くちなしの乙女 -あやかし里の怪異譚ー
風助
一 夜を食む
一
風にあたろうと外に出たのだ。
夜の帳はとうに落ち、屋敷の外は黒の
視線を上げれば、頭上には
ジャリ。
どこかで物音がした。
ひゅうと息を呑んであたりを見回すも、なにも変わったところは無い。父の自慢である立派な
娘は首を捻る。
果て、気の性だろうか。
そう思った刹那、今度は先ほどよりもずっと近くで物音がした。
ジャリ。
足音のようだった。
すっと背筋が凍る。慌てて後ろを振り返るとそこには年若い男が立っていた。
娘は驚いて「っひ」と小さく悲鳴を上げる。
暗いせいで男の顔はよく見えない。
しかし、男の手が赤黒く濡れていることはすぐに判った。
娘の狼狽とは裏腹に、男の方にはまったく動揺した様子が見られない。痛々しい切り傷からだらりと血を垂れ流し、娘の顔をじっと見つめて黙っているだけだった。
数秒、互いに硬直する。その間に娘は徐々に冷静さを取り戻していった。
「もし、あなた。家人かしら? それとも新しく入った庭師の方ってあなたのこと?」
不審な男であったが、不思議と悪いものは感じられなかった。
落ち着いて考えてみれば、あまり屋敷の外へは出ない娘が顔を把握していない下男がいてもなんらおかしくは無い。
しかし、娘の問いかけに男は首を捻るだけで応えなかった。
「あら、あなた声が出ないの? まぁ可哀そうに」
憐れむように目を伏せた娘は、そのまま男の手を取って歩き出す。離れの前を通り過ぎたところで足を止めた。
「ちょっと待ってちょうだいね」
おっとりとした口調でそう
「少し冷たいのだけど、我慢してね」
そう云って桶いっぱいに入った水を、男の傷に流す。湧き水の冷たさに驚いたのか、男がぴくりと肩を震わせた。
「っふふ」
その様子がおかしくて、なんだか可愛らしく思えて、娘は少し笑う。
傷口を丁寧に洗い終えた後、今度は袂に入れていた
絹で織られた、
桜の紋様が散ったそれを、娘は男の患部に巻き付けて結んだ。
「あら可愛らしい」
おどけた調子で云う娘に、男は再び首を傾げた。
娘は改めて、まじまじと男を見つめた。とうに成人していそうな背丈なのに、どこか幼さを感じるのは男が話さないからだろうか。庭師という者は、夜もすがらに庭いじりをしているものなのだろうか。だとしたらそれは良くないだろう。父にもっと待遇を改善するように打診しなければ。
その時だ。
「
娘が歩いてきた反対側から、女の声が飛んできた。叫びたいのを堪えているような、そんな声だった。
「
娘はそう云うと、軽く手を叩いて音を鳴らした。すぐに足音が近づいてくる。
「真白さま。探しましたよ。なにをしてらっしゃったんですか」
辟易した様子で云う女中に、娘は苦笑した。
「ごめんなさい。眠れなくて。少し夜風にあたろうとしたの。そしたら、この人が………あら?」
振り返るも、男の姿はどこにもない。数歩前に出て、娘は周囲を見回した。
目の前には石畳が高々と
あの一瞬でこの壁を登ったとはとても考えにくかった。
まるで狐につままれたような気分で、頬に手を当てる。
「如何されました、真白さま」
「いえ、今ここに。………あら、夢でも見てたのかしら、私」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます