再会を心待ちに

nobuo

だから今は、さようなら

 そっと優しくその頬を撫でた。


「お義母さん・・・」


 背後で息子の嫁の美知子みちこが涙声で呼んでいるけど、今はただ最後の別れをゆっくりと交わしたくて、目の前の静かな寝顔だけを見下ろしていた。


『では皆様、出棺前に故人をキレイな花々で包んで差し上げてください。ただいま係りの者が花をお渡ししますので、お顔の周りや胸などきれいに飾って差し上げましょう』


 司会の女性の声はちゃんと耳に届いてはいるけれど、ほんの一瞬でも目を離したくなくてずっと彼ばかりを見つめ続けている。すると、


「はい、ひぃばあちゃん。ひぃばあちゃんの分だよ」


 散々泣いて目元を真っ赤にした曾孫の翔太しょうたが、フクフクとした子どもらしい手で白い菊の花を差し出してきた。


「あら、ありがとう。ショウちゃんはもうお花あげてくれたの?」

「うん。ひぃじいちゃんのおてて冷たかったから、寒くないようにお花で包んであげたの」


 見ると、確かに彼の手元は花でいっぱいになって隠れていた。


「ホント。これならきっと温かいわ」


 花を受け取って「ありがとう」と笑うと、翔太はパタパタと靴を鳴らし、母親の元へ駆けて行った。

 アナタ、よかったわね。息を引き取った後まで寒くないようにと心配してくれる曾孫がいて。


 わたしはもう一度手を伸ばすと、いつの間にかシワだらけになっていた額や頬を何度も何度も撫で、そうしてやっと菊花を耳の横に静かに置いた。



 *



 わたしたちが連れ添った年月は五十八年。十分長いといえるだろう。三人の子どもと七人の孫、さらには二人の曾孫に恵まれ、とても幸せな結婚生活だった。

 もちろん良いことばかりじゃなくて、時には派手な喧嘩をして実家に帰ったこともあったし、彼のほうが家を飛び出し、不貞腐れてなかなか帰ってこなかった時もあった。

 お金で苦労したこともあった。

 互いの親類に煩わしさを感じたこともあった。

 でも、それでもわたしたちはずっと一緒にいた。



 *



「じいちゃん、とうとう天に召されちゃったな・・・」


 真っ青な空を背景に、長い煙突の先をジッと見上げていると、孫のさとしがポツリと呟いた。

 火葬場。待合室もあるけれど、彼の旅立ちを祝福したように晴れた清々しい空の下、申し合わせたように家族皆が外に出てきていた。


「そうねー。これからは雲の上からあたしたちを見守ってくれるわ」


 すっかりオバサンになった娘が寂しそうに笑えば、他の皆も同じ様に笑顔になった。

 わたしは子どもたちの顔を見渡し、嬉しくなる。この子たちは皆、わたしと彼が共に生きた証だ。


 五十八年前、結婚した当初のわたしは、こんなにも穏やかに彼を送り出せるなんて予想しただろうか。ううん、別れどころか、老いることすら考えていなかった。

 『老後』の二文字を意識し始めたのは、主人の定年が間近に迫ってきてからだったし、いずれどちらかが先に逝くんだと思ったのは、霊園からのダイレクトメールが届くようになってからだった。


 高齢者と呼ばれる歳になってからは、よく二人で葬儀について話した。

 彼の言い分は「立派でなくていい、ごくごく内輪だけで構わない。とにかく、湿っぽいのは嫌だなぁ」と。


 涙が溢れる。でこぼこになったシワくちゃのまなじりを伝って、喪服の襟をぬらす。

 遠からず、きっとすぐにも彼には会える。離れ離れになるのはほんのちょっとの間だけ。だからその時まで、この満ち足りた気持ちを忘れずに抱えておこう。


 ね、アナタ。アナタの希望、通りましたね。見えてます?

 空を見上げて問いかける。彼と過ごした思い出を、彼が遺してくれた家族と共に笑顔で語り合える幸せに、ジンと胸が熱くなった。





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