第35話 もう一度

 愛と家に帰って来ると、母さんが玄関先で待っていた。母さんは少し照れくさそうに顔を背けてこう言うのだった。


 「おかえりなさい」


 一度も言われた事の無い言葉に、愛もさぞ驚いている事だろうと隣に目をやると、愛の瞳には涙が浮かんでいて今にも零れ落ちそうだった。


 「ただいま」


 たったそれだけの言葉を交わしただけで、二人共互いに抱きしめ合いすすり泣いていた。それから堰を切ったように「ごめんね」と「ごめんなさい」のラリーが続いたのだ。


 一頻りそうした後、場所をリビングへと移した。落ち着きを取り戻した愛は、家出の理由を母さんに告げた。それを聞いた母さんもまた思いを吐露するのだった。


 「そう……だったの。ごめんね気付いてあげられなくて。あの人とはもう終わっているから、二度とこの家には来ることはないわ。私もどうかしてたの、心細くてどうして私だけって思ったら、もう相手なんて誰でも良くって――」


 また泣き出しそうなくらい弱弱しくなる母さんを見て、俺達兄妹は返す言葉が見つからなかった。だけど、今なら教えてくれるかもしれない、今まで知りたくても聞き出せなかった事を尋ねた。


 「俺達の父さんは今どこにいるの?」


 離婚した、別れた、というのは幼い頃に聞いた事があるけど、俺達兄妹は父さんの今を知らない。本当は聞きたくない、俺達兄妹が望まれた存在では無いというのが一番つらい。


 母さんは苦虫を潰したような表情で話し出した。


 「……彼は亡くなったわ。あなた達が生まれてしばらくした後に事故でね。私は必死だったのよ、彼との間に出来たあなた達を守らないと……育てないとって。そればっかりに気を取られて、あなた達を見ていなかった。本当にごめんなさい」


 母さんは再び涙を流し、手に持っていたハンカチで拭っていた。俺の一言で辛い思い出を振り返させたのには少し罪悪感が生まれた。だけど、望まれて俺達はここにいるんだという事を知っておかなくちゃいけなかった。


 「話してくれてありがとう。俺も母さんの負担を支えられるようにアルバイトとか頑張るから、やり直そう、もう一度」


 「愛にも手伝える事があったら言って、何でもするから」


 「ありがとう、二人共」


 こうして俺達は少しだけ理解し合えたと思う。ここからまた手探りの状態が続いてまだ見えていない正解への道を探して行く事になる。俺が歳を取って、振り返った時に良かったと思えるように――。


 それから俺が学校に行ったのは事故に遭ってから四日が過ぎた頃だった。今朝は家族三人揃って朝食を取った。「家族なんだから食事くらい皆で食べたい」そう言い出したのは愛だった。家族としての遅れを取り戻そうと愛なりに考えたのだろう。ただ、あまり会話は弾まないまま終始ぎこちない感じで終わったが、今朝の味噌汁はいつもより温かく感じた。


 道すがらどこかの家から線香のような匂いが漂ってきた。その匂いを突き破って俺は颯爽とペダルを回す。しかし、その動きを止める場所があった。あの大通りまで、到着したのだ。信号機は赤色、いつもと変わらない風景で登校中の学生や社会人が信号待ちをしている。ぼんやりと、あの日の事を思い出していると「佐野君だよね?」と声が掛かった。


 聞き覚えのある声。その主を見た俺は、あっと小さく驚くのだった。


 「そうだけど、どうしたの? 暁ひ……多葉田君」


 彼は申し訳なさそうに俺に告げる。


 「怪我大丈夫かよ? ごめんな、あの時もっと俺が手を伸ばせていたら助けられたかも知れないのに――」


 深々と俺に頭を下げる多葉田君を見て、目の奥が少し熱くなった。あの世界で暁彦には充分助けて貰った。僕の友達でいてくれた、僕の見ていた世界を広げてくれた。だけど、ここにいる多葉田君は彼では無い――。俺は最初から築いていかないといけないのだ。


 「大丈夫だよ。俺の方こそごめん、目に見えてたんだけど手を取れなくって、多葉田君は優しいんだね。それに俺の名前も覚えてるなんて、あまり話した事無かったけど?」


 多葉田君は照れくさそうに鼻を掻いている。


 「そんな事ねえって、それを言うなら佐野君も俺の名前知ってんじゃん」


 「クラス委員の名前は知っていて当然でしょ?」


 「あっ、そうか」と自分で納得していた。続けて多葉田君は気さくな感じで言った。


 「俺の事は暁彦って呼んでよ。前からそう呼ばれてるんだ」


 「じゃあ、俺の事も蓮って呼んで、その方がなんか……しっくりくるんだ」


 話が一段落した所で、横断歩道の先から声が聞こえる。


 「馬鹿暁彦! 信号点滅するよ。学校遅れても知らないんだからね」


 友原さんが急かすようにそう言っていた。その傍では海崎さんの姿が見て取れた。その言葉を聞いて信号機に目をやると、点滅が始まっていた。「あっ、やっべ」と、ぽつり呟く暁彦に俺は言う。


 「俺の後ろに乗って暁彦」


 「おっ、サンキュー」


 二人分の重みを感じながら俺は車輪を回し、横断歩道を渡る。その瞬間、風がぶわっと吹いて桜の花びらが舞い踊る。


 空耳だろうか? 俺の後ろから聞き覚えのある優しい女の子の声が重なり合い「いってらっしゃい」そう聞こえたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

過ぎ去った日々をもう一度  神村 涼 @kamira09

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