ある茶碗の理想的な探し方
長谷川野地
ある茶碗の理想的な探し方
1 平成十一年五月十日。木曜日、午前八時半頃
忘れもしない、今から二十年前の話。
新人の小娘だった私は、文化財保護課の木野原主任が運転する車の助手席に乗っていた。
「昨夜遅く、鵜北町の斎川誠一氏が所蔵する指定文化財の青井戸茶碗が盗まれました」
キツネ目の木野原と揶揄される上司の目が、いつもよりつり上がっていた。
「審議会の熊野教授からの連絡です。私たちも向かうからすぐに用意して」
顔に似合わず温厚な木野原主任が慌てている。
「蔵が破られたようなのです」
車に乗り込む際、主任はそう呟いた。
斎川家に着く頃には緊張と車酔いですっかり気持ち悪くなってしまい、私は車の中で一人横になっていた。木野原主任は私のことを気遣いながらも、小走りで現場へ向かった。今や課長に就任している冷静沈着な木野原主任が慌てふためく姿など、滅多に見られるものではない。
当時の主任が慌てるのも無理はなかった。盗まれたのは舘岡市が指定した有形文化財だからだ。市場に流れれば、二千万円は下らないと云われている。
青井戸茶碗。銘「八雲」
桃山時代以降、あらゆる種類の茶碗の筆頭に挙げられ、その中でも銘「八雲」は、数々の美術書に掲載されるなど、青井戸屈指の名碗として、国内での評価が定着していた。個人所有だが舘岡市の至宝だった。
少し横になっていると、気分が落ち着いてきた。持参したお茶を飲むと、気力が蘇ってくる。一つ息を吐き、車を出た。眩暈を覚えたが、足取りは軽い。
広い車寄せの中央には立派な黒松が植えられていた。表玄関の扉は開いている。重厚な茅葺き屋根の豪農風な平屋造りの母家である。式台の前には小野原主任の革靴が行儀よく並べられていた。古式ゆかしい玄関に気後れした私は、西側に広がる庭園へと向かう木戸が開いているのを見つけ、庭の方から問題の蔵を間近で見てみようと思った。
庭園は白砂利が敷き詰められた枯山水風庭園だった。苔に覆われた築山に石が立てられ、背後には赤松や高野槙などが植えられていた。奥には滝の石組らしきものも見える。振り返ると母家の濡れ縁に陽だまりができていた。根府川石の飛石を歩く。白州の中央に配された巨大な敷石の上に、初老の男性が佇んでいた。右手に杖をついている。
ふと、父方の祖父を思い出した。庭いじりが好きで、書画の蒐集家でもあった。足が悪く、いつも杖をついていた。その祖父も私が中学生の頃、肺炎で亡くなった。すると、亡くなるのを待っていたかのように、古めかしくも愛らしい木材や畳の匂いが溢れる建物は壊され、庭は更地になり、コンクリートで埋め立てられた。その亡骸の上へ目に眩しくも禍々しい近代的な家が建てられ、私たちの新しい住居となった。両親は嬉しそうだった。「みんなでディズニーランドにでも行こうか」両親がそう言うと、弟と妹は大喜びではしゃいだ。私は、大ネズミが帝王のように跋扈する夢の国へ行くよりも、京都の東寺で立体曼陀羅でも見ている方が幸せだった。その頃の私は、バンクシーの「ナパーム」という作品の中にいるミッキーに手をひかれ泣き叫ぶベトナムの少女そのものだった。年頃の女子にしては随分マイノリティな思考をしていたが、それはやはり祖父の影響によるものだろう。とにかくケミカルな臭いが充満する真っ白な家には嫌悪感しかなく、私と家族の溝を深める元凶でもあり、古いものを守りたいという思いをより強くさせた要因でもあった。
中学の時に私の進路は決まったのだ。
首を振り、古い想念を追い出す。私はおずおずと杖の男に声をかけた。
「あの、舘岡市の教育委員会の者ですが・・」
もの思いに耽っていた男は驚いた様子で振り返る。白いものが目立つ柔らかそうな髪。細身の白いボタンダウンのシャツ。銀縁の丸い眼鏡が鈍く光った。
