引力のような力を肉体の内側からはたらかせる厄介な憂鬱で倦怠感にさいなまれる、あの瞬間   作・奴

 ある日、最近何かとヤなことつづきでうんざりの布衣野マリは、厄がついてるのだと思い神社へ行って宮司に相談した。するとただ一言「西に良縁あり」と助言されたので、自宅より西に向かって歩いていると、三軒の医院を通り沿いに発見した。泌尿器科、循環器内科、精神科。布衣野はけっして肉体的不調の感がなかったから、消去法を取って精神科へ行くことにした。西側にはこのほかにさまざま目に留めるべきものがあったけれど、ぱっと目についたものがそれらみっつの医院だったため、このようなことになった。


 精神科は完全予約制のところがわりに多い。ひどいときには、予約が数か月先までいっぱいで早くとも年明けなどということもある。急に初診となっても相手にされない。布衣野はそれを知っていたから、医院から選ぶというのはまずかったかと冷汗であったが、しかし午前だけは未予約の人も受け付けるということで、そのときは午前の十一時であったから、これ幸いと駆け込んだのであった。何でもいいから私の不調を直してくれーっという感じで、半分飛び込むように。そのときの布衣野は、バニラ・フレーバーのアイス・クリームのような色のフード付きパーカーにアディダスの黒いジャージという格好で、部屋着そのままだった。


 待合はふたりばかりいた。健康保険証を渡して初診であることを告げ、受付係から初診票をもらう。来院の理由を、簡単なチェックと記述で示さなければならない。布衣野はちょっと困った。「ヤなことつづきでうんざり」していたものの、別段精神に原因があるとも思っていなかったから。ただ宮司の意見に従って、家から西へ西へと進み、ところにこの病院を見つけたというだけで、今ここで切々と書き連ねるべきことはひとつとしてもなかった。まさか「ヤなことつづきでうんざりだから、話を聞いてほしい」などとは書けない……困った、本当に。とはいえそれらしい嘘で飾り立てるほどの文学的な感性も持ち合わせていないので、袋小路であった。いまさら、やっぱり帰りますとはいかないだろう。


 「〈西に良縁あり〉と言われたんで来ました」と書いてみた。それで受付係に渡した。


 受付係はちょっと笑っていた。




 布衣野に不安がないわけではなかった。これが本当に良縁だろうか? あまりにやっつけ過ぎた。歩いて、目についたから入る。投げやりではないか? 医者から「馬鹿にすんなよっ」と叱られたっておかしくはない、ぽかんと殴られるかも。そういう懸念は、衝動的ながら生真面目な布衣野のなかに巨大な空想となって圧しかかった。しかし、とも思ってみる、これははさみうちの原理なのだ。ひとたびお告げを授かれば、その力で良縁のもとへと導かれるだろうし、またほとんど偶然的に出会ったものはおそらく良縁にならざるをえないだろう、お告げは当たるのだから。この両側からの作用で、これからの医者の問診は間違いなく良縁になる。確定演出、絶対の神がかり的な遭遇、運命の赤い糸、キューピッドにズキュンと胸を射抜かれる感じ。これから会う医者は白馬の王子様、でないにしても白衣のお医者様、だし、まあ病気の治療・改善をしてくれるのだから頼りがいがあるに決まっている。院内放送で「診察室へお入りください」と呼び出されると、布衣野は「せ・ん・せ・い・た・す・け・て・あ・く・りょ・う・た・い・さんっ」とグリコをやった。パ・イ・ナ・ツ・プ・ル。チ・ヨ・コ・レ・イ・ト。そうして診察室に入った。




 医者は怒りもせず、殴りもしなかった。ぷりぷりもしていなかった。にこにこしていた。


 回転椅子に促すと、「君の家は」と医者がすぐに口を開いた。


 「この病院から見て東側にあるんだね」


 「はい、まあ」


「東って、濃い緑色って感じがしない? 西はピンク」


「ああ、まあ」


間の抜けた返事ばかり!


「南は青、北は黒」


「白は?」尋ねてみる。これじゃどっちが医者でどっちが患者かわからない。


「白! あれはまっさらだ。何もない。タブラ・ラサ」


布衣野はもうひとつ要領を得ない。


「ま、何にせよ、ピンクの方角に良縁があったんだね。桃源郷って感じがしていいね。桃色」


「他の方角じゃヤですか」


「僕からすれば」医者はコーヒーをすする。「君の家はのりの方角にある」


「どこののり、韓国ですか、日本ですか?」


「三重」


これには反応に窮した。


「でも良縁たってわざわざ精神科なんて選ばないでしょ。何かあったんじゃないの」


布衣野は核心を突かれたようでのけぞった。けっして推理できないことではないけれど、急に言われるとまた驚きもする。


「まあそうです」


「嫌なことがあった」


「はい、まあ」


「ふうん」これは“風雲”に発音が近かった。


「何か悪霊が憑いてんじゃないかと思って神社に行って、西に行きなさいって言われて、来た」


「はい」


「風雲」


「すみません。本当にそれだけで」


「全然。午前は簡便なカウンセラーで、何でも話そうってつもりだから」


医者の首から下がっている名札に名前が書いてあった。加雲世良精神。うんざりするくらい漢字が並んでいる。小さく併記されたふりがなでは、かうんせら・こころ。


「加賀と出雲の世良氏」布衣野は言う。


「まさしく」


ふたりのあいだに不可視の結束のようなものができはじめた。


「しかしよく知っているね」


「名字の由来を知るのとか、好きで」


「風雲。ほかに好きなものは?」


「――広い公園を昼に歩くこと、独りごとを話すこと、川べりでおにぎりを頬張ること……〈かんぱい〉のかわりに“さようなら”って言うこと、読書、映画鑑賞、音楽鑑賞……あとは、大きなテーブルを全部自分の今使うつもりのもので埋め尽くしてあっちこっち手を伸ばして取ること、すいた電車に乗ること」


「もう一声」


「――わけもなく地下街を歩くこと、眠ること、食べること、弾き語り、小説書くこと、詩を書くこと、ボールペンで字を書くこと、階段を上ること、知らない町を路線バスで終点まで行くこと、小鳥を眺めること、不動産屋のチラシで間取りを見ること、横たわること」


看護師が記録していた。


「いいね」医者が言った。


「ほか、じゃあ嫌いなことは何かある?」


布衣野はしばらく考えた。でこを指でさすりながら。


「――朝は嫌い。“おはよう”も嫌いかも。近所を歩いたりとかも」


「“こんにちは”とか“こんばんは”は嫌いじゃない?」


こっくりとうなずく。風雲。


「朝ははじまる感じが強すぎて耐えられない。昼は緩慢な、たゆい感じがして好き。夜は終わるから好き」


「じゃあ、生きるよりは死ぬほうがいい?」


「それは違う。死んだら気色悪い。生きてるほうがよっぽど素敵。かわいい」


医者はつづきを促す。気色悪いって、どういうことだろう?


「死んだら、体が腐る。目玉と脳とはらわたが食われて、肉が食われる。蛆が湧く。鳥がついばむ。悪臭がする。最後に性器を食いつくされて、骨と腱だけが残る」


『悪の華』シテールの旅。


「むごいね。僕もむごいのは嫌いだ」


「生きてると、だんだん老いて皺だらけになるけど、たぶんいいことは起こるし、それに今の私はすごくかわいいから」


「嫌なことがあったんでしょ?」


「最近は、とくに」布衣野の顔がすこし翳った。「別に、嫌ってほどのことでもないのかもしれませんけど、何かこう、ままならないなあ、と思うと、ストレスを感じてまして」


「家族とか友だちとかで、うまくいかない人がいる」


布衣野は首肯した。


「〈気に入らないなら殺せばいい〉は、ちと横暴かな」


でも嫌いな人が死ぬなんて、ちょっと面白いと思わない?


「あ、まあ」布衣野は答えに困った。それを全面的に肯定するのは気が引ける。


「ハハハ突飛すぎたね。これじゃカウンセリングが必要なのはどっちだかわからんね」


えへ、と布衣野は笑んだ。苦笑い。


「まあでももう時間だ」医者が言う。「午前のお試しカウンセリングはひとり十五分。今ので二十分経った。もっとやってもよかったんだけど、もっと深刻そうな人がひとり来たみたいだから、すまんね」


また来てもいいよ、それを最後に聞いて布衣野は診察室を出た。


国民皆保険の三割負担で五四○円であった。



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