ボクとカイジュウのいない夏

入江弥彦

ボクとカイジュウ

 今年は僕の町だった。


 毎年、夏になると日本のどこかに巨大な生命体が現れる。東京にあるビルなんかよりもずうっと大きい、ワニと鳥とを混ぜたような奴だ。ワニのように鋭い爪のついた足を、二つの田んぼに片方ずついれた体勢で眠っている。

 そいつは今まで一度も動いたことがない。いつの間にか現れて、いつの間にか消えているのだ。


 ゴツゴツしてかたそうな鱗の隙間から生えた翼が開いたところを見たことがないが、きっと翼もすごく大きいのだと思う。


 世間では巨大生物と呼ばれているけれど、僕は親しみを込めてそいつをカイジュウと呼んでいた。怪獣じゃなくて、海獣でもなくて、カイジュウ。漢字はない。なんたって小学生の僕は漢字にあまり詳しくない。獣という字も、何度も辞書で見て覚えた。



「なにしてんの、ヨーイチ」



 僕が必死にノートにカイジュウの特徴を書き記していると、後ろから落ち着いた女子の声が聞こえた。きついハイキングコースを通ってこの山に来るクラスメイトの女子なんて一人くらいだ。



「ここはね、カイジュウの背中にあるトゲが良く見えるんだ」



 ナミカが僕の隣に座ると、シャンプーのいい匂いがした。ノースリーブからは小麦色によく焼けた長い腕が伸びている。彼女の身長は僕より高いから、座った彼女の顔を見ようとすると、少し見上げる形になる。黒すぎるくらい黒い髪のショートカットが、彼女によく似合っていた。



「ふうん、あれ、カイジュウっていうの」


「僕はそう呼んでる」



 ナミカは僕の手元のノートとカイジュウをじっと見比べた後、大きく首を傾げた。



「それって、自由研究なの?」


「自由研究?」


「そう、宿題のためにやってるのかなって」


「ううん、好きでやってる」



 驚いたように目を丸くしたナミカが、すぐにいつもの表情に戻って間違えちゃったと舌を出す。


 その後も彼女はしばらく何も言わずに僕の様子を見ていた。五時の放送が鳴りだすと、彼女は僕に家に帰るように言う。太陽はまだ高いところにあって、夕方だという気がまったくしなかった。



「ヨーイチは、あのカイジュウに何をしてほしいの?」


「何を……?」


「そう、動いて欲しいとか。飛んで欲しいとか。あとは、ビームを出してほしいとか!」


「そんなのないよ」



 ハイキングコースは、上りよりも下りのほうがきつい。足元に十分注意しながら歩いていると、ナミカが僕の顔を覗き込んだ。



「へえ、あんまり欲がないのね。ヨーイチがそれだけカイジュウのことが好きなら、彼女も何かお返ししたくなるかと思ったんだけど」


「彼女?」


「あ、カイジュウのこと。もしかしたら女の子かなって思って」


「どうして?」


「……だって、ヨーイチがそんなに夢中になってるんだもん」



 ナミカはそれきり黙って、少し足を速めた。

 









 家に帰ると、テレビが大きな音を出していた。耳を塞ぎたくなるような音量で、その前に寝ころがる父のいびきをかき消している。


 テレビからは、東京で美味しいスイーツが人気だとか、何がフォトジェニックなのかだとか、それから僕には難しい政治の話だとか、世界の中心がそこにあるとでもいうようなニュースが流れている。


 僕は父を起こさないように酒瓶をよけて、そっと横を通り抜ける。自分の部屋の中にいても、ニュースが切り替わったことがわかる音量だったが、どんなに聞き耳を立てても最後までカイジュウのことを報道することはなかった。


 去年は、カイジュウが東京の近くの県に現れた。そこからの毎日は大変だった。連日の特別番組、緊急速報、さまざまなもので数少ない娯楽のアニメがつぶれたのをよく覚えている。


 今年もそうなると思っていたのに、テレビはひどく静かで、ゴミ捨て場にゴミがあるのは当たり前だと言わんばかりの態度だった。






 夜中に起きだした父は、まさに怪獣だ。化け物というほうが近いかもしれない。毎日毎晩、僕は布団の中で震えて、今日は運がいい日でありますようにと祈るのだ。



「おい、お前、帰ってたんか」



 運が悪い日というのも、もちろんある。

 布団をはがされ、髪を掴まれた僕が痛みから逃れるように立ち上がると、父の酒臭い息が顔にかかった。



「帰ってた、夕方に」


「なんで声掛けないんだよ。テレビの音量もあんな大きくしやがって、嫌がらせのつもりか」



 とてつもなく運が悪い日というのも、残念ながらある。

 何かを言わなければと考えていると、ガシャンと大きな音がして父の意識がそちらにそれる。それと同時に起こった大きな地鳴りが、父の手を緩めた。サイレンにも似た咆哮が窓ガラスを割る。


 僕は直感した。



「カイジュウの声だ」



 父の脇を抜けて、家から飛び出す。かかとを踏んだ靴では走りにくいから、走りながら靴を履いた。後ろから怒鳴って追いかけてくる父から逃げていると、カイジュウの背中がぼんやりと青白く光っているのが見えた。

 水の中のような、空の先のような、見たことのない色の光に吸い寄せられるように走った。カイジュウまでの道なら何度も通っていて間違えることはない。


 集まった野次馬の間を抜けて立ち入り禁止のテープをくぐる。誰かが大声で僕を止めようとしていたけれど、カイジュウの息づかいでかき消されていた。

 

 カイジュウの正面に立って息を整える。カイジュウは僕に顔を近付けると、ワニのような目でじっと見つめてきた。立ち入り禁止のテープをくぐった父が酒でふらふらとしながらそんな様子の僕らに近付いてくる。



「僕は洋一、君の名前は?」



 殴られるかもしれない。もっと悪いことになるかもしれない。けれども、僕はカイジュウのことしか考えられなかった。



「ねえ、君のことを教えて」



 カイジュウはそれに答えずに僕をくわえると、器用に背中の上に乗せた。光っていたのは、鱗ではなく背中のトゲだった。小さい頃、ニュースでこんな色の光を見た気がする。

 父は僕を見上げてあんぐりと口を開けた後、カイジュウに近付いたようだった。

 野次馬の中には、ナミカの姿も見えた。



「すごい景色だ……」



 カイジュウの出す青白い光によって、あたりが良く見える。普段は真っ暗な山の中も、それからこの町全体も。

 ものすごい高揚感とともに、感じたこともないほど心臓が大きく動く。頬が紅潮して、体をめぐる血液が一点を目指しているようだった。


 カイジュウが大きな翼を開いて、軽く上下する。



「やだ! 行かないで! ヨーイチ!」



 ナミカの声が聞こえたけれども、僕はカイジュウと少しでも触れ合いたくて、彼女の背中に全身を預けるように腕を回した。







 来年も、変わらず夏が来る。

 

 僕と、それからカイジュウがいなくなった夏だ。

 







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