「文化財保護課の新しい人ですか?」
杖の男は眩しそうに微笑んだ。
「はい。塞河江三月と申します」
「そがえさんですか。僕は熊野といいます。独鈷大学で文化財学を教えている者です。審議会に名を連ねていますから、これからはよくお会いするかもしれませんね。今後ともよろしくお願いします」
熊野と名乗る杖の男は丁寧に頭を下げた。私も慌てて頭を下げる。自分の親よりも年上の人からこんなにも丁寧な挨拶をされたことがなかったので、驚いた。私は改めて男を見た。六十代前半であろうか。学者というよりも、音楽家といった方がしっくりくる。
「ここの庭はね、かつては池泉式の庭園でした」
熊野教授は独り言のように呟いた。
「佐井川から清流を汲み上げて造られた遣水が流れていたのです。それは素晴らしい眺めでした。今立っているこの敷石の前だって、清らかな水をなみなみと湛えた大きな池があったのですよ」熊野教授は溜息をついた。「それをあの誠一が池の庭は金がかかると言って潰してしまった。まったくあの男のケチは病気です」
「でもとても綺麗に管理されているようですが」
「上っ面だけです。ケチなうえに見栄っ張りな奴なんですよ」
「お知り合いだったのですか」
熊野教授は笑みを浮かべ、頷いた。
「大学の後輩です。ここへは若い頃、何度か遊びにきました。まだ先代が生きていてね、色々と教えてもらいましたよ。蔵に眠るお宝も見せてもらいましたし、夜の遊び方なんかも教えてもらいました。誠一より先代の方が仲良かったかな。清濁併呑な方でした」
「あの、ということは、仁阿弥道八の黒猫も見せてもらったのですか?」
熊野教授は目を瞠った。
「ええ、もちろん。先代はあの猫をいたく気に入っていましたからね。あなたもですか?」
「はい」
「あなたはいい趣味していますね」
「そんなことないです」本当は大学教授に褒められて嬉しかった。「子供のころ行った美術館に展示されていたんです。解説プレートに斎川家所蔵と書いてあって、これは個人のお宝なんだ、と羨ましく思ったものですから」
小学生の時、祖父に連れられ県立美術館の「陶器の動物たち」展を見に行った。背中の丸いフォルムと、気持ち良さそうに目を細める表情が愛らしい黒猫に一目惚れしたのだ。手焙といって、炭火を入れて暖をとるものだとか。
「そうですか。当時は斎川家もオープンでしてね。至宝を寄贈したり、出品したりしていましたからね。博物館に委託したものもあったかな。何よりも先代はここを財団法人にして、美術館を建てる構想があったようですよ」
「それは素敵です」
「だが、先代は晩年目を患ってしまって、その計画は頓挫してしまいました。それどころではなくなってしまったのです。さらに、誠一が跡を継ぐと、斎川家の至宝は門外不出のお宝になってしまった。誠一はケチですからね、自分のところのお宝が外へ出て、陽の目に当たるのすら我慢できない。ましてや、外へ出て盗まれでもしたら大変だ、という強迫観念みたいなものもあったのでしょうね」熊野教授は眉毛を下げて笑った。「ですがね、いくら暗い蔵の中に隠していても、今回のように盗まれる時は盗まれてしまうものです」
「でも、一体どうやって・・?」
