第33話 昼食の席
「痛ぅ……」
痛む頭を押さえながら、リクハルドはゆっくりと体を起こした。
どうやら昨夜は飲みすぎたらしく、脳の奥から響くような鈍痛に思わず顔をしかめる。元よりあまり酒に強くないリクハルドは、大抵酒を飲んで寝たらこんな風に頭痛を訴えるのである。
そして、そうなれば普段、全く動かずに過ごすのだ。ほとんどの場合、こんな風に酒を飲みに行くのはステイシーと一緒の場合が多く、そしてリクハルドが頭痛を訴えるほどに遅くまで過ごすのは、翌日休みの日だけだからだ。翌日にも仕事を控えていた場合、ステイシーの方から早めに切り上げるため、こんな風に二日酔いで仕事に向かうことはないのである。
酒を飲んでいたために、昨夜の記憶はおぼろげだ。
だが最低限の理性は残っていたらしく、寝ている場所は軍属のリクハルドの宿舎だった。どうやら我を失ってステイシーの部屋に世話になる、という事態は防ぐことができたらしい。
もっとも、だからといって事態が好転するわけでもないけれど。
むしろ、ステイシーの部屋ではなく自室で目覚めたことで、リクハルドと違って翌日に酒の残らないステイシーに、冷たい水と熱いコーヒーを用意してもらえないのだ。むしろ事態はより悪くなっている気がする。
「あー……」
だが、かといって延々と惰眠を貪るわけにもいかない。
既に日は昇っており、朝方といったところだろう。普段ならば、このまま体の訴えるままにもう一度眠るのが当然なのだけれど。
今日に限っては、そういうわけにいかない。
なぜならば、ルートヴィヒの姪とやらと会わなければならないのは今日の昼だからだ。唐突に押し付けられたものだとはいえ、約束を破るほどにリクハルドは不義理な男ではない。もっとも、その約束と妹の願いを天秤にかけた場合は、約束を破る真似など簡単にしてみせるが。
とはいえ、残念ながら今日、妹との約束が入っているわけではない。
そしてちゃんと約束を覚えている以上、そちらを優先する程度にリクハルドは誠実だ。
「……準備するか」
面倒ではあるけれど、今日を乗り切りさえすればそれでいいのだ。
リクハルドはひとまず寝台から起き上がり、鏡と向かい合う。酒が残っているからか、どことなく瞼が腫れぼったいが、特にそれ以外普段と変わったところはない。下手をすれば酒で記憶を失って、謎の傷が生じている場合もあるのだ。そうなっていなくて良かった。
寝癖のついている髪を直し、それから水差しの水をぐいっと一気に飲み干す。
服については、普段の軍服の方がいいだろう。下手に私服で向かうと親近感を持たせてしまうかもしれないのだ。そして、あくまで八大将軍の一人としてファンに会うというだけの今日、親近感など持たせる必要はない。
食事だけして、さっさと帰ろう――そう思いながら軍服に袖を通し、不精に生えた髭を剃り、ほぼ準備は終わった。男の準備などそんなものである。
「さて……」
そして、無駄に数枚だけ置いてある色紙を手に取る。
何故かは分からないけれど、ファンというのはサインを書いた色紙を欲しがるものなのだ。サインなど貰って何をするつもりなのかというのは疑問だが、好事家曰く部屋に飾って楽しむらしい。どう楽しむのかまでは知らない。
真っ白の色紙を前に筆を取り、さらさらとそこにサインを記す。
ちゃんと、上の方に『クラリッサちゃんへ』という宛名もつけてだ。これをすることで、自分にだけ贈られたという特別感があるらしい。
書き終えたそれを乾くまで待ち、紙袋の中に入れる。
これで、いつ出かけても大丈夫だ。
「ふぅ……」
とはいえ、こんな風にファンと二人で会う、という行為は初めてである。
ルートヴィヒの口利きがあったから、というのもあるが、本来リクハルドはそういうファンとの触れ合いをあまり好まないのだ。
八大将軍の中では、ヴィクトルやヴァンドレイ、ティファニーあたりがファンに優しく、リクハルドやアレクサンデル、アルフレッドあたりがファンに厳しい。ちなみにバルトロメイは顔が怖すぎてファンが近寄らず、ルートヴィヒはファンに手を出すために皇帝からファンとの交流を禁じられているという謎の二人がいたりするが、それはまた別の話だ。
そういった経緯もあり、正直に言えばファンとどんな風に過ごせばいいのか分からない。
「……まぁ、いいか」
とりあえず、そこまで深く考える必要はないだろう。
武技くらいは見たがるかもしれないし、一応弓矢だけは携えておくべきか。訓練の際には執務室に置いてある弓を使うけれど、自宅での訓練にはまた別の弓を用いているために、それを背中に掛けておくことにする。
そんな風に過ごしているうちに、割と良い時間になってきた。
施錠をして、そのままリクハルドは家を出る。
「……」
無言で街を闊歩し、宿舎から僅かに離れた帝都の中央通りへ向かう。
既に太陽は中天に輝いており、時間的には少しばかり厳しいかもしれない。まぁファンであるならば、多少の時間くらいは待ってくれるだろう。そもそも、普段の仕事帰りにもたまに出待ちがいるくらいだし。大抵は警備員に止められているのだけれど、中にはそんな警備員を掻い潜って出待ちをしている者もいるのだ。
歩きながら、考えるのはクラリッサのことばかりだ。
思えば、クラリッサの変わった趣味が露見して以来、ろくに会っていない。宮廷に行けばアントンしかいないし、実家に顔を出そうとすればステイシーに止められるし、今日実家に行こうと思っていたのにルートヴィヒのせいで行けないし。なんだか色々と周りに妨害をされている気がする。
出そうな溜息を堪えつつ、重い足取りでリクハルドは『綿人形亭』へ向かう。
ちなみにそんな姿も、世の貴婦人からは『国防について憂いている美男子の将軍』と映るので、完全に詐欺である。
「いらっしゃいませ」
「ああ……ルートヴィヒの名前を出せばいいと言われたのだが」
「はい。伺っております」
料理屋――『綿人形亭』。
扉を開いた瞬間に、黒い服のウエイターにそう言われて思わず戸惑う。そもそも万年金欠であるリクハルドが顔を出すのは、妹喫茶か安い酒場くらいのものだ。こんな風に丁寧な対応をされると、逆に戸惑ってしまうというのが現実である。
先導するウエイターの後ろに追従し、席の一つを案内されて。
「お連れ様がいらっしゃいました」
「あ、はい……」
その、案内されたテーブルに座している。
普段よりも七割くらい色気を増した、白いドレスに身を包んでいる少女は。
「……クララ?」
「……え、お義兄様?」
クラリッサ、だった。
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