ピアノの音
みこ
ピアノの音
後ろに倒れ込むと、部屋が逆さまに見えた。
「わかん……ない……」
ひとり、呟く。
ピアノを弾いている間は楽しい。手が勝手に動いて、曲を奏でてくれる。そのトランス状態が楽しい。でも、楽譜通りにうまく表現できない時も、ある。
そんな時は、なぜこの曲を弾かないといけないんだろうと思ってしまうわけだ。コンクールの課題曲ならともかく。そんな曲なわけじゃない。これが弾ければ箔がつく、なんていう曲なわけでもない。
ゴールが見えないマラソンは、得てしてつらいものである。
有名なポップスなわけでもない。弾けたところで、何も起こらない。誰かに披露するわけでもない。聴いてくれる人もいない。
ただ、自分が弾きたいだけだ。
弾けて満足する。それだけだ。
なんで弾きたいんだっけ……。
一息つくために、起き上がり、コーヒーをいれにいく。髪がくしゃくしゃになってしまった。あまり気にしない。
コポコポと、温かく、表面を輝かせたコーヒー。私の半分はコーヒーでできている。
あとの半分はピアノの音だ。
これが弾けるようになれば、半分どころじゃなく、ピアノの音でできた人間になるとでもいうのだろうか。
ダイニングテーブルで楽譜を開く。ぱらぱらとめくり……そう、ここ。このあたりだけどうしてもピンとこない。
楽譜を最初から追ってみる。すると、ふわっと、この曲を初めて聴いた時のことを思い出した。
目の前でお辞儀をした女性は、まだ少女といっても差し支えない外見をしていた。気弱そうに、ぺこり、とお辞儀をした。深い緑の質素なドレス。
小さなコンサートホールだった。
本当に、その場にいる数少ない人達だけのために弾かれる曲。
けれど、その時間は圧巻だった。
目の前のグランドピアノ。88鍵の上を舞う手。
親に連れられ、たまたまその場にいた、10歳の私。10歳ごろにはありがちな、ブルグミュラーを順調に、それでものんびりとピアノというものと付き合ってきた私。
そんな私が、初めて、ピアノというものの音に触れた瞬間だった。
ピアノの先生だって上手だったのに、ステージに上がった他の人だって上手だったのに、どうして私は、そのピアノにばかり聴き入ってしまったのだろう。
素敵だと、母に一言告げたことを覚えている。
そうだ、思い出した。
私は、その曲を私も弾きたいと思ったのだ。
私も、その曲を、自分のコンサートで弾きたい。
そう、それがこの人生の中で、私が一番最初に設定したゴールだ。
そうか。それなら仕方ない。
今、誰も聴いてくれる人がいなくとも。コンサートなどやる予定はなくとも。
弾けるようにならなくてはいけないじゃないか。
私は、その曲や作曲家に関する解説を読み始めた。
「ふぬ〜ん」
唸り声のような、鼻歌のような声をあげる。
ゴールがあることに気づくことができたなら、私はまだ走り続けられる。それがどんな道のりであろうと。
ひとつ、深呼吸をすると、ピアノの前に座り、楽譜を開いた。
指が鍵盤の上を踊る。
お気に入りのピアノ。好きな音。響き。
私はまた、音符を辿り始めた。
ピアノの音 みこ @mikoto_chan
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