第3話 ロンド
朝は緊張から吐きそうな気持ちになりながら押し開けた玄関の扉を、今はなんだか寂しいような、それでいて少しだけ誇らしい気持ちも隠せない複雑な心境でロンドは引いた。
「あら、お帰りなさい。面接はどうだったの?」
扉を開けた途端に鼻をくすぐる夕飯の香りに、思わず涙が出そうだった。生まれてからこれまで、ロンドはこの家――ロンドの実家であり両親と息子であるロンドの三人暮らしをしている、平凡なドラコニアンのための住宅である――を出て、まさか社員寮生活をスタートさせることになるなんて思ってもみなかった。
擬態を解いた状態の成人男性ドラコニアンでも難なく出入りが出来るようにと大きめに造られた木製の玄関扉に、それと同じく広くスペースの取られた玄関にて立ち尽くすロンドは、玄関から入ってすぐのリビングの奥で夕飯の用意をしていた母親の問い掛けに答えることが出来ないでいた。
耳から伝わる母親の声が、更に涙腺を刺激して、その場で泣き崩れてしまいそうになる自分を抑えることで精一杯になってしまう。いつまで経っても返事も入って来る様子も見えない息子を心配してか、母親が怪訝な表情をしながら手におたまを持ったまま玄関までやってくる。父親はどうやらまだ仕事らしい。確かにまだ時刻は夕方なので、普段から仕事が終わるような時間ではない。
「こら、ロンド。言わなくちゃ母さんには何もわからないわよ? 何泣きべそかいてるの。さては、面接落ちちゃったの?」
そう言いながらロンドの目に溜まった雫を片手で拭ってくれる。なんの容赦もない言葉とは裏腹に、その手は穏やかな気遣いに溢れていて。
ドラコニアンの擬態には年齢がしっかり出てしまう。目尻に刻んだ年齢分の皺をくしゃっとさせて笑う母は、いくつになってもロンドを支えてくれる親だった。今ここにはいない父も、きっと同じようにロンドを愛情で包んでくれるに違いない。
「母さん、違うよ。僕……受かったんだ」
母親の手を照れ臭く思いながら払いのけ、そのまま自分の腕で涙を拭いながらそう言ったロンドに、母親は目を丸くする。
「そうなの? 泣いて帰って来るもんだから、てっきり面接駄目だったのかと思ったじゃない。でも……ならなんで泣いてるの?」
「それが……今夜から社員寮に入ることになって……」
ロンドは驚く母親に、今日の面接のことと、その後先輩にここまで送り届けてもらったこと、そして社員は全員が社員寮に入るのが規則だということを説明した。説明をしている間、母は意見を挟むことはしなかったが、ところどころで心配そうな表情をしたことが気になった。
「……そう。もう、今夜から即採用だってわかってたら、ご馳走用意してお父さんと待ってたのに。この調子じゃ、お父さん、ロンドの先輩が迎えに来るまでに間に合いそうにないわね」
「いやいや、大袈裟だって母さん。確かにいきなり今夜からって聞いた時はびっくりしたけど、隔離されてるわけじゃないんだから、週末にはまたバスで帰って来るよ」
「そ、そうよね。やだ、私ったら……なんだか今生の別れみたいにね。うん、それにしても……ロンドもこの家を出るぐらい大人になったのね……」
涙を拭った息子の前で、今度は母が涙ぐむ。それにつられてロンドの目にもまた熱いものが込み上げてくるのだが、今度はそれを霧散させたのは母でもロンド自身でもなく、扉の向こうから聞こえる車のクラクションの音だった。
「っ! 多分、先輩だ」
「あら、こんな早くになの? もう、全然準備も出来てないじゃない。母さんからも挨拶をしておくから、ロンドは早く準備してきなさい」
「ごめん母さん。そうしてくれる? お願い」
慌てて涙を拭いながら、母は頷きロンドの横を抜けて背後の玄関扉を開ける。その音を背中に受けながら、初めて出来た会社の先輩を待たせるのは悪いと思い、ロンドは慌てて自室へと引っ込むのだった。
初めての一人暮らしには、いったい何を持って行けば良いのだろうか。
こんな問いを解決する時、きっと普段のロンドなら、まずは『一人暮らしの指南書』を購入してくることだろう。就活というより面接対策のために真っ先に用意したのも指南書であった。
『本を読めば、他人の人生の知識を簡単に手に入れることが出来る』と、ロンドは事あるごとに父親から教わっていた。母はあまり活字が得意ではないようだったが、機械技師であるロンドの父親は、その頭に入れるほとんどの情報を書籍から吸収しているような存在だった。
機械技師とは人間達が呼ぶ職業名のことで、ドラコニアン達の間では一般的に『魔導士』と呼ばれる存在である。ガルディアが車を走らせた炎駆の力を更に強めたような魔力の持ち主で、更に複雑な造りをした機械――人型だったり高度な性能を有する鉄の塊を自在に動かすことが出来るのだ。
先祖の全てが炎系のドラコニアンで占めているロンドの家系では、代々炎属性の魔力を強めて来た過去がある。それはこの里では割とよくあることで、ドラコニアンとしての魔力を不純なく強めるためにも必要不可欠なことであった。
ドラコニアン同士の結婚には血筋が最も重要視されると言われている。魔力の相性が良い相手と結婚し、更に強い魔力を有した子を産むのが理想と考えられているのだ。魔力の相性という観点がある限り、その結婚相手は同じ属性を持つ相手でなければならない。
ロンドが気になっているポルカは残念ながら氷属性の魔力を有しているのでこの時点で結婚は絶望的なのだが、それでも想うくらいは自由だろうと、これまた本から得た情報で考えている。ロンドが読む本のジャンルは広いのだ。
「んー、寮ってことは寝具はある、よな? 着替えと本と、あとは……何がいるんだろう。あー、こんなことなら指南書買っておけば良かった」
とりあえず手持ちの中で一番大きな旅行鞄に着替えと本を放り込み、二着あるスーツはひとつはガーメントバッグに入れ、もうひとつは今着用中なのでこのまま着ていくことにする。どうせ寮と言っても職場に向かうのだから、このままの方が良いだろう。赤の髪に合わせたダークスーツは、まだ着慣れてこそいないがそれなりにしっくりくるような気持ちがするので気に入っている。これぞ戦闘服、という感じだ。
会社の寮というものを見たことがないロンドは、想像上でしか用意が出来ない自分を呪いながら、取り急ぎ必要そうなものだけを詰め込む作業に集中する。
必要最低限生活が出来る分だけはなんとか詰め込むことが出来たので、あとは洗面用具を詰め込みに風呂場へと向かう。最悪、服とエチケット用品とスーツがあれば、週末まではやり過ごせるだろう。あとは足りないものを買い出しに行くなり取りに戻るなりすれば良い。
幸い、職場まではバスに乗りさえすれば一本で着く。少しばかり時間がかかるのはネックだが、この際贅沢は言ってられない。この里の中で就職活動なんてしようものなら、家業の手伝いか慢性的に人手が足りない業界での仕事をする他なくなってしまう。専門職に就いている父はともかく、パートとして働きに出ている母がどんな苦労をしているかは、それなりにロンドも理解しているつもりだ。
「僕が働けば、母さんもちょっとは楽出来るよな? よし、行くか」
とりあえずの生活用品は詰め込んだ。学生時代の旅行に使ったままだった大型のバッグを肩から掛けて、ロンドはまだ外でガルディアと話し込んでいるであろう母を追って玄関扉に手を掛けた。
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