあったけれども、気持ち良く歩いて来られた。

 でもこれがゴールなわけじゃない。ここからがスタートだ。

 僕は登山靴の紐を固く結びなおし、登山道へと足を進めた。


 8時50分。

 また汗が、僕の首筋を流れ落ちて行った。

太陽はそれほど高い位置にあるわけじゃなかったけれど、藤野駅に着いた頃に比べるとずいぶん気温が上がったように思えた。

 もちろん、こんなにも暑くなっているのは気温だけのせいじゃない。この急坂のせいだ。何度タオルで拭っても、一歩、また一歩上がるたびに額に汗が吹き出し、そして流れ落ちた。

 僕は自分の運動不足を痛感した。まだ登り始めてから1時間程度しかたっていないと言うのに、僕は息も絶え絶えで、亀の様な足取りで歩いていた。

「ふぅ……。もう少し早いペースで歩けると思ったんだけどなぁ……」

 少し開けた場所で立ち止まり、ザックからペットボトルを取り出す。ひと口、ふた口、3口……。僕はペットボトルの水を飲んだ。

「……うまい」

 単なる水だったが本当に美味しかった。甘味さえ感じた。

 僕は大きく息をついて、周囲に目をやった。

 遠くに街が見えた。思ったより視界に入る家々は小さい。のろまな歩みではあったものの、確実に前に進めている事を実感できて嬉しかった。

 町の先には山々が連なっており、更にその奥には、未だ頂に雪を抱いた富士山が泰然と佇んでいた。

 うん、悪くない……。悪くない光景だ。

 僕は富士山を見つめながら、もうひと口だけ水を含む。そしてザックを背負うと、頂上に向かってまた歩き始めた。



 小学生の頃、それなりに勉強の出来た僕は、親や先生の勧めもあって中学受験をすることになった。勉強自体は嫌いではなかったし、何より僕の通っていた小学校では中学受験をする人の方が珍しかったので、優越感も少し手伝った。

 5年生に上がると本格的に受験勉強が始まった。

 6年生になると文字通り盆も正月もなく、受験勉強に明け暮れた。

 受験直前には問題集を見るのも嫌になっていたが、あと少し頑張ればゴールだ、と言う親と先生の言葉を信じてなんとか走り抜いた。

 結果は合格。僕は無事に第一志望の学校に受かることが出来たのだ。親も先生もとても喜び、そしてもちろん僕も喜んだ。

 その時はこう思った。


 ――やっとゴールに到着した。もう勉強をしなくていいんだ、と――。


 しかしそれは間違いだった。

 僕が入学した学校は、中高一貫校で、かつ都内有数の進学校であった。

 高校受験こそ無いものの、中学一年生の頃から一流大学合格と言うゴールが僕達の前に設定された。

 なんだ、中学受験はゴールではなかったのか。

 僕はちょっと騙されたような気がしたが、特に他にしたいことも無かったので、言われるがまま、次のゴールへと突き進んだ。

 もちろん勉強だけだったわけではなく、中学も高校もそれなりの青春を謳歌したし、思い出もたくさん作った。

 それでもやっぱり高校3年生の時には、僕の生活はまた受験勉強一色となった。大学合格と言うゴールに向かってただただ勉強に打ち込んだ。

 その甲斐あって、僕はまた第一志望の大学へと合格することが出来た。

 当然嬉しくはあったが、昔の様に無邪気に喜ぶほど子供ではなかった。


 ――どうせまた、次のゴールが用意されるのだから――。


 そんな事を思ったのを覚えている。

 そしてその考えは、半分当たっていて、半分外れだった。

 合格した大学はそれなりに名前の知れた大学だったので、両親や親戚、友達の母親などからも称賛された。そして決まって、その先の将来についての話をされた。良く名前を聞く企業に就職して安泰だの、立派な学者なれるだの、起業して若き社長だの、そんな話だった。僕には何一つピンと来なかったけれども、僕の意思とは関係なく、周囲の人がせっせと次のゴールを数年後の僕の未来に配置していくような、そんな奇妙な感覚を覚えた。

 やっぱりそんなものか、と僕は思った。周囲が、世間が、社会が設定したゴールに向かって、疑問を抱くことも無く、ゴールへと向かって走り続ける。それが普通の形で、正しい姿なのだと。

