第二話 ホステス高校生

 高校生になっていちばん嬉しかったのは、アルバイト出来るようになった事。高校の近くにあるショッピングセンター内のケーキ屋で働き始めた。時給は四百五十円。当時としては普通だった。

 学校が終わると制服のままアルバイト先へ行き、そこの制服に着替えてケーキを販売する。ケーキの種類が多く、覚えるまで大変だったけど、母親はろくにお小遣いなんてくれなかったから、アルバイト代は貴重だった。もらった給料はとにかく貯金。友達に映画に行こうとか誘われる事もそりゃたまにはあったけど(その友達は私を苛めない子だった)、それよりお金を貯めて高校卒業と同時にアパートを借りて母親を捨てるつもりでいた。高校だけは卒業しておこう。それまではあんな母親でも、こんな田舎でも、辛抱しよう。

 心の中でいつも早く、早くって思っていた。早く大人になりたい。早くひとりで暮らしたい。早くこの生活から抜け出したい。早く青い鳥を見つけたい。早く早く早く・・・。

 放置されるのも嫌だったけど、母親が男を作る方がもっと嫌だった。いちばん嫌だったのは、家に母親の男が来る事。本当にそれがいちばん嫌だった。この人に母親の資格はない!こんな酷い母親いない!って、常に思っていたよ。決して本人には言わなかったけどね。

 私が出掛けている間に男をアパートに呼び込み、寝乱れた布団を見るのも、男が気まずそうな顔で私を見るのも、母親が悪びれもせずに平然としているのも、お金がないのも、放置されるのも、何もかも耐えられなかった。こんな酷い育ち方している子なんて、私くらいだろう!


 家はとにかく苦痛だった。だからなるべく外にいるようにしていた。ケーキ屋でシフトを増やしてもらい、働いている方が楽だと思っていた。

 そうそう、ケーキを買って行くお客さんが喜んでいる姿を見るのは好きだったな。この人は恋人の為に誕生日ケーキ選んでいるんだなとか、この人は孫の入園祝いの為に買うんだなとか、この人は親の還暦祝いの為とか、この人は今日が結婚記念日なんだなとか、色々背景が見えて微笑ましかった。

 いちばん微笑ましかったのがね。私と同世代の男の子が来た時の事。ショーケースの前でホールケーキを見ながら、どちらにしようかな、っていうように指を動かしていたの。私と目が合い、照れくさそうな顔をしたから

「迷いますよね」

って、声をかけたの。そうしたら

「今日、母親の誕生日なんですよ」

って、話してくれたの。まあ親孝行な若者だ事、って感心したもんさ。きっとまともな家庭に育った男の子なんだろうね。って事は、親もまともなんだろうし、だったらそのお母さんは息子にお金を使わせたくないって思う筈。まして同じ高校生ならお金もないだろうと思って、こう言ったの。

「小さくてもお気持ちがこもっていれば、じゅうぶん喜んでいただけますよ」

 そうしたらその男の子、小さい方のホールケーキを選び

「プレートにお母さんって書いてください」

って、言ったの。私が下手なりに一生懸命書いてケーキに乗せ

「これで良いですか?」

って、聞いたら本当に嬉しそうに頷いてくれて、こっちまで幸せな気持ちになったな。包んだケーキを渡しながら

「おめでとうございます」

って、心から言えた。その男の子がニコニコしながら帰って行く姿を眺めながら、心を込めて接客するたいせつさを学んだよ。

 その男の子だけでなく、ケーキ買う人って大抵幸せそうだから、見ていて嬉しかった。みんな決まって楽しそうに受け取って、足取り軽やかに帰って行った。お客さんに

「有難う」

って、言ってもらえるのがいちばん嬉しかった。お金を払ってもらっているのはこっちなのに、有難うなんて言ってくれるなんて、このお客さんよっぽど性格が良いんだな、なんてね。

 売れ残ったケーキをもらえるのも有り難かった。母親は私の為におやつを用意してくれた事なんて一度もないし、お店のお客さんからもらった高そうな御菓子を自分ひとりで食べちゃうし、せめて半分こだろ!まったくどっちが大人か子どもか分かりゃしないよ!

