第26話 衝撃
「ぐっ……!」
さすがに、こんな高さから自ら落ちてゆくとは思わなかった。
あまりにも想定外すぎるティファニーの行動に、そう歯を軋ませながらリクハルドは窓際に寄る。さすがに三階から落ちたわけであるし、いくら将軍とはいえ無傷では済むまい――そう思いつつ窓の外を見ると、道を走り抜けるティファニーの姿があった。
どうやら無傷だったらしい。加えて、窓の下にある植え込みのあたりが激しく損傷しているのが分かる。
あの植え込みがあるということを把握した上で、無茶な行動をしたということだろう。いくらなんでも命知らずすぎるが、それでも知られたくないことがあったということだろう。
既に知られたくなかったはずのことを大半知ってしまっているけれど。
「ちっ……仕方ないか」
逃がしてしまった以上、今日はどれほど追ったところで意味がないだろう。今日は銀狼騎士団の方にステイシーがいるわけだし、多少ティファニーがいなくとも仕事は滞りなく進むはずだ。
全く、面倒なことだ――そう、リクハルドは執務机の前にある椅子へと腰を下ろす。
そもそもティファニーが突然やってきたために中断していたけれど、それでもまだまだ仕事は多いのだ。さすがに、これを投げ出してティファニーを追いかけるわけにもいくまい。
「……」
ひとまず、仕事に戻ることにする。
とはいえ、ほとんどの書類は流し読みをして、サインと印を押せばいいだけの話だ。事務官への確認が必要そうな書類については別に置いて、簡単な書類だけをまず終わらせる。重要な書類は午後から一気に見るというのが、普段からリクハルドのやっている仕事のスタンスだ。
その理由は簡単で、ひとまず量さえこなしていれば、多少は気楽になるからである。
ティファニーのこともステイシーのこともクラリッサのことも気にかかるけれど、それを表に出すことなく、ただ無言で書類をこなす。
どうやら追加の案件は特にないらしく、昼前までに簡単な書類は全て終わらせて、リクハルドの右手側には終わらせた書類の山が、左手側には少しばかり考える必要のある書類の束がある。終わらせた方が山で、終わらせていない方が束であるというだけでも、割とやりきった感が強いものだ。
「さて……飯食うかな」
ここから重要な案件に移ってもいいのだが、少しばかり小腹が空いたというのが本音だ。
腹が減っては戦はできぬという言葉もあるし、リクハルドにとって毎日の仕事は戦いのようなものだ。午後からの死闘に備えて、何かしら食事をしておくのも良いだろう。
そう、面倒な方の書類束の中にある、一枚を手に取る。
それは、宮廷への提出が必要な案件だ。
基本的にはリクハルドの決定で問題ない書類ばかりなのだけれど、こちらは宮廷より出された、黒烏騎士団に対する陳述書だ。
先日、騎士団に所属している二人の間で諍いがあったのだという。
先輩と後輩という立場だったが、酒に酔った勢いで先輩の騎士が、後輩の騎士に対して暴力を振るったのだという。これが駐屯所の中でのみ行われたものであれば、騎士団の中だけで留めておくことができたのだが、市井の酒場で行われたということで警邏の騎士団が駆けつけて拘留されたのである。
勿論、先輩の騎士が悪いのは当然だが、暴力を受けた後輩の騎士も普段から勤務態度が悪く、それに対する叱責からエスカレートしての喧嘩になったということで、多少は情状酌量の余地がある。そして、暴力を振るった方の騎士は以前からリクハルドが目をかけていた真面目な男であり、こんな些細な事件で職を失わせるわけにはいかないのだ。
面倒なことではあるけれど、それも上司としての仕事である。
「仕方ねぇ……行くか」
書類を持ち、立ち上がる。
現在は昼前であり、昼過ぎにはこの書類の件は終わるだろう。
そのまま適当なところで昼食にし、それから戻って残る書類を終わらせればいい――そう考えて、ひとまず宮廷に向かうことにした。
「ちょっと出てくるわ」
「どちらにお出かけですか?」
「ちょっと宮廷に行ってくる。昼過ぎには戻るから、俺に用件があれば伝言を残すか、もしくは午後から来るように伝えてくれ」
「承知いたしました」
受付の事務官にそう伝えて、リクハルドはそのまま駐屯所を出る。
受付にああは言ったけれど、本来ならば来客など滅多にいない。そもそもルートヴィヒ、ティファニーと続けてやってきた最近が異常なのだ。ステイシーのいない日は、書類を持ってくる事務官以外に誰も執務室に入ってこないということも珍しくないのだから。
のんびりと、帝都の街並みを歩く。
宮廷はそれほど遠くなく、乗合馬車を使わなくても問題ない。まだ寒い気候というわけでもないけれど、やや風が強い。もう一枚くらい羽織ってくるべきだったかな――そう思いながらも、戻って服一枚羽織る面倒を考えると足が戻ろうとしなかった。
歩きながら、考えるのはクラリッサのこと。
基本的に妹のことを考えていれば幸せなリクハルドは、クラリッサの可愛らしい姿を思い出しながら微笑む。お義兄様、お義兄様、と呼んでくれる愛らしいクラリッサの姿を思い出すだけで、リクハルドの機嫌は一気に良い方へと傾くのである。
だが、無駄に男前であるリクハルドは、妹のことを妄想しながら悦に入っているというどう考えても気持ち悪い状況であれど、それは世の婦人方からすれば「平和を謳歌している帝都の民を慈しんでいる将軍」という図に映ったりする。完全に詐欺である。
そして、程なくして宮廷に到着する。
無駄に豪華な宮廷は、初見の者であれば入ることに躊躇してしまう門構えだ。衛兵が常に二人立ち、年に一度は宮廷前広場で禁軍の兵士によるパフォーマンスも行われるここは、帝都に観光に来た者が必ず立ち寄る場所である。
とはいえ、リクハルドにしてみれば既に来慣れた場所である。特に緊張もすることなく階段を登り、顔見知りの衛兵に一言告げてから宮廷の中へと入った。
そこで。
「む……リクハルド?」
「なんだ、親父か」
偶然、そこで出くわしたのは父であるアントンだった。
そもそも宮中侯であるアントンの職場は宮廷であり、ここで会うことに特に問題はない。というより、普段は駐屯所にいてばかりのリクハルドが、こんな風に宮廷に顔を出すことの方が珍しいのだ。
書類の抱えながら歩いているアントンが、怪訝な顔をしながらリクハルドへと近付いてくる。
「どうした、こんな昼間に」
「ちょっとした騎士団の問題があってな。別に親父に用じゃねぇよ」
「そうか。まぁ、丁度いいな。お前が今度来たときにでも言おうと思っていたのだが……」
「あん?」
リクハルドはアントンに何の用事もないけれど、どうやらアントンの方にはあるらしい。
別段、それほど実家との繋がりがないリクハルドに、アントンが言うべきことなど特にないと思うのだけれど。
「実はな、良い話があるのだ」
「へー」
「いや、儂にしても寝耳に水というか、驚いたのだ」
「ほー」
「クラリッサのことなのだがな」
「俺の可愛い可愛い妹がどうした」
クラリッサのことだと言われて、いきなり食いつくリクハルド。
アントンが何を言い出すのかと思っていたけれど、妹の件であるというならば絶対に食いつくのがリクハルドである。
おほん、とアントンが咳払いを一つして。
「良い縁談の話が来たのだ」
「はぁっ!?」
そんな、アントンの言葉に。
リクハルドができたことは――まず、アントンの首を絞めることだけだった。
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