第38話 我慢の徳川家康、天下への道!

【我慢の家康】

 最終的に天下を統一し江戸幕府をつくるのは家康です。しかし、若い頃は信長と秀吉の活躍ばかり目立っており、家康といえば三方原の戦いにて、う○こを漏らして、味噌と言い張ったくらいの、エピソードしかありません(笑)

 

 何故、家康が目立たないのかと言うと、それは家康の戦い方が『省エネ戦法』だからです。


 この省エネ戦法というのは、戦で負けたりして相手が弱っている時に攻め混む、というものです。

 相手が弱っている時に戦いを挑むので、少ない兵士でも勝てるし、自軍の損害も最小限に抑えられるわけです。

 しかし、この省エネ戦法には弱点があり、それは相手がいつ弱るか、わからないという点です。つまり受け身になりがちなのですね。


 家康は下手に行動して、自軍の負担を増やさない代わりに、相手が弱るまでじっと我慢する、という戦法だったのですね。


 さて、家康の個性はもう一つあります。


 それは、「倹約家ドケチ」という点です。


 信長は豪華な凱旋パレードをしたし、秀吉は金の茶室を作るほど、派手にお金を使いましたが、家康は……


家康「黄色いフンドシをはけば、汚れが目立たないから、洗濯が少なくすんで節約になるよね。だから、皆もはこう」


家臣「ええ (─.─||)」


 黄色いフンドシをはいて、洗濯代をケチっていました。


 また、徳川家の家訓を「一に質素、ニに質素、三、四がなくて、五に質素」にするほど、倹約家ドケチでした。



『我慢&ドケチの家康』と言ったところですね。

『バイオレンス&イノベーションの信長』や『スピードタイプ&コミュニケーションの秀吉』と比べたら、家康の個性というのはすごく地味です。


 しかし、我慢強い家康だから、長く続いた江戸時代を築けたのかもしれません。


 それでは、今回は家康が天下統一を果たし、戦国時代を終わらせた『関ヶ原の戦い』と『大阪夏の陣』という、2つの戦いを見ていきましょう。



【関ヶ原の戦いは何故起きたのか!?】

家康「いえーい! 秀吉の奴死んだぜ! これからは、俺の時代だ。豊臣家を守ってくれだって? そんなの知らね!」


 秀吉の死後、家康は政略結婚しまくって有力な武将と親戚になる事で、仲間を増やしたりして、やりたい放題していました。


 先程もお話したように、家康の戦い方は、相手が弱ったところを攻める、『省エネ戦法』でしたよね。

 朝鮮出兵に失敗し、主君である秀吉が死んだ今、明らかに豊臣家は弱っています。

 家康にチャンスが到来したと言ってもいいでしょう!


 豊臣家を無茶苦茶にしようとしている家康の事を、秀吉大好き三成が黙っているわけがありません。


三成「こら! 家康。一緒に豊臣家を守るって、秀吉様と約束しただろ!」


家康「そんな約束知らないよー」


三成「ムキー!」


家康「ああん? やんのかコラ」


 こんな感じで豊臣家内では、家康と三成の関係が悪くなっていました。


三成「くっそー! 家康ムカつく! あいつを倒さなければ豊臣家を守る!」


 こうして三成は『打倒・家康』をかかげ挙兵しました。


家康「くっくっく、いいだろう三成。その挑戦受けてたつ。豊臣家を滅ぼして俺が天下を握る!」


 こうして『家康VS三成』による、『関ヶ原の戦い』が発生したのです。



【人気が勝敗を分けた!? 関ヶ原の戦い】

 三成率いる西軍と、家康率いる東軍は関ヶ原という場所で戦う事になりました。


 西軍と東軍の兵力は、どちらも約8万人と言われており、戦力は同じでした。

 