三階建ての豪壮な石蔵の扉は母家から廊下で連結されていて、家の中からしか入れない構造になっている。なお、車中で小野原主任から聞いた話では、重厚な観音開扉もぴたりと閉まっており、錠前の鍵もしっかりと掛かっていた。二階部と三階部に観音開扉の窓があるが、それらも内側から鍵が掛けられ、開けられた形跡はなかった。蔵の中はもう一つ内扉の引き戸がある。所謂、二重扉になっているのだが、その引き戸の落とし鍵(引き戸内側の下方に取り付けられており、扉を閉めたタイミングで落とし棒が受け口に落ち、扉がロックされる構造。解錠には、先を曲げて加工された専用の鍵を外側から挿入し、内側の落とし棒を持ち上げて解錠する)も使用された形跡はなく、固く閉じられていた。蔵の外側も穴などが開けられた痕跡はないという。内部も荒らされていなかった。土間の三和土もきれいなままで、穴を掘って侵入した形跡なども皆無だった。まるで保管場所を熟知していたかのように青井戸茶碗だけが無くなっていたらしい。
通報した使用人の佐竹氏の証言によると、事件発生は、昨夜の深夜二時頃だった。蔵の内部に設置された赤外線センサーが異物を感知した。生憎この日、当主の斎川誠一氏は愛人の家にいっていた為、留守であった。屋敷から警報が鳴り響き、離れに住んでいる使用人の佐竹氏は母家に駆けつけた。が、家の中は賊が侵入した形跡もなく、家の鍵と蔵の扉も施錠され閉まっていた。それを確認すると警察を呼ぶ前に当主へ連絡をした。急いで帰ってきた当主だが、時すでに遅かった。三十分後に到着した警備会社の人間と鍵を開け、内部を確認したところ、防炎素材のセイフティバッグに保管されていた青井戸茶碗だけが、跡かたもなく消え失せていた。厳重に施錠された蔵から忽然と。
「少し散歩しませんか」
熊野教授はこの切羽詰まった状況においても、口笛を吹くように言った。
私は戸惑いながらも、ついていくことにした。教授は杖をついているが歩みは速い。入り口から反対側にある木戸を抜けると、細い小路になっていて、渡り廊下が見える。掃き清められた路を暫く歩くと、石蔵の裏側に出た。つい、丈高い蔵を見上げる。大正以降によく見られる典型的な積石蔵である。定尺(大体1尺×3尺)の石を交互に破れ目地で規則正しく積まれている。たしかに穴などは開いていない。多少の経年劣化は見られるものの、しっかりした造りにみえる。
「こちらへ来てください」
熊野教授が手招きする。蔵をぐるりと一周して母家の裏へ歩を進めると、途端に雑草が生い茂り、ジャングルのようになっていた。
「誠一がケチな証が、ここです。見えないところには金をかけない。以前はね、今通ってきた小路も雑草が生い茂っていたのですよ。庭や渡り廊下からは見えないし、死角になっていますから」
「ですが、とても綺麗でしたよ」
熊野教授は頬を歪めた。
「だからおかしいと思いませんか?」
私は頷くばかりだ。
「ここの使用人の佐竹夫婦は奥さんが家事全般を受け持ち、旦那さんが敷地全般を管理しています。この広大な土地の半分は栗畑としての生産緑地になっていますから、彼はその管理に忙しい訳です。玄関前の掃除や主庭の掃除、古くなった母家の修繕やらで手一杯になる。あと二、三人雇えばいいものをケチな誠一ですからね、一人で全部やらせる。無駄なところは省くように言いつかっていたようですよ。この見えない場所はまさに省いていたところです。年に二度来る造園業者にもここの辺りはやらせないらしい。その分、金が掛かりますからね」
「それでは、誰がここの掃除をしていたのでしょうか」
「和晃くんです」
「ご長男の?」
「ええ。今年二十五歳になる放蕩息子の和晃くんが、半年前から殊勝にも庭の掃除を買って出てくれたようですよ。彼は駅前のマンションに住んでいるのですが、仕事もせず毎日ふらふらしているような人物です」
「何故そんな人が急に庭掃除なんか・・」
「そこがこの事件の面白いところです。何故でしょうな」
「今回の盗難事件と何か関係があるのでしょうか」
熊野教授はにんまりと笑った。
「大いに関係があると思いますよ」
「でも、蔵の扉には鍵が掛けられていたのですよね」