 アルバイトの後、

「お疲れ様」

って、笑顔で見送ってくれる店長や先輩たちに見送られるケーキ店からの帰り道はいつも楽しかったな。

 だから半年くらいでその店が閉店する事になった時、すごく残念だった。売り上げが振るわないから、だって。ああ接客って楽しかったんだけどなあ。またどこかで何かやるかなあ、どうしようかなあって迷った。


 でね、求人雑誌をめくっている時に、ふと思ったんだ。

 私、将来何になるのかな、っていうか、何になりたいのかな。

 その時、湧き上がるようにこう思った。


 そうだ、私は銀座の高級クラブの超売れっ子ホステスになろう。

 母親は坂戸の安アパートしか借りられず、埼玉のクラブホステスに甘んじている。けれど私は都内で暮らし、誰もが一目置く銀座の一流クラブで働こう。よし、必ずそうしよう。

 だったら今からその準備をしなくては。高校生だし銀座ではまだ雇ってもらえないだろう。坂戸から銀座に通うのは物理的に無理だけど、家から通える範囲の店なら雇ってもらえるだろうし、クラブのなんたるかを勉強出来る。今は本番を迎える前の準備期間と考えよう。

 そこでナイトクラブに応募した。高校一年生にして、ホステスになったよ。学校や家からは少し離れた場所にある店を選んだし、年は十八歳と偽ったけど。

 勿論躊躇したし、口から心臓が出そうな程緊張したよ。クラブ特有の雰囲気に飲まれたし、酒はまずいし(みんなどうしてこんなまずいものを好んで飲むのか分からなかった!)、客と何を話せばいいのかも、何をどうすればいいのかも、何にも分からないし。

 けれど先輩ホステスが水割りを作ったり、灰皿を用意したり、客と話したりするのを見てこうすればいいんだなって覚えた。洋服も、母親が着なくなったスーツやワンピースをアレンジして着て凌いだ。洋服なんて買っている場合じゃなかったしね。

 働いている人たちを見ていてこうはなりたくないって思う事もいっぱいあったけど、気の毒でいたわらずにいられない時も同じくらいたくさんあったよ。

 この人たちも家に帰れば、私くらいの息子や娘がいるんだろうし(うちの母親もそうだが)こんな年まで雇われの身で水商売しているなんて本当はつらいだろう。どの客にもババア呼ばわりされて傷ついているだろう。どう見ても四十歳は過ぎているのに、自分は二十四歳、二十四歳と繰り返し言い張って、年をごまかしているのもしんどいだろう。

 自分の店を持ちたいって夢を持っている人、

 ここでナンバーワンになるって張り切っている人、

 私も昼間はOLですからって、この仕事だけじゃないんだと主張したげな人、

 借金を返す為に仕方なくやっている人、

 何の資格も技術もないからここにいるしかないって人、

 もう年だからこの道しかないって人、

 色々な人がいた。

 共通して言えるのが、どうしてもこの仕事をやらざるを得ないって事。

 もうひとつ、みんなあまり自分をたいせつにしていないって事だった。

 自分をいたぶるような酒の飲み方をする人もよく見た。客でも働いている人でも…。そりゃあ見ていてつらかったよ。

 お客でも特定のホステスに毎回意地悪して傷つけている人がいた。何でそんなにいじめるんだろう、その先輩ホステスが可哀想だった。

 みんな本当は嫌なんだろう。意地悪するのもされるのも悪酔いも、本心ではないんだろう。クラブからの帰り道はいつもさびしかった。


 でね、ある朝登校した時の事。

 教室の黒板に私の似顔絵がデカデカと書いてあったの。ドレス姿でお酒のボトルを手に笑っている姿で、特徴とらえてうまく描いてくれちゃっている上、「山路美知留」って名札まで描かれていた。黒板の上には大きく「ホステス高校生」って書いてあるし…。

 呼吸が止まったよ。どうしてばれたんだろう?…分からない…、けど現に目の前の黒板に書かれている。

「山路さん、ヤバいバイトしちゃって」

「でも山路さんの場合、親が親だもんね」

「蛙の子は蛙ってこの事ね」

 クラス全員が非難する目で私を見る。

「って事は、お尻も軽いの?」

 男子が一斉に嫌らしい目で見る。

「お客に変な事、されてるんでしょ?」

とまで言われた。

 もう耐えられなかった。そのまま教室を飛び出す。

「山路さん、どうしたの?」

 途中で先生にすれ違い声を掛けられたが、無視してそのまま家に逃げ帰った。母親はまだ寝ている。どうせ話なんて聞いてくれないんだろう。

 それまでホステスやっている事は誰にも言わなかったし、ばれていないだろうと思っていた。友達とも当たり障りないように接していたし、なるべく自分の事は話さなかった。ってか、話せなかった。