 どちらが勝つかわからない、戦いでしたが……


三成「うおおおお! 皆俺に力を分けてくれ! 家康を倒す力を!」


 家康を倒すために奮闘する三成。しかし、先程もお話したように彼は多くの戦国武将から嫌われていました。


武将A「三成でいいの?」


武将B「俺、西軍だけど、実は三成が嫌いなんだよね」


武将C「家康ににつこうかな?」


 なんと三成の不人気が仇となり、多くの武将が離れていったのです。


武将A「やっぱり俺、家康につこう」


武将B「いたた、足を怪我したんで帰ります」


武将C「戦うの嫌だから、ここで見ていよう」


 西軍は士気があがらないどころか、裏切り者や、離脱者、ただ見ているだけの人が現れて、実際の兵力は家康の半分のなかったと言われています。


家康「残念だったな三成。時代は俺を求めているようだ」


三成「ど、どうして? 皆の力が集まらないんだ?」


家康「それは、お前が嫌われているからだよ!」


三成「そ、そんな!」


家康「くらえ! 天下統一アタック!」


三成「ぎゃあああああああああああ!」


 こうして家康が三成を倒しました。そして秀吉の息子、秀頼はまだ子供だったので、家康が実権を握る事になります。

 

 関ヶ原の戦いの後に家康は、征夷大将軍に就任し、3年後の1603年に江戸幕府が誕生し、時代は江戸時代になります。


 江戸時代編が始まると思いきや、まだ少しだけ戦国時代が続きます。なぜなら……


淀殿よどどの「豊臣家はまだ終わっちゃいない! 徳川家は豊臣家の家来なのよ!」

 

 そう関ケ原の戦いにて、倒したのは石田三成であって、豊臣家はまだ滅んだわけではありません。 

 

 秀頼の母、淀殿は 豊臣家の天下を主張し続けていたのです。 


 さて、江戸幕府が開いてもなお、波乱の予感が漂っていますね!



【ピチピチVSシワシワの戦い⁉ 大阪夏の陣】

 江戸幕府を開いた時点で家康は、すっかりおじいちゃんでした。なので将軍になって2年後、将軍職を息子の 秀忠に譲ります。


 さて、息子に将軍職を譲ったのが何を意味しているのかと言うと……


家康「将軍職は徳川家の世襲制にします。豊臣家に政権を返すつもりはないよ」


 息子に将軍を譲ることで、 豊臣家に徳川家の天下を示したんですね。


淀殿「なにが徳川の天下よ! 日本を引っ張っていくのは、秀頼なのよ! ムキー!」


 もちろん、淀殿は怒りました。


家康「いい加減、仲直りしましょうよ」


淀殿「だが断るッ!」


家康「従ってくれれば、悪いようにはしませんから」


淀殿「なに言ってるのよ! 天下は秀頼のものなのよ! 誰がお前に従うものか!」

 

 こんな感じで家康は豊臣家と話し合いをつけようとしますが、徳川の事が大嫌いな淀殿が、家康を拒み続けます。


 江戸幕府が立ち上がってから、8年ほど経った、1611年、すっかり成長して凛々しい青年になった秀頼と、シワシワのおじいちゃんになった家康が会見します。


家康「すっかり大きくなったのぉ。秀頼くん」


秀頼「家康さんこそ、いつまでもお若いですね」


家康「いやいや、ワシはすっかり老いぼれじゃ。ほほほ」


秀頼「はははは! 家康さん、ご冗談が上手ですね」

 

 会見は和やかに進みましたが……


 家康は腹の中では「秀頼は出来る男だ! ここで潰しておかないと、ヤバいかもしれない」という、恐怖を抱くようになりました。


 秀頼がいる豊臣家に恐れを抱いた家康は、豊臣家にちょっかいを出すようになります。

 

家康「秀頼君、壊れているお寺や神社を治してくれる?」


秀頼「わかりました」


 このように社寺の修繕を命令しました。なぜ、このような事をさせたのかと言うと、社寺の修繕をさせる事で、 お金を使わせ弱らせるためです。


 そんなある日


家康「ちょっと秀頼君! 大阪のお寺の鐘に呪いの言葉を書いたでしょ!?」


秀頼「はあ? なに言ってるんですか?」


 このように家康は秀頼にイチャモンつけて、挑発したのです。


家康「こっちは穏便に済ませようとしたのに、もう我慢ならん! 母親を人質に出すか、従業員全員解雇するか、大阪城から出ていったら許してあげる」

 

 このように秀頼に無茶苦茶な要求を出しました。


秀頼「そんな事出来るわけないだろうが! 調子のってるんじゃねーぞ! ジジイ!」


家康「オッケー! バトルスタート!」


 こうして、1614年にシワシワの家康とピチピチの秀頼による徳川VS豊臣最後の戦いが勃発したのです!



