嵐の中のゴテェ 恐怖のカスタネード地獄

武州人也

カスタネット+トルネード

 大雨の中、道を行くトラックが一台。道の両脇には田んぼが広がっており、その向こう側には奥羽山脈がそびえ立つ。

 この大雨は、台風の接近によるものであった。崩れた空模様と同様に、運転手の表情も陰鬱そのものであった。仕事だから仕方ないのだが、誰だってこんな大雨の中で荷物を届けたくはない。

 

 そんな中、惨事が起こる――


 突然のスリップ。そして横転。このトラックは道路に横倒しになってしまったのである。

 たまたま近くを通りかかった別の車の運転手によって、警察と救急車が呼ばれた。トラックの運転手は流血していたが、意識はあるようであった。


 さて、問題は運転手が運ばれた後のことである。荷台の中身が、道路にぶちまけられていた。赤と青の二枚貝のような物体が、大量に道路に散乱している。

 トラックが運んでいたのは、カスタネットであった。市街地の幼稚園に向けて輸送している最中の事故であった。

 警察が集まる中、この事故現場のすぐ近くで、急に空気が渦を巻き始めた。この空気の渦は、すぐさま大きな竜巻となった。危険だということで事件現場にいた警察は避難を始め、後には横転したトラックと、未だ片付けられていない大量のカスタネットが残された。


 大竜巻は、現場に散乱した大量のカスタネットを残らず吸い上げ、そのまま北の方角へと進んでいった――


***


 ゴテェ……ゴテェ……


 今にも一雨来そうな鉛色の空の下、雑草の伸びた耕作放棄地を、一匹の動物がとぼとぼ歩いている。タヌキほどの大きさをしたその丸い動物は、名前をゴテェという。鳴き声がそのまま名前になっているのだ。

 ゴテェは北東アジア一帯に生息する雑食性の哺乳動物で、日本では北海道と東北地方に生息している。丸みを帯びた体と短い耳を見ると、如何にも寒冷地の動物といった風貌だ。白っぽい体毛も、雪の積もる場所でのカモフラージュ効果が期待できるだろう。丸い体には脂肪が詰まっており、長期間の絶食に耐えることが可能だ。

 ゴテェはその愛らしい容姿から、ペットとして飼育されることもある。人によく懐き、人工飼料に餌付くというペット向きの性質も、この動物の人気を後押ししているようだ。


 耕作放棄地をうろつくこのゴテェも、とある一家にペットとして飼われている個体であった。そんな彼(この個体はオスである)がこんな場所を単独で歩いていることには、とある事情がある。


 少し前、まだ晴れていた午前中のことである。涼しい秋風がそよぐ中、このゴテェは一階の掃き出し窓のすぐ側で丸くなりくつろいでいた。

 そのすぐ近くでは、この家に住む夫婦とその息子が、掃き出し窓を開けて家の中にあれこれと運び込んでいた。台風が来る前に、飛ばされそうなものを屋内にしまい込んでいるのだ。二人には呑気にあくびをするゴテェに構っている暇などなかった。

 その時、ゴテェの目の前に、何かがひらひらと飛ぶのが見えた。それは黄色くて可愛らしい蝶であった。ゴテェはそれを捕まえようと、開いた掃き出し窓から家の外に飛び出してしまった。

 ゴテェは好奇心のままに蝶を追いかけた。だが、何分ゴテェは速く走れない。脚の短さに加えて筋肉量も少なく、地面を強く蹴ることができないのだ。

 蝶はひらひらと、ゴテェに対してつかず離れずの距離で飛んでいた。ゴテェは必死に走って追いすがったが、やがて息切れして諦めてしまった。


 蝶を追うのを諦めて立ち止まった時、ゴテェは自分の周囲に見たこともない風景が広がっていることに気づいてしまった。蝶を追うのに夢中で、知らない場所に来てしまったのだ。


 暫く歩いてみたが、自分の住む家はどこにも見えない。あまりの心細さに、ゴテェは身を震わせて涙を流した。ゴテェは人間と同じように、感情の動揺によって涙を流す習性があることが知られている。

 

 やがて、ぽつり、ぽつりと水滴が降ってきた。それは程なくして大雨となり、ゴテェのふわふわな体毛を容赦なく濡らしていった。ゴテェは太短い脚を必死で動かし、白い毛を泥で汚しながら、何とか大きな樫の木の下に収まって雨宿りをした。