 簡単だ。僕は幾度となくゴールへ向かって一直線に走り、思う通りにテープを切ってきた。今回だって……。

 それが今の社会なのだから当然なのだ、そう思っていたら、その社会の姿が一変した。

 そう、あの新型コロナウィルスが現れたのだ。新型コロナウィルスは瞬く間に社会の姿を変えた。

 そして当然僕も蚊帳の外にはいられなかった。日本国内で緊急事態宣言が出されてからというもの、気軽に外に出る事さえままならなくなった。高校の卒業式は取りやめられ、大学の入学式も無くなった。中学校からの6年間を共に過ごした友人達との別れも、新しい仲間たちとの出会いの場も全て失われてしまったのだ。

 大学キャンパスに行くことなど滅多になく、家に居るだけで1日が完結してしまう生活を日々繰り返していた。

 外界と遮断され、家の中で毎日同じことを繰り返していると、人間たいてい碌なことを考えない。ご多分に漏れず、僕もそうなった。

 自分は本当に大学生なのか? 大学生のふりをしているだけではないのか? では自分はいったい何者なのだ? いったい何のために此処にいるのだ?

 そんな考えが僕の心を少しずつ蝕んでいった。

 そしてそこまで考えて、ふと思った。


――そもそも自分は何のために生きているのだっけ――


 親や先生に言われて、良い中学に入るため? 良い大学に入るため?

 それで?

 良い会社に入社するため? 偉い学者になるため? 起業して社長になるため?

 それが叶ったら?

 それが叶ったらどうするんだっけ?

 僕は、どこに行きたいんだっけ?

 悠々と残酷に流れる日常に、僕の心は揺蕩っていた。



 頂上へと続く最後の一段を上った。

「ふぅ……」

 時間は9時30分。

 僕は陣馬山の頂上になんとか辿り着いた。標高900mに満たない低山ではあったけど、運動不足の僕の足は、傾斜のきつい上り階段に笑っていた。

 山頂には、全長5mくらいだろうか、白い馬のオブジェが鎮座しており、ここまで辿り着いた僕を迎えてくれた。

 僕はとりあえず記念に馬のオブジェと共に写真を撮る。そしてもう一枚、遠くに、でも、殊更大きく見える富士山をカメラに収めた。登っている途中に見た富士山も綺麗だったが、頂上で見る富士山は、心なしか先程より立派で、より素晴らしく見えた。

 僕は空いているベンチに座り、ナッツとチョコレートをかじる。すぐに栄養が吸収されるわけはないはずなのに、ナッツの塩気とチョコレートの甘味は僕を元気づけてくれた。



――そもそも自分は何のために生きているのだっけ――


 この1年間、その観念は何度も僕の頭を何度もよぎり、千々に心を乱した。

 暇を持て余した時間で、ほんの少し真剣に、僕はその事について考えてみた。

 けれど、結局その答えは見つかっていない。

 でも、僕自身が行きたい場所をまだ良くわかっていなくたって、このまま行きつく先がどこだかわからなくたって……。だからと言ってこれまで自分がやって来た事を否定してしまうのは違う気がした。

 きっかけは『他人に言われたから』だったかもしれないけれど、それを成し遂げたのは他ならぬ僕なのだから。

 そこまでが今の僕に出せる答えだった。

 僕は、歴史に残る様な絵を描けるわけでもないし、誰かの心を揺さぶる様な話を作れるわけでもない。人を勇気づける様な曲を演奏できるわけでもないし、頬が落ちる様な料理を創り出せるわけでもない。

 けれど……。けれど、もしかしたら。

 偉い学者になって世界を救う様な大発明をするかもしれないし、世界を股にかける程の会社を創り上げて、世の中から貧困を無くす偉業を達成するかもしれない。

 正解なんてわからないけど、僕は僕がゴールだと思う方に向かって、僕がやれる限りの事を、ただやっていくしかないのだと思う。



 9時50分。

 僕は立ち上がってザックを背負う。

 陣馬山の先にはいくつかの山々が続いているらしい。

 僕の貧弱な体力では、どれだけ行けるかわからないけれど、まずは行ける限り歩いてみようと思う。

 僕の力で。


 僕は、また次のゴールへと向けて、歩き始めた。

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