二

「―――そうしたらですね、兄上がこう…前に転んでいったんですよ」

「あらあら。おかしいこと」

 

 兄の痴態を嬉々として話す琉霞るかに、姉である真白は穏やかに笑った。

 十畳ほどの座敷に居るのは二人だけ。

 布団の上で上体を上げて微笑む姉の前に、琉霞は端座たんざしていた。

 琉霞の父はこの照柿てりがきの里を治める里長りちょうである。

 父には五人の子供がいて、琉霞はその末子まっしにあたった。

 三つ上の姉は今年で十七になる。意地の悪い兄たちとは違って、この姉はいつも琉霞に優しく、琉霞もいっとう姉を慕っていた。

 

 そんな姉が病に倒れたのは、およそ一月前のことだ。

 まだ肌寒さを残す季節。姉は突然不調を訴えて、病床に伏した。

 はじめはただの風邪であると思って、高を括っていた家の者たちも、姉の容態が悪くなっていくのを見て、徐々に青ざめていった。

 真白の顔色は悪く、もともと白かった頬は血が通っているのか疑わしいほどになり、体の方も頼りなく痩せてしまっている。

 当然、父や兄たちが里中の医師を集めて治療を試みたが、結果はこの通り芳しくなかった。

 幸い、麻疹や天然痘の類ではなさそうだったが、病名も判然とせず、治療法も分からないとなれば、ただ刻刻と姉の精気がそがれていく様を見ていることしかできない。琉霞にはそれが歯がゆかった。

 

 風が障ると悪いので、障子は締め切っている。違い棚に置かれた螺鈿らでんの花瓶には、庭からとってきた家桜いえざくらが咲いていた。

「綺麗ねぇ」桜を眩しそうに見つめて真白は微笑わらう。「庭の桜は今が見頃でしょう? 春は風が強いからすぐに散ってしまうもの。残念だわ」

 柳眉りゅうびを下げる姉の姿に、琉霞の胸は痛む。

 花を愛でる歓びを知る、健やかで愛情深い人だ。

 

 最愛の姉が、まるで時期を終えた花のように枯れていく姿を見たくは無かった。






 色茶小路しきちゃこうじと呼ばれる通りを琉霞は歩いていた。

 この通りはいつも騒然としていて賑やかい。間取りの似たような家が所せましと並んでいて、行商人の掛け声は活気に満ちている。道の端には辻売りや香具師やしたちが小物を広げて、慣れた口上で人を集めていた。

 時折、「やあ坊ちゃん」と掛けられる声に曖昧な笑顔で返し、目的の場所へと足を早める。声を掛けられる度に足を止めてしまうと、いつまでたっても前に進めないことを琉霞は知っていた。

 道を歩けば、ちらちらと人の視線を感じる。それは琉霞が里長の子であるという理由だけではない。


 琉霞は己の容姿が一目を惹くことを自覚している。

 端正に整った顔立ち。白磁はくじのように透き通った肌。なにより目を惹くのは、神秘的な霞色の髪と瞳。これは家族の中でも、琉霞だけが持つ色だ。姉も上の兄たちも、皆一様に灰色がかった黒い髪と瞳をしている。

 琉霞は美しくある自分を誇りに思っていた。綺麗と褒められるのは嬉しい。

 産まれてこの方、羨望の眼差しを向けられることを当たり前のように享受してきたのだ。

 美しいということは、それだけで特別なのであると思っていた。


朝霧亭あさぎりてい』と書かれた看板を前に琉霞は足を止める。ここは行きつけの甘味屋だ。

 小ぢんまりとした茶屋だが、何代にも渡って長く続いている老舗でもあり、地元の人々でいつも賑わっている。

 琉霞も姉も、ここの団子が好きだった。病に伏してから、食も細くなった姉だったが、好物の団子なら少しは食べる気になってくれるかもしれない。


「あら琉霞ちゃん、いらっしゃい」


 店頭で琉霞を出迎えた四十ほどの恰幅の良い女は、ここの店主の娘である薫子かおるこだ。若い頃は看板娘として大層名を馳せたらしい。ちなみに本人談である。


「薫子さん。こんにちは」

「はい、こんにちは。今日も三色団子でいいかい?」

「いえ。今日は持って帰ります。五つ包んでもらえますか?」


 琉霞が云うと、途端に薫子は気遣わし気な顔になった。


「真白ちゃん。まだ良くないんだって?」

 

真白が病に伏せていることは、里の者たちの間で噂になっているようだった。

 父が愛娘をどうにか救おうと、あちこちから医師や薬師を引っ張ってきているせいだろう。


「ええ。どんな医師に見せても、皆首を振るばかりで」

「あら…そうなの。………ねえおうちには行った? あそこには里一の医師がいるらしいわよ」

 

 楝というのは、ここから少し東に行った場所にある村だ。ちなみに琉霞たちが住んでいるこの場所は真緒まそおの村という。里一つは三つの村から成っていて、いくつもの里と島を含めたこの大地を大八洲國おおやしまぐにと呼ぶ。


「はい。兄たちが、姉を連れて出向いたのですが、やはり駄目でした」

 

 琉霞は苦々しい顔をした。

 楝の村にいるという高名な医師は、随分とめちゃくちゃな奴だった。

駕籠かごると云っても、頑なにこちらへ出向くことを拒み、仕方なく病がちの姉を連れて行った父と兄は憤慨した様子で帰ってきた。

 曰く、碌に治療もしなかったくせに、「診た」というだけで法外の値段を吹っ掛けて来たらしい。

 そんな輩が里一の名医と謳われているのだから、世も末である。

 琉霞の応えに「あらぁ」と気の毒そうな声を漏らした薫子だったが、少し逡巡した後になにやら神妙な顔を近づけてきた。


「ここだけの話。ねえ、『くちなしの乙女』って知ってる?」

「口無しの乙女?」

 

 琉霞は首を傾げた。聞いたことも無い。しかし、口無しとは随分おどろおどろしい名前である。


鎮守ちんじゅの森の奥に、小さな神社があるのよ。なんて言ったかしら…」

「ああ、羽雅神社うがじんじゃですね」

「そうそうそれ。そこにね、くちなしの乙女って呼ばれる人がいるんですって。なんでもその人、不思議な力を持っていて、どんな名医に診せてもお手上げだった病をたちまち治したとかなんとかって」

「はぁ」


 琉霞は気の抜けた声を上げた。

 なんともありがちな噂である。病は気からというくらいだ。

きっと、卜者ぼくしゃの口車に乗せられた間抜けの流した噂に過ぎないだろう。

そういう話に違いない。

 違いないのだが。


「不思議な力ねぇ」

 

 この際だ。どんな藁にも縋るべきかもしれない。

これ以上何もしてやれないまま、姉が弱っていく姿をただ黙って見ているのだけは嫌だった。

 

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