ハルニメグル

井守千尋

プロローグ

 一生忘れないと言える風景を、あなたはいくつ見たことがあるだろうか。

 旅行先で見た絵葉書に乗るような景色。

 大切なクラスメイトと過ごした青春が終わる日の光景。

 二度と会えない人と暮らした当たり前の暮らしの様子。

 そして、この胸を高鳴らせた、幼き日の出会い。

 それは、出会いと呼ぶには少し、いや全く足りないものだったのだ。ただ、すれ違っただけ。幻だったかもしれないし、白昼夢だったかもしれない。


 十年前……だったと思う。正確な年も日時も覚えているわけではない。ぼくが小学校の低学年だったとき、夏休み。海が見える丘に続く白樺並木ですれ違った少女の後ろ姿だ。

 多分、十年のあいだに僕が勝手に美化したんだと思う。麦わら帽子に白いノースリーブのワンピース。この水都(みなと)の田舎でそれまで見たことのない、映画の中から出てきたようなおそらく年上の少女の姿。すれ違った時に僕は、彼女の姿をつよく脳裏に焼き付けてしまったようで、ふりかえって見ればもう姿はなかった。

 誰にも話したことのない、初恋の光景だ。そしてきっと、誰にも話さないだろう。


 五年前だ。僕が中学生になった年の夏休み。六つ年上のいとこの晶ねえちゃんが僕の家に遊びに来た。晶ねえちゃんが中学生だった八年前までは毎年遊びにきていたが、ねえちゃんが高校生だった三年間は会っていなかったので、とても久しぶりのことだった。

「環(たまき)も大きくなったね」

 記憶の中で僕よりもずっと大きかったねえちゃんはもう、成長期に差しかかった僕に背を追い抜かれていた。にしし、という笑い方は変わっていなかったけど、くすぐったり膝カックンをしたり、身体に触るいたずらをしてはいけないと感じてしまった。並んで僕と背くらべをするねえちゃんは、もう女の人だった。滞在した数日間、それまでと変わらずお墓参りやバーベキューや夏祭りに一緒に行ったけど、僕ばかり気を使っていた。

 ねえちゃんが帰る前の晩に、庭で二人で花火をした。小学生の頃の僕は毎晩花火がしたいと駄々をこねていたが、中学生にもなれば手持ちの花火をしようと言い出すことはない。このときは、ねえちゃんから僕に花火をしようよ、と誘ってきた。

「久しぶりだね、花火」

「お、おう」

「なぁに? かっこつけてるじゃん! その言い方」

「だって、ねえちゃんが花火したいなんてびっくりしたから」

「まーねー」

 大学生と中学生だから、と父さんも母さんもわざわざ見張りには来なかったので、はじめて二人で花火を手に持つ。蚊取り線香の独特のにおいが立ち込める中、スティック状の花火に点火されるとやはりテンションが上がった。

「環はまだまだ子供だね」

「ねえちゃんだって。花火楽しいじゃん」

「うん、そうだね……。ねえ、環。私ね、結婚するんだ」

 風のない夜だったことをよく覚えている。花火の煙と蚊取り線香のけむりがあたりに充満して、ねえちゃんが何故か遠くなったように見えた。

「結婚? ねえちゃんが?」

「そうだよ。覚えておいて環。十八歳になったら、結婚ができるの。環も六年後にはそうなるかもしれない」

「僕が? まっさかあ」

 そうだね、と早い段階で線香花火に切り替えたねえちゃんは、ずっと寂しそうに火球を見つめていて、どうしてあの時に声をかけてあげられなかったのか今では悔やまれる。結局僕ばかりが何本も両手に花火を持って騒いでいた年相応の中学生男子だったのだけれど、ねえちゃんはずっとこのままだと思っていたのだ。

 その夜中のことだ。

 ねえちゃんが結婚するらしい、と考え始めると、なぜか眠れなかった。どうやら父さんにも母さんにも結婚のことを打ち明けていなかったらしく、まだ言っちゃだめだよ、と言うのでひとりで抱え込んだからじゃないか、と思う。