 とにかく今をやり過ごして早く大人になって生活を変えたいとしか思っていなかったし、小学校時代から母親のせいでからかわれたり、見下されたり、散々嫌な思いしたし、何より可哀想な家の子だって思われたくなかったから。

 みんなの視線を思い出す。ああもうあんな学校、今日で辞めるんだ。行ける筈ない、行ったらいじめられる、きっと嫌らしい事も要求される。

 私は確かにホステスやっているけど、それは将来の夢を叶える為にそうしているのであって、お客さんと変な事するわけじゃないし、決してお尻の軽い子なんかじゃない!

 それから本当に登校出来なくなった。「しない」のではなく「出来なくなった」。

 先生が心配して家まで来てくれたけど、会わなかった。

 母親も私が学校に行かない事を何も言わなかった。 


 信じられない母親!

 娘が苦しんでいるのに!

 無関心も無神経もいい所だよ!

 本当にこんな酷い母親がどこにいるんだよ!


 電車で大宮まで行ってみたら駅前はなかなか栄えていて、働く所は幾らでもありそうに思えた。よし、お金を貯めるまではこの近辺のクラブで働こう。銀座に出るまで、ここで修行をしよう。勿論青い鳥も見つける!

 そう決め、レストランとクラブでそれぞれ面接、朝から晩まで大宮で働き始めた。

 坂戸に住む者にとって、大宮は大都会だ。友達と会う危険は少ないだろう。

 とにかく高校という縛りが無くなった事は良かった。卒業を待たずとも、金さえ出来ればいつでもあのサイテーな母親を捨てられるんだから!


 そうそう、レストランの仕事もまあまあ好きだったよ。お腹すいていてご飯食べたい人の気持ちは分かるからね。空腹でげっそりした顔で入ってきたお客さんが好きなものを選び、満腹して気分良さそうに帰っていく姿を見るのは好きだった。

 恋人同士で料理を分け合って食べている人たち、

 子ども連れの家族、

 誕生日祝いの為に来ている人たち、

 同窓会、

 主婦の息抜き、

 サラリーマンの昼休み、

 どんなお客さんも微笑ましかった。私が運んだ料理を嬉しそうに、おいしそうに食べている姿を見ているのはこっちも幸せな気分になれたな。

「ご馳走様。おいしかったよ」

って、言ってもらえるのも嬉しかったしね。

 クラブで嫌な客もそりゃあいたけど、この人はきっと会社で嫌な事があって私に八つ当たりしているんだろうと思うと、やっぱり可哀想で邪険には出来なかった。

 そう、私の高校時代の友達のように誤解している人も多いけど、クラブの仕事は「会話で相手を楽しませる事」が主だった。いろんなお客さんいたけど、楽しい会話を目的とする人が多かった。これは母親と会話らしい会話がなかった上、友達とも本当に打ち解けて何か話す事が少なかった私にとって、「有り難い話」だった。

 私は誰かと「会話がしたかった」のだ。何かにつけ、突っかかって来る人もいたけど、この人は誰かに突っかかられてきたんだろうと思うと、気の毒でやはり素っ気なくする事は出来なかった。

 毎日たくさんの人と会話が出来る、これ以上「嬉しい話」があるだろうか。

 私は接客が好きだった。


 行ってりゃ高校二年生の春、笑いさざめきながら歩いているギャルやボーイが羨ましかったな。私もあんな事がなければ学校に行っていたのにさ。だがあのクラス全員の軽蔑の眼差しには耐えられなかった。中退した事は後悔していない。

 そんな時、レストランで一緒に働く友達がアパートを借り、

「美知留ちゃん、一緒に住もう」

って、言ってくれた。彼女もさびしかったんだろうね。

 彼女が借りたアパートは与野にあり、駅からバス便で、バス停からも随分遠かった。おまけに築四十年とかで古いしぼろいし汚いし、トイレは汲み取り式で、風呂もなくて銭湯通い!だがそんな事は言っていられない。即座に転がり込んだ。やっとあの母親から逃れられた!新しい環境に小躍りするほど喜んだ。