【シワシワVSピチピチ! 大阪での決戦!】

 1614年の冬、豊臣家の領地である大阪に徳川軍は攻め込み、大阪城を包囲しました。


 この戦いが『大阪冬の陣』です。


 一方、秀頼は大量の武器を持ち込んで、籠城し徳川軍と徹底抗戦する姿勢を見せます。


 家康は大阪城に攻め込みますが、秀吉が造った城の防御力は高くて、なかなか落とせません。


 また季節が冬ということもあり、お互いの食べ物が少なくなってきました。


 そして家康は秀頼に、このように打診します。


家康「大阪城の堀を埋めるなら、許してあげる」


秀頼「わかりました。それで仲直りしましょう」


 こうして徳川、豊臣との間で講和条約が結ばれるのですが……


家康「秀頼君さぁ、従業員を全員解雇するか、大阪から出てかなきゃダメだよ」

 

 またもや、無理な要求をしたので……


秀頼「堀を埋めたら許すって言っただろう! ふざけるな! クソジジイ!」


 秀頼がキレます。こうしてシワシワVSピチピチの戦い第2戦目『大阪夏の陣』が発生しました!



【豊臣家の滅亡】

家康「堀がない大阪城なんて、大した事ないね。簡単に勝てるでしょw」


 このように高をくくっていた家康ですが、豊臣軍にある化け物がついていたのです。


幸村「俺の名前は真田幸村さなだゆきむら。相打ち覚悟で、家康の首をとりますよ」


秀頼「おお! 頼もしい!」


 そう六文銭の家紋で有名な真田幸村が、豊臣軍についたのです。

 この時、三途の川の交通量は六文と言われていました。ちなみに六文は現代の価値に換算すると大体¥300くらいです。


 つまり六文銭の家紋には「死ぬ覚悟は出来ている。俺に必要なのは、三途の川の運賃¥300だけで十分だ」という意味があるのです。


 大阪城に攻め込む徳川軍でしたが……


幸村「家康さんよ! 俺と一緒に、地獄に行こうぜ! ひゃっはー!」


 死ぬ気でやって来る幸村の勢いは凄まじく、徳川本陣まで突っ込んできたのです。


家康「こ、こいつ! やべー!」


 真田幸村の猛攻によって、家康は絶体絶命のピンチに陥りました。しかも……


サムライ「幸村、こわーい!」


 なんと幸村の恐ろしさにビビった、家康の仲間は逃げ出したのです。


家康「もう、ダメだ! 俺は切腹する!」


 追い詰められた家康は自ら命を絶とうとしましたが……


サムライ「家康さーん! 大丈夫ですか」


 ギリギリのところで後援部隊が到着し、幸村は捕らえられ、家康は助かったのです。


 こうして、豊臣軍最大の切り札である真田幸村が捕らえられ、秀頼の勝利は絶望的になります。


 そして……


秀頼「もはや、これまで……」


 秀頼は自害し、豊臣家は滅亡しました。


 こうして大阪夏の陣は、徳川家の勝利となり、反勢力のいなくなった江戸幕府の権威は絶対のものになります。


 こうして応仁の乱から続いた戦国時代は、終わりを迎えるのです。


 さて、波乱に満ちた戦国時代編はこれにて終了です。次回からは江戸時代編がスタートします!


《お詫び》

 いつも読んでくれてる、皆様、明日は諸事情に1日お休みします。


 まことに勝手で申し訳ありませんが、ご理解のほどお願いします。

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