葉音に消された告白
紫 李鳥
前編
夫には女がいる。そう直感したのは、突然、帰宅が早くなったからだ。それまでは、同僚と呑んでいたとか、パチンコをしていたとかで、8時、9時に帰っていた。突然の真っ直ぐの帰宅は、逆に疑惑を抱かせた。その代わり、毎週土曜日は、取引先との接待ゴルフという名目で出掛ける。このゴルフこそが浮気なのだ。
11月×日の土曜日。グレーのゴルフウェアに黒のセーターを重ねた夫は、車のトランクにゴルフバッグを入れながら、
「終わったら真っ直ぐ帰るから、なんかうまいもんでも作っといてくれ」
悪びれる様子もなく、笑う目を向けた。
「えぇ。行ってらっしゃい。気を付けてね」
私は作り笑いで応じた。
その電話があったのは、当日の夕方、水炊きの下ごしらえをしている時だった。
「はい」
「香坂さんのお宅でしょうか」
初めて耳にする、こもったような男の声だった。
「はい、そうですが」
「奥様ですか」
「はい。どなたですか」
「申し遅れました。わたくし、新宿△署の吉田と言います」
「……△署?」
「ご主人が、ガーガーガーッました」
電車が走り去るような音がした。
「もしもし、聞き取れないんですが」
「もしもーし」
「はいっ」
「ご主人が亡くなられました」
「えっ!亡くなった?」
すぐには言葉の意味が理解できなかった。
「……死んだ?いつ、どこで」
気が動転していた私は、早口で捲し立てた。
ーーゴルフの帰り、交通事故に遭い、即死。それが、△署の吉田という男が話した内容だった。
不安と絶望に身を震わせながら、焦る気持ちがタクシーを拾っていた。夫の遺体に直面する心構えを備えながらも、変わり果てているであろうその顔を、直視できる自信などなかった。
△署の前で降りると、
「あ、香坂さんの奥様ですか」
と、夫と同年輩の男が声をかけてきた。電話を寄越した先刻の警察官と関わりがあるのだろうと思い、何の疑いも抱かず、
「はい」
と即答した。
「私、香坂さんの同僚で、堂本と言います」
「……同僚?」
……どういうことだ?どうして夫の同僚がこんなとこにいるの?
「先ほど、成田△署から電話があって、香坂さんの遺体は成田△署が預かっているとーー」
「えっ!どういうことですか」
意味が分からなかった。
「新宿△署の吉田さんという人が、奥様に話すのを忘れたとかで、急いでご自宅に電話したらしいんですが、すでに外出した後だったのか、電話に出ないということで、私のほうに連絡があったんです」
堂本と名乗る夫の同僚は、物事の順序を
「……そうだったんですか」
納得した。
「どうなさいますか?この足で成田に行かれますか?それとも、明日にしますか?」
堂本は私に決めさせる言い方だった。
「……これからまいります」
このまま帰宅しても眠れそうになかった。
……乗りかかった船だ。
「では、道案内します。ゴルフで何度も行ってますので、土地勘があります」
「お願いします」
堂本は心強い存在だった。実際、誰かの支えがなければ倒れそうな状態だった。
黒っぽいセダンの後部座席に私を乗せると、堂本は首都高速に向かった。
「高速に入る前に何か飲みましょう。コーヒーでいいですか?」
堂本がコンビニの前に車を停めた。
「えぇ。できればブラックを」
背もたれした気だるい体を動かすでもなく、覇気のない声を吐いた。
間もなく、眠気覚ましのために飲んだコーヒーで、逆に眠気を催した。ーー
目を覚ますと、街灯が車内に差し込んでいた。
……いつの間に眠ってしまったのだろう。
運転席にいない堂本を探すと、夜景を眺めながらたばこを吸っていた。
「……あのぅ」
窓を開けると、堂本の背中に声をかけた。
「あ、目が覚めましたか」
振り返った堂本は、たばこを落とすと革靴の先でもみ消した。
「寝てました?私」
「ええ、ぐっすりと」
堂本のその言い方は、何やら含みを持っていた。
「奥さん。ちょっと車を降りてくれませんか」
命令的だった。
「……なんでしょう?」
ゆっくりと降りると、ドアを開けたままで堂本に正面を向けた。
「香坂はーー生きてますよ」
抑揚のないしゃべり方だった。
「エッ?」
思いもしなかった言葉に気が動転した。
「正確に言うと、まだ死んでないと言ったほうが正しいかな」
堂本は、街灯を映した眼鏡のフレームに指先を置いた。
「ど、どういうことですか」
訳の分からない堂本の言葉と状況に、私の頭は混乱した。
「香坂を殺すも生かすも、奥さん次第だってことですよ」
「あなたは誰よ」
私は後ずさりしながら、車の反対側にすり寄っていた。
「ですから、香坂の同僚の堂本ですよ」
堂本は薄ら笑いを浮かべながら、徐々に私に迫ってきた。
「主人はどこにいるの?」
「それは、後のお楽しみということで」
「私にどうしろと?」
「あいつと別れてください」
「……どうして?」
「俺、好きなんです・・・が」
突然吹いた風が木の葉を揺らし、肝心な箇所が聞き取れなかった。
「もう一度言って。なんて言ったの?」
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