「ええ。合鍵を作る時間も無かったでしょう。蔵の鍵は誠一が後生大事に首にかけて風呂場まで持ち歩いていたようですし、家の中には常に佐竹さんの奥さんが忙しく働いていますからね。それに・・」熊野教授は悪戯っぽく頬を歪める。「蔵の鍵は都合二つないといけない訳ですから」
「観音扉の鍵と、内扉の鍵ですね?」
「そうです。引き戸専用の落とし鍵は別の金庫に収納されています。誠一は二つの鍵を首から下げ、常備していたといいますから、蔵に侵入するには、まず内扉の落とし鍵を探してからでないと開かないことになります」
「かなり難しそうですね」
私は苦笑してしまった。それでは不可能犯罪になってしまう。
「警察を呼んだ方がいいのではないですか?」
「警察を呼ぶまでもありませんよ。警察にはまだ報せるなと言ってあります」
熊野教授が目を細めて言うと、後ろから慌ただしい足音が聞こえてきた。
「先輩、ここにいたんですか」
目つきの険しい小柄な男が甲高い声を出している。私など目に入らないようだ。歳は熊野教授と同じくらいだが、年齢の割には血色がよく若々しい。この人物が斎川誠一に違いない。後ろには、小野原主任と背の高い初老の男が控えている。おそらく使用人の佐竹氏であろう。斎川氏が熊野教授に唾を飛ばす勢いで口を開く。
「今、うちの若い社員から連絡がありましてね」
「うん」
「先輩にいわれた通り、和晃を見張ってもらっていたんです」
「それで?」
「あいつ今朝早くから車出して、京都まで行ったらしくて」
「ほう」
「老舗の骨董屋で青井戸を売ろうとしたところを取り押さえました」
「それはよかった。茶碗は無事なんだろうね」
「はい。きれいなままのようです」険しい目が一瞬だけ優しくなった。「よかったはよかったんですが、しかし、あいつ一体どうやったんだ。ああ、でも、先輩のお陰で助かりましたよ。ありがとうございます」
「うん。こんなことで警察沙汰にならなくて、よかったよ。それにしても社員さんのお手柄だね。金一封でもあげなさいよ。ケチケチせずに」
「いやいや、うちの社員よりも先輩のお手柄ですよ」
「じゃあ、一万円でいいよ」
「一万円は高いなあ」
「あの青井戸は二千万の市場価値があるんだから、安いもんだろ」
「それはそうなんですがね・・、それはそうと、先輩は何で分かったんです? 俺には訳が分からない」
「あの・・」小野原主任と佐竹氏が、おずおずと前に出てくる。「私どもには何が何やらさっぱり分からなくて・・」
「そうでしたね」熊野教授も相好を崩した。「ヒントは、和晃くんの半年に渡る不可解な行動の解釈と、石蔵の構造及び性質です」
何やら、大学の講義でも始まりそうだった。
2 現在
「それじゃあ、何も分からないですよ」
斎川家の渡り廊下を歩きながら、傍らの若い澤木が非難がましく言う。
「私もそうでした」
先を促す佐竹夫人の小さな背中を見ながら囁くように言った。夫人が不審そうに私たちを振り返って見たので、より一層声を落とした。
「でも、推理の材料は全部揃っているんですよ」
「よく分からないな。だけど、うーん。不良息子が半年かけて蔵に何か細工したってことは想像できるんですがね」
「いいところをついていると思いますよ、さすが元社会科の先生」
「意地悪だなあ、答えを教えてくださいよ」澤木は子供のように口を尖らせる。「しかし、和晃さんは一体何で蔵を密室にしたんでしょうね」
「時間稼ぎですよ。古美術商へ売りに行くまでの。工作した痕が露見してしまったら、すぐに自分だとばれてしまうからです。有名な作品ですから警察や文化庁の捜査網が敷かれる前に売りたかったんでしょう。だって、蔵の周辺を半年間掃除していたのは彼なんですから」
「そうか。じゃあ、それなりに目立つ工作だった訳か・・」
澤木が呻り始めた。
蔵と連結された渡り廊下の突き当たりは黒く重厚な観音開扉がある。蔵の入り口だ。そこに人だかりができていた。私は見知った猫背の懐かしい後姿に声を掛けた。
「熊野先生、お久しぶりです」
猫背の男は振り返ると、おおらかな笑みを浮かべた。
「これはこれは、塞河江さん。久しく会っていませんでしたね」
「お元気そうで何よりです」
「誠一がぽっくり逝ったのに、私は何とか生きていますよ。そうそう遅くなりましたが、おめでとうを言わなければなりませんな。主査になられたんでしょ」
「はい。お陰さまで」
「素晴らしいことです。あなたのような方が文化財を守らなくてはいけません。それに、この屋敷も法人化して広く公開するようですね」
「そのようですね。嬉しいです」
「これであなたの好きな仁阿弥道八の黒猫も、やっと陽の目をみることになりますな」
私は目を瞠った。二十年前に口走った戯れ言を、今でも憶えていてくれたことに、心底驚き、胸がじんわりとした。
「よく憶えていらっしゃいましたね。感激しちゃいました」
「あなたはなかなかいい趣味をしている」
黒いフレームの丸眼鏡が鈍く光る。幾らか背は縮んだが、まだまだ矍鑠とした雰囲気をそなえていた。昨今まで独鈷大学名誉教授の称号を得ている。
「こちらの方は?」
熊野教授が澤木を見る。
「文化財保護指導員の澤木正嗣さんです」
舘岡市では人手不足を解消する為に、ボランティア制度を導入していた。
「澤木というと、老舗茶舗一本松堂の七代目に就任した方ですか?」熊野教授は目を見開いた。「あの澤木正造の息子さん?」
「はい」澤木は丁寧に会釈した。「若輩ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
熊野教授も深々と頭を垂れたが、私は見逃さなかった。教授が顔をあげた時に見せた一瞬の表情が哀しげに見えたことを。
いや、見間違いかもしれない。私は吐息をつき、熊野教授を見つめた。
「ところで、皆さん扉の前で何をなさっているのですか?」
「それがね」熊野教授が悪戯っぽく笑う。「錠前の鍵が開けられていたようです」
「えっ。開けられていた?」
「ですがね、扉が開かないようなのですよ」
私は内心苦笑した。
扉は開けられているのだが、開けられない。
まるで禅問答のようだ。
扉の前には鍵業者が蹲って何やら作業をしている。密閉された扉の真ん中をノミで削っていた。その横で苦虫を噛み潰したような顔で見守るのは、現当主の斎川瑞希氏だ。気の強そうな美人である。隣に寄りそうように佇むのは、婿養子の斎川敦氏だろう。たしか公認会計士ときく。周りを見渡してみる。扉の斜め前は引き戸で仕切られた書斎部屋になっており、その戸の前に長身の男が所在無げに立っていた。その姿を見た時、私は少し驚いた。佐竹氏が以前と変わらぬ風貌だったからだ。二十年前は、熊野教授や斎川誠一氏と同じ位の歳だろうと思っていたが、存外に若かったのかもしれない。老け顔の人は歳をとっても変わらないというから。
他にはあと三名いた。審議会のメンバーで建築家の能崎治一郎氏、陶芸家で人間国宝の柴田観山氏、上信大学教授の久山守氏。皆、一様にそわそわしている。
「何故、開かなくなってしまったのでしょうか」
私は熊野教授の耳元で囁く。
「中からかんぬきが掛かっているようでね、開かないようです」
「かんぬきですか?」
「ええ。これも誠一の病的な用心深さの一種でね。蔵の中で調べ物をするような時、中からかんぬきをして何人たりとも入らせないようにしていたのです。木造の内扉だけでは物足りなかったんでしょう」
「じゃあ・・」私は寒気がした。「中に誰かがいるということでしょうか」
「おそらく」
