関西猿 in ホエール
槻 治/Osamu Keyaki
第1話
ふと、元カノという単語が頭によぎった。名前はもう忘れちゃったけれど。顔も。そもそも顔は知らなかったかもしれない。だけど当時の僕より僕の元カノは全然大人だったと思う。たぶん。彼女と別れたのは彼女が元彼の写真を送ってきたのが原因だった。写真の中でその男はテレビの前にうつ伏せに寝転んで嬉しそうに携帯の画面をみていた。でも僕は、浮気をしたなら別れようなんて言わなかった。僕が彼女を満足させられなかったのが悪かったんだと思ったから。建前でも思ってしまった。連日の仕事がひと段落してせっかく休みが取れたから隣町の温泉に来たのに、なんだか心が騒がしくなって仕方がなかった。
温泉に入ったのは遅い時間だったからか入浴客はどうやら僕一人で貸切のようだった。
僕はThe Rolling Stonesのhappyを頭の中で流しながら温泉の深海に潜り込んだ。それから息を限界まで止める。
その海はどこからなっているかわからない「ゔーん」という振動音が微かに聞こえる以外は何もなかった。つい5秒前までキース・リチャーズとミック・ジャガーが上品に乱暴な歌声を荒げていたのに。
僕はだんだん不安になった。このまま海から出られなくなって独り深海で何年も過ごさなくちゃいけないかもしれない。それは実に困る。だって僕は特別勉強ができるわけでもなければミック・ジャガーみたいにナイトの称号をもらえたわけでもない。まだ何も出来ていないんだ。
そうやって海底で泣いていたら鯨がやってきた。鯨は僕を跨ぐようにして頭上を通過したと思ったらゆったりと方向を変えて戻ってきた。鯨はぐんぐん近付いてくる。僕と鯨の間が1メートルもない程になると、やがて頭から鯨に飲まれてしまった。気がつくと僕は明るい部屋ー厳密に言えば視覚的には暗闇だが感覚的に明るい部屋ーにいた。
壁と床の境はなく若干丸く湾曲していて、ぬるぬるした臭い液体で湿っている。深海から上がる以前にこの部屋から出なければ僕はこの臭い明るい部屋で死んでしまう。まずは自分がいるこの場所を知ろう。僕は手当たり次第に部屋を引っ掻き回した。魚の骨や腐ったよくわからない生き物の死骸に紛れていくつか匣が出てきた。全部で匣は三つあった。一つ目は黄土色で工字繋ぎ模様、これは一番初めに気がついた所の足元にあった。なんだか軽いようで液体の中をぷかぷか浮いていた。二つ目はアンティークな赤茶色で麻の葉模様、これは今いる部屋から細い通路を通った傾斜の激しい空間にあった。その空間はここより液体が多いせいか、匣の角が所々丸くなっていた。最後のは深緑色で毘沙門亀甲模様だった、これは今いる部屋の奥にあったが海藻や骨に埋もれていてなかなか持ち上げることができなかった。深緑色の匣を再び持ち上げようと指をかけると「その匣だけは開けたらかあんで。」と素っ頓狂な声が後頭部をぶった。振り返ると猿がいた。それはもう憎たらしいほどの満面の笑みで、笑顔も嘲笑を具現化したようなエガオだった。
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