「亜紀ちゃん、有難う」

 心からお礼を言って、有り難く住まわせてもらった。浦和駅前にあるレストランとクラブで働き始める。

 だが、すぐうまくいかなくなった。亜紀ちゃんは彼氏と住みたくなったようで、彼氏まで引き入れて、三人の本当にみょうちきりんな共同生活が始まった。

「ここは私の家だから」

って、そればっかり言って私を邪魔にする。彼氏も私を疎ましそうに見ている。その視線を見ていると、母親の男が私を見る目を思い出した。

 ああ居たたまれない。ここに青い鳥なんていない。


 そんな時、別の友達が蕨にアパートを借りた。一応風呂付きで、トイレは水洗だった。

「美知留、こっちに来な」

 なんて有り難いんだ、すぐ転がり込む。そして川口駅前のレストランとクラブで働き始める。

 …だが、それもすぐうまくいかなくなった。

 その友達は潔癖症で、私のやる事なす事気に入らないらしく

「汚い!」

って、年中叫ぶの。ああここにも青い鳥なんていやしない!


 うまくしたもので、別の友達が宮原にアパートを借りた。

「美知留、おいで」

 救いの神に見えたよ。すぐ転がり込んだ。そこも風呂がなかったし、共同トイレだったけど、そんな事言っていられるか!

 上尾駅前のレストランとクラブで働く。何か、同じ事を何度も繰り返しているような気がした。そしてすぐうまくいかなくなった。そこも同じだった。

 その友達は何かにつけ私に支払いを要求した。家賃や水道光熱費、食費を折半というのはまだ分かったが、カーテンや鍋等の買い物も毎回私に半分出させる。そのうち迷惑料と称して毎月三万円の支払いを命じてきた。たまったもんじゃない。


 女友達と暮らすのは無理だと学習した。

 そんな時、初めての彼氏が出来た。五つ上で、建築会社で働いていた。親との仲も悪くないみたいだったが、私が住まいに困っていると言った所、

「一緒に住もうと思えば、どんな事をしたって」

そう言ってくれた。現に貯金をはたいて南栗橋にアパートを借りてくれた。勿論風呂付きでトイレは水洗のアパート。

「美知留、俺と暮らそう」

 真っ直ぐな目で、笑顔で、そう言ってくれた彼。プロポーズされたように嬉しかった。ちょうど十七歳の誕生日がアパート契約の日で、これ以上嬉しいバースデープレゼントはなかったな。契約の後、ケーキ屋に連れて行ってくれて

「好きなケーキ選べよ」

って、言ってくれた。私が遠慮して小さめのホールケーキを選んだら、お店の人に

「バースデープレートに、美知留って書いて下さい。ロウソクも下さい」

って、頼んでくれた。あまりに幸せで、涙が出そうになったよ。親にさえ誕生日を祝ってもらえない人生だったからね。

 アパートに帰り、大きなロウソクを一本、小さいロウソクを七本立てて火を付け

「ハッピーバースデー、トゥーユー、ハッピーバースデー、ディア、ミチル、ハッピーバースデー、トゥーユー」

と歌ってくれた。私がふっと息を吹きかけ、ロウソクを消すと同時に

「おめでとう。美知留、おめでとう」

と笑顔爛漫で拍手してくれた。ああこれからずっとこの人と一緒にいられるんだ、と天にも昇る気持ちになれたな。

「私ね、親にも誕生日祝ってもらった事ないの」

そう正直に言ったらびっくりされた。

「え!そんな親いるの?」

だって。そうだよね、うちの親は信じられないような親だからね。

「美知留、この部屋と家財道具が誕生日プレゼントだよ。これからも毎年俺が美知留の誕生日を祝ってやるからな」

そう力強く約束してくれた。新しい部屋と、新しい家具。新しい生活。ああこの人の為に一生懸命やっていこう。笑顔で頷いたあの日の私。

 それからも毎日が本当に楽しくて笑ってばかりいた。やっと幸せになれたと思えたし、彼が青い鳥を持っていたと確信したしね。仕事は春日部駅近くのレストランに決めた。

 この頃、自分が銀座のクラブホステスになるって夢を忘れていたな。彼が幸せにしてくれるなら、銀座なんてどうでもいいやくらいに思っていたしね。朝から夕方まで一生懸命働き、帰ってからは彼の為に一生懸命家事をした。