 ずぶ濡れのゴテェは、木の下で縮こまっていた。ぶるぶると小刻みに体を震わせているのは、きっと濡れた体が風で冷やされたからというだけではないだろう。

 そんな中のことであった。突然、南の方から何かが猛烈な勢いで飛んできた。地面に落下したそれは、赤と青をした二枚貝のようなもの――カスタネットであった。

 南の方を見ると、大きな竜巻が渦巻いているのが見える。その竜巻の中には、黒い粒のようなものがたくさんあった。あれの一つ一つが、全てカスタネットなのだ。


 カスタネットはその後も連続で飛来した。まるで砲弾のように降り注ぐカスタネットに怯えたゴテェは、樫の幹を盾にしようと、ぐるりと北側に回り込んだ。


 ゴテェ……ゴテェ……


 風は荒々しく吹き寄せ、雨は激しく降りしきる。それに混じって、時折カスタネットが飛鳥のように飛来する。ゴテェは頭を抱え、地面に伏せって涙を流していた。今は嵐が過ぎるまで、ひたすら耐え忍ぶしかない。しかし、嵐が過ぎたとて、ゴテェは孤独だ。家の中と違い、外は危険がいっぱいだ。あの暖かい家族の元でぬくぬくと惰眠をむさぼっていたゴテェは、はたしてこれから、厳しい自然界で生きてゆけるのだろうか……

 

 飛来するカスタネットの威力はすさまじかった。ガラスを割り、荷車に穴をあけ、土の地面を穿った。ゴテェが盾にしていた樫の木にもカスタネットは飛来し、その衝撃はそのままこの小動物の体に伝わった。この衝撃たるや強烈なもので、臆病なゴテェを怯えさせるには十分すぎるものであった。


 カスタネット竜巻カスタネードが過ぎ去った頃には、もう外は暗くなりかけていた。まだ雨は止まず、風もあるのだが、その勢いは明らかに弱まっている。割れたカスタネットが散乱する泥の地面を、ゴテェはとぼとぼ歩き出した。

 

「シロ!」


 声変わり前の少年の、甲高い声が響いた。シロというのは、このゴテェの名前である。声のした方には、ゴテェを飼育している一家の息子が、緑色の傘を差して立っていた。


「シロ! よかったぁ……ここにいたんだ……」


 少年はほっとした表情でゴテェ――シロを抱きかかえた。シロの体についていた泥が少年のレインコートを汚してしまったが、少年は全く気にしていなかった。シロの顔にもまた、ほっと安堵が浮かんでいるようであった。


***


 薄暮の空の下、池沿いの道を、少年はシロを抱きかかえて歩いていた。あの大雨も風も、すっかり止んでいた。

 嵐の中、少年は必死にシロを探していたのだが、そこにカスタネードが襲ってきた。少年は焦りに焦ったが、流石にカスタネットの降る中で外にいるのは危険であり、一旦家に戻って竜巻が過ぎ去るのを待ってから、再度探しに出たのである。


「帰ったら体洗おうか、シロ」


 少年は、微笑みながらシロに語りかけた。シロはそれに答えてか、ゴテェ……と小さく鳴き声を発した。シロは濡れるのを好まず、風呂に連れて行こうとすると嫌がって逃げ出そうとするのだが、どういうわけかこの少年にだけは心を許していて、すんなりと風呂に連行されるのだ。今では専ら、シロを風呂に入れるのは彼の仕事となっている。

 少年にとって、シロは友達以上の存在であった。一人っ子で弟を欲しがっていた少年にとって、このまん丸な獣は、弟のような存在であったのかも知れない。血縁どころか種類さえも違う両者は、それらを越えた絆で結ばれていたのだった。


 少年に抱かれて家路に就くシロ。その目にふと、たわわに実った野生のアケビが映った。アケビが気になったシロは、咄嗟に身を乗り出して前脚を伸ばし、それをかき寄せて取ろうとしたのだが、この太短い脚は、アケビにかすりもせず空を切った。

 その弾みで、シロは少年の腕からはみ出し、そのままころりと転げ落ちてしまった。落ちた先は、池であった。ぼちゃんという音を立てて、シロの体は水の中へと落ちてゆく。


「あっ」


 驚いた少年は腕にかけていた傘を即座に捨てて、シロに向かって手を伸ばした。水面から顔を出したシロは必死に脚で水をかき、岸へと近づいてゆく。ゴテェの泳ぎはあまり上手いとはいえないものの、体に溜め込んだ脂肪のお陰で水に浮くことができるのだ。


 後もう少しで、少年の手がシロの脚を掴む……というその時、シロの背後の水面が、ゆらりと揺れた。


 池の中から、何かが突き上げてくる――


 池の水が、まるで小山のように盛り上がる。水をかき分けて現れた、暗緑色の背をした大きな生き物――それは、全長二メートルはあろうかという、巨大なナマズであった。

 

 ナマズは大きな口をいっぱいに広げて、池に落ちたシロに襲いかかってきた。

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