その時、鈍い音がし、扉に僅かだが隙間ができた。業者がバールをこじ入れ、板をかます。その寸隙に鉄の棒を差し入れ、鎹から横木を外した。鎹の上に横木を被せるだけの簡易的な構造だったのが不幸中の幸いだった。
扉が徐々に開くと、黴と埃の独特な臭気とともに、中から呻き声が聞こえた。場が騒然となる。
「中に人がいるぞ」
誰かが叫んだ。
観音扉が重々しく開き、格子の内扉が現れる。その隙間から黒い陰のようなものが見えた。私は息を飲んだ。よく見ると、人が片膝を抱えて呻いている。
「はやく、助けてくれ・・」
黒い陰が弱々しい声を発した。
「和晃!」
斎川瑞希氏が金切り声をあげた。その拍子に彼女が握りしめていた内扉の落とし鍵が手から滑り落ちた。
すぐに救急車が呼ばれた。斎川和晃氏は口の端から血を流し、右足は折れているようだった。が、話すことはできた。隣の書斎部屋で寝かされ、救急車を待つ間、観念したのか、ことの顛末を語り始めた。
「姉貴がこの屋敷を法人化するって言ってたから、これは不味いと思ってね。アクリルケースに入っちまう前にあの青井戸茶碗だけでも俺のものにしようと思ったんだ」
和晃氏が悄然とした声で言うと、瑞希氏が冷めた目を向けた。
「相変わらず、クズ野郎ね。で、どうやって入ったの?」
「ふん。姉ちゃんたちは坂上町の豪邸だし、今は佐竹たちも住んでないし、ここは空き家同然だからな」
「ばか、蔵の中にどうやって入ったか聞いてンの」
「合鍵だよ。親父が死んだと聞いて駆けつけた時にね、パテで鍵の型をとっておいたんだ。内扉の落とし鍵も完璧な模倣品を作っておいた。いつでも入れるようにな」
「なんて親不孝なことすんのよ」瑞希氏は悲壮感のこもった溜息をついた。「それで、いつからこの中に入ってたの」
「今日の深夜ニ時頃かな・・。昨日の朝、市の広報で今日蔵開きをするって発表があったからな。急いだんだ」
たしかに、蔵開きを公表したのは昨日の朝だ。ネットや地域新聞の朝刊に載せられた。市の方では一週間前に、瑞希氏から打診を受けていたが、内部でも一部の人間しか知らない事案だった。事前に知っていたのは、審議会のメンバーと、小野原課長と私くらいだ。
「警報システムが鳴らなかったけど?」
「親父が死んだその日に、鳴らなくなるように回線を切っておいた」
「お父さんじゃなくてあんたが死ねばよかったのに」
瑞希氏は激昂して和晃氏の折れている方の足を蹴った。
「いてーな、くそばばあ。俺だって斎川の人間だ。お宝をもらう権利あるだろーが」
暫く悶絶していた和晃氏だったが、涎を垂らし苦悶の表情で顔をあげると、信じがたい言葉を口にした。
「だけど。聞いてくれよ。俺だけじゃなかったんだよ」
「何が?」
「俺だけじゃなかったんだ、蔵の中に誰かいたんだ。俺はそいつに後ろから突き飛ばされたんだよ」
「はあ? 寝惚けるのもいい加減にしなよ」
「本当なんだよ。それだけは信じてほしい」
「じゃあ、中にまだ誰かいるってこと?」
「多分・・。ちきしょう、くそっ、いてー。ふざけやがって・・・」
そう言うとまた呻き声をあげた
すると先程、蔵の中を調べた斎川敦氏が首を振りながら口を開いた。
「中には誰もいないよ・・」あからさまに溜息をつく。「二階三階の窓も全部閉まっていた。もちろん施錠されていたよ。今、皆で確認した」
「でも・・」和晃氏が喘ぐ。「たしかに、いたんだ。背中を押されたんだよ。それで階段から転げ落ちたんだ・・」
「顔は見たの?」
「見てない。後ろからいきなりだったから・・。多分ニ階に潜んでいたんだ・・」
「じゃあ、そいつはどこにいったのよ」
「し、知らないよ・・。痛くてそれどころじゃなかったしな・・」
「身から出た錆っていうのよ、ばか。何で、かんぬきなんか掛けたのよ。面倒なことして」
「誰かに見られたら嫌だろ・・。だけど動けなくなってこの様だ・・」
痛みからなのか、悔しさからなのか、和晃氏は泣いていた。
「自業自得ね。もうちょっとマシな嘘をつきな」
瑞希氏が鬼のような顔で言い放つ。
「マジシャンや詐欺師は演技力で人を欺くと言いますがね」
熊野教授が書斎部屋に入ってきて私に耳打ちをする。
「どうも和晃くんの訴えは演技ではないようですよ」
「どういうことです? 先生」
「和晃くんの言う通り、誰かいた可能性があります。青井戸茶碗は無くなっている筈です」
皆で蔵の中を捜索してから二時間は経った。その間、救急車が到着し、和晃氏を乗せていった。一応、瑞希氏が同乗した為、この場の指揮は敦氏がとっている。
斎川家の至宝は書画を合わせると五千点近くある。膨大な量だ。しかし、陶器類は二百点余りと少なく、目録とつき合わせ、確認していったが、やはり白応禅師の箱書がある青井戸茶碗だけが見つからなかった。無論、蔵内は簡素な造りで隠せる場所などなく、「もともと無かったんじゃないか」という意見も出始めていた。それに、和晃氏は何故あのようなことを言ったのか。人など隠れる場所はないし、抜け穴も存在しない。入り口の観音開扉も外開きの扉だから扉の内側に隠れることも出来ない。地下に隠し部屋があるようなこともない。往年の石蔵はコンクリートで固められた強度な密閉空間だった。そして青井戸茶碗は一体どこへいってしまったのか。人と茶碗は消え、謎と疲労だけが深まっていった。
徒労の色を隠せない澤木が、佐竹夫人が淹れてくれたお茶を飲みながら口を開いた。
「それにしても熊野教授はどうして青井戸がなくなったとすぐに分かったんでしょうか?」
「青井戸茶碗だけは防炎素材のセイフティバッグに保管してあったからです」
今は皆が三十畳の応接間に集まり、各々休憩している。私も香りのいいお茶を口に含んだ。一瞬だけ肩の力が抜ける。そこに熊野教授がやってきた。
「塞河江さん。ちょっと散歩にでも付き合いませんか?」
前にも同じようなことがあったと思いあたり、懐かしい感慨とともに、
「私も外の空気が吸いたかったので」
と、即座に言い、席を立った。
「澤木くんはここで休んでて」
そう言うと、澤木は力なく頷いた。その目には疲労が色濃く浮かんでいた。
4
枯山水風の庭は美しく管理されている。庭を抜け、蔵への小路も雑草一つなく掃き清められていた。蔵の前に立つと、先程も生じた違和感を覚える。
「こちらへ来てごらんなさい」
熊野教授が手招きする。蔵を周り、母家の裏へ出てみると驚いた。
「親子で、ここまで違うとはね。瑞希さんはいい当主になりそうです」
私も深く頷いた。以前、雑草で生い茂っていた母家の裏は綺麗に除草され、向こうまで気持ち良く見通せる。大邸宅の本来の姿を見たような気がした。
「あの・・」蔵の前へ戻ると、私は疑問をぶつけることにした。「この蔵なんですが、以前とかなり違うような気がするんです。もちろん、石からコンクリートに変わって、漆喰が塗られているからなんでしょうが、どこかしっくりこない感じなんです」
「やはりあなたはいい目をしていますね」
名誉教授に褒められるのは、四十になっても嬉しいものだ。
「屋根ですよ。屋根の勾配が以前より緩やかになっています」
「なるほど」屋根を見上げる。「そうか、そうやって見るとそうかもしれません。蔵の印象がおだやかな感じがしたので」
「以前は勾配のきつい峻厳なイメージがありました。これも誠一のケチなところが露呈しましたね。この蔵を建て直す時に屋根もやり直すことになったのですがね、もともとの勾配のきつい屋根はコストがかかると聞いて、コストの安いなだらかな切妻屋根にしたようです。だから、あなたのご指摘通り女性的な蔵になった訳ですね。だが、私はこの姿も嫌いではありませんよ」