 しかし、今思えば僕は尋常じゃないくらいに焦っていたのだ。こち、こちと目覚まし時計の音さえ邪魔で、寝付くことができたのは深夜の一時も過ぎていただろう。


「……き、ねえ環」

 浅い眠りだったのか、僕ははっ、と目が覚めた。その時ねえちゃんは僕の部屋でさっさと寝ていて、深夜の三時過ぎくらいだっただろうか。目が覚めて僕に声をかけたのだ。

「ねえ……ちゃん?」

「眠れないんだ、私。環も?」

「うぅん、汗びっしょりだ」

 エアコンはつけているはずなのに、シャツが背中に張り付いて気持ちがわるい。

「ねえ、ちょっと散歩しない?」

 こんなに遅くに外に出るのはこのときがはじめてだった。

 Tシャツに短パン姿のねえちゃんは、短いパンツから伸びるすらりとした足がやけに色白くて、暗闇に光っているようだったことをよく覚えている。水都市郊外の僕の家は田園地帯の端っこに建っていて、街頭なんて見当たらない。その日の空は月が出ていないかわりに、たくさんの星々がきらめいていた。

「いつ見てもすごいね、こっちの星は」

「田舎なだけだよ」

「そうね……ねえ、私ね、ここよりももっと田舎にお嫁に行くの」

「……えっ?」

「七つ年上のお医者さんと結婚するんだ。友達も知り合いもいない土地にいきなり行くの」

 田んぼの水を供給するための用水路には蓋がかかっていて、ところどころに段差がある。ちょうど並んで腰をかけるのにぴったりだった。僕とねえちゃんも並んで座り、満天の星を見上げた。

「自分で、結婚したいって希望したから、後悔はないよ。とってもいい人。お金持ちだし、だれも文句は言えない相手だよ」

 中学一年生の僕でも、医者と結婚すればお金持ちになれることは理解していた。でも、なぜかねえちゃんは迷っていた。結婚すると言っても、大学を卒業してからのことだ。四年後になる。相手の男の人は間違いなくねえちゃんとの相性もよく、これから時間をかけて懇ろになっていくのだ。

「天の川とは言わないけど、星がいっぱいだね。織姫と彦星も見える。あれが……」

 ベガとアルタイル。あとデネブ。歌で覚えた夏の大三角に数えられてしまったデネブはさぞ迷惑がっているだろう。三角形といわれても自分が入り込む予知なんてないのに。

「ねえちゃんはさ、怖いの? それとも不満?」

「うんとねえ……、ちょっと後悔しているかな」

「後悔?」

「うん。大学生になるまで、たくさんの時間があったのに、今になって恋愛をしたことがないなあ、って」

「恋愛してみたかったの?」

「そうだよ。相手が最良の相手じゃなくっても、運命の相手かもしれない。そんな恋がしてみたかったなあ」

 恋愛をしたって、最良の相手に出会えるわけじゃない。しなくても最良の相手と引き合わせてくれる。だから、人々はいつしか恋を忘れるようになっていた。

 思春期、と呼ばれる年代に僕も差しかかっていたのに、ほんの砂粒ほども恋愛について考えたことがなかったので、ねえちゃんとのこのときの会話は二度と忘れはしない。

「今から恋をすることはできないの?」

「恋をするったって、簡単じゃないんだよ。今はね、そのつもりの相手を見つけて、仲良くなって。まわりを説得して。ようやく結婚したとしても、上手く行かないかもしれない」

「でも、後悔はないんじゃない。失恋したって、恋したって経験になるんだし」

「それは……、ふふふっ、おまえもマセたなあ。よしよし大きくなれよ」

 僕の頭をわしゃわしゃと撫でると、ねえちゃんは家に戻る。僕も一緒に戻らないと、家から閉め出されてしまう。

「環、ありがとね」

「え、なにが?」


 ねえちゃんと僕との、直接会った思い出はこれが最後だ。この年の冬、ねえちゃんは大学を勝手に休学し、同じ大学の二つ上の先輩と行方を眩ましてしまう。いわゆる駆け落ちだ。

 花火も夜空もちょっぴり弱ったねえちゃんの声も、決して忘れはしない。だって、おそらく僕の二度目の失恋だったから。悔しかったけど、僕の言ったことを聞いてくれた。だから、忘れることはないだろう。

 そして一年前。僕は高校生になった。中学でもいくつか忘れられない景色はできたけど、ねえちゃんと二人でみた光景に匹敵するものはなかった。しかし、高校一年生の五月に見たものは、その全てを上塗りするほど美しい、そして冷たいものだった。


 高校生になっても、委員会というものがある。庶務委員会という名前の生徒会本部の雑用係で体育祭用の冊子のホチキス留めを放課後にやっていた僕は、部活で参加できない他の一年生の分も作業していたので終わる頃には下校時刻のチャイムが鳴ってしまった。その日一日で終わらせられるものでもなかったので、ばらばらになっていた紙をたばねてコンテナに入れると、資料室の窓を開けっ放しにしてはいけないと施錠に向かう。四階から臨むグラウンドは夕焼けで朱い布のように染まっていた。

「ナナさん、俺とつきあってください!」

 どこからか聞こえてきた声を、僕は生涯忘れることはないだろう。男の声だ。ナナさん、という相手に向かって告白をしていた。恋人になってほしいという告白。まさか直に聞くことになるなんて思わなかったんだ。

「委員長としてクラスのみんなに気遣ってくれるナナさんがとっても素敵です。笑顔もかわいいし、どうでしょう……?」

「えっ……」

 女子生徒の声もかろうじて聞こえてきた。委員長ということは、同じクラスの浦崎菜々さんのことだろう。確かにつきあってほしい、という内容には納得できるけど、高校生が恋愛をするなんて、という驚きが大きかった。

「その、えっと、私恋愛とかぜんぜん考えたこと無くって」

「だったら今からやってみませんか? 高校生らしい恋愛を、俺と」

 誠実な声だった。男は、本気で委員長と付き合いたいと思っているらしい。

「……ごめんなさい。やっぱり恋愛は、無理……です」

 ぺたぺたと床を歩く音。ということは、階段を上がった屋上で告白が行われたらしい。窓側からドアのガラス越しで廊下を見ていると、早足で委員長と思しきシルエットが通っていった。いったい、誰が。好奇心が僕の足をはやらせる。窓の施錠もせず、廊下に出て階段を一段飛ばしで上がっていた。屋上につながるガラス戸は開けっ放しで、学生服を着た男子生徒の背中をすぐに見つけることとなった。

 感傷に浸っている、なんてことも考えつかなかった僕は空気が読めなかったのかもしれない。

 立ち止まることもせず、転落しないように備えられた手すりによっかかっていた男子生徒の隣に、僕も同じようによっかかった。

「おまえ……、環じゃないか」

「智(さとる)」

 同じクラスの御崎(みさき)智だった。家が神社で、成績もクラスでトップ。背が高くハンサムな印象を持たれているが、運動部ではないためトップカーストではない不思議な立ち位置の男だ。

「下の階で声が聞こえたんだけど」

「委員長に告白をしたのは、俺だよ」

「本当に?」

「できればあまり人に言ってほしくないな」

 無言で頷いた。

「おまえにはわからなくてもいいんだが……、俺は恋愛をしてみたいんだ」

 怒るでもなく、泣くでもなく、淡々と智は言った。

「珍しいだろ?」

「珍しいな」

「笑わないのか?」

 いつの間にか、真剣な眼差しで、智は僕を見ていた。笑うだって? まさか。

「最良の相手じゃなくて、運命の相手に出会いたい。僕も、すこし憧れてたんだ。誰に言ったわけでもないんだけどね」

 驚いた顔の智。そして二人きりで見た屋上からの景色は、松林の向こうに広がる海まですべてが朱く、あたたかく見えた。

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