 …だが、彼は貯金をはたいた事をずっと恩着せがましく言い続け、家事を全部私に押し付け、自分はいつ見ても休んでいた。私だって疲れているのに…。

 確かに彼は敷金礼金を全部払ってくれたし、家具や台所用品も買ってくれた。誕生日を祝ってくれたり、一緒に出掛けたり、良い思い出も作ってくれた。けれどそれを恩に着せて、私が一生懸命家事をしている姿を手伝いもせずにただじれったそうに見ているなんて…。


 仕事と買い物を終え、くたくたになりながらアパートに帰り着いたら、彼が電話で友達と話している最中だった。私が帰った事に気づかない彼が大声でこう言っていた。

「美知留?出かけている。あいつ家事が下手でさ。見ていてイライラすんだよ。もっと要領よく、うまくやれってーの!ほんと一緒にいてむかつく女だよ。もう別れてえよ」

 …愕然とした。本当はそんなふうに思っていたなんて…。

 物音に気付き、振り返った彼が私を見て、しまった、と言う顔をしている。

 お互い何か言いようがない。ただ黙って立ち竦んでいた。一緒に暮らそうと言ってくれた時は物凄く頼もしく見えた彼が小さく見える。こんなちんけな人に恋していたなんて…。

 それで目も覚めたし、恋も冷めた。もうここにも居られない、かといって貯金もないし、自分でアパートを借りる資金はゼロだ…。

 とりあえず少ない荷物を持ち、黙ってアパートを出る。彼は追いかけても来なかった。


 行く当てもなく、仕方なく坂戸に帰ったら、母親が私の顔を見てこう言った。

「あ、お帰り」

 …お帰りじゃないだろう!一年ぶりに帰って来た娘に言う言葉かよ!どこに行っていたのか?とか一言も聞こうとしない母親!相変わらずホステス稼業続けているらしいし。

 たったひとつ、引っ越さずにいてくれた事だけは親らしいと言えた。

 なるべく近所と関わらないように、友達に会わないように、気を付けながら川越駅前のレストランとクラブで働き始めた。夢を叶える為、昼も夜も懸命に働く。そう言えばこのアパートには風呂もあり、トイレは水洗で良かったなと、うっすら思いつつ。


 今度は自分でアパートを借りよう。それがいちばん良いんだ。いつも友達や彼氏に寄生していたけど、今度こそ自分の力で部屋を借りるんだ。それに坂戸よりは都会に思えたが、春日部やら上尾やら、埼玉県内をぐるぐる回っていたって都会に出たとは言えない。次こそ東京にアパートを見つけるんだ!勿論風呂付きで、トイレは水洗で、駅から徒歩圏内で、新築で、ずっとここにいたいって思えるようなアパート!

 忘れちゃならない!私には、都会で暮らしながら、銀座の高級クラブの売れっ子ホステスになるって夢があるんだ!その夢を叶える為に、今こうして準備しているんだ!

 もらった給料はとにかく貯金。母親はまったく変わらない。濃い化粧を施し、髪を結って派手なスーツを纏い、夕方出かける。相変わらず家事はまったくしない、男は作る、おいしい御菓子はひとりで全部食べる、私の事は眼中にない、誰の目も気にしない、勿論私の目も気にしない、自分さえ良ければそれでいい、超自己中心的なクズ女!


 行ってりゃ高校三年生の秋。進学だ、就職だって騒いでいる同年代の人たちを横目に見ながら、やっと溜めた五十万円を手に東京都内の不動産屋をまわった。そして目黒にまあまあのアパートを見つけたよ。

 目黒って言うと高級住宅街ってイメージがあったけど、そうでもなかった。駅から徒歩十分。築も浅めだし、外観も可愛いし、五畳の洋室に小さいキッチン、備え付けのワンドア冷蔵庫、電気コンロ、クロゼット、ユニットバス。そして何より決め手になったのが、当時としては珍しいロフトが付いていた事。ここに寝れば下は広く使える!そう思った。その頃、玄関の脇に洗濯機を置くアパートが多かったけど、ベランダで洗濯できるっていうのも気に入った。しかも二階の角部屋。家賃は六万五千円。なかなかの掘り出し物だったから即決した。

 どうせ母親は私がどこで何していたって無関心なんだろう。黙って坂戸を後にする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る