私は相槌を打つと、熊野教授を見つめた。
「先生は今回の件をどう見ているんですか?」
「あなたとの散歩のお陰であらかた真相がわかりましたよ」
「え。私には何も見えていませんが」
「あなたの足元に梯子を立てた跡があるじゃないですか」
私は慌てて足元を睨みつける。すると、僅かにだが、土が二カ所凹んでいるところがある。
「ここから梯子を掛けて上ったのでしょう。納屋の裏に三連縄梯子がありましたから。最近使用したのは間違いない。付着してある土が新しかったからね」
「ということは、犯人は屋根から侵入したのですか?」
「そうだと思います。二階三階の窓は施錠されていましたからね」
「そういえば、先生は蔵の三階部分や屋根裏を長い時間かけて見ていましたね」
「ええ。足が悪いので閉口しましたよ」
「先生は屋根が怪しいと最初からにらんでいたのですか?」
熊野教授はこくりと頷いた。「今回はコンクリートで囲まれた蔵ですからね。以前のようにはいきません。だが、誠一の病的な守銭奴気質を考えると、見えないところには金を省くような気がしたものでね。ただでさえ、破蔵事件のお陰で蔵を建て直さなくてならなくなった訳ですからね。彼にとっては無駄な出費だったでしょう。あんなことが起こらねば金を掛けることもなかった、とかね。しかし、あんなことがあったからこそ、防犯対策は万全にしたい。二度とお宝を盗まれたくない。だけど、金はどこかで節約したい。堂々巡りの矛盾した気持ちにさいなまれていたでしょう」
熊野教授は杖に体重をかけると、寂しそうに笑った。
「誠一の心の中など私にはお見通しです。この蔵で見えないところといえば屋根しかない」
「たしかに・・」
「先程、屋根裏へ上って屋根の構造を眺めていたのですがね、それは酷いものでした。垂木(屋根板を支えるため、棟から軒に渡した木)の数も極端に少ないし、その上に被せる野地板も頭頂部には設えていないという究極の安普請の屋根でした。誠一らしいといえば、らしいですがね。おそらくルーフィングで防水の全てをまかなっていたのでしょう」
「すみません、ルーフィングって何ですか?」
「ルーフィングとは、アスファルトルーフィングといって、板紙やフェルトにアスファルトを染み込ませた建築用の防水材料です。ロール状の長い製品が一般的ですね。厚みは大体三ミリ程でしょうかね。カーペットをかなり硬くしたものを想像してもらえばいいと思います」
「何となく想像がつきます」
「そこでね・・」熊野教授は肩に掛けていた革のショルダーバッグからタブレット端末を取り出し、何やら操作しはじめた。齢八十を過ぎているのに慣れた指さばきだ。「Gマップの航空写真で、この家を見てみたのですがね。ほら、これです。御覧なさい」
私はタブレット端末を覗き込む。俯瞰した斎川家が見える。緑の海に浮かぶ、円形の船。タッチ操作でさらに寄ると、蔵の真上にいく。熊野教授は更に拡大する。徐々に画像が粗くなるが、私は思わず声をあげた。画像はたしかにぼやけている。だが、分かる。見えるのだ。
「屋根の頭頂部にだけ、瓦が敷いてない・・」
「誠一が瓦をケチったのがお分かりになったでしょう? ハゲ屋根ですよ、情けない」
私は深く頷いた。
「これで堅固だと思われた蔵に、侵入経路ができた訳です。犯人は十メートルの三連縄梯子で屋根まで上り、用意していた金切り鋏で体が入るだけの切れ目を入れ、屋根から屋根裏へ侵入したのです。垂木の数は少ないうえに、野地板がない頭頂部なら訳なかった筈です。そして強力な粘着力と防水性の高いテープで切れ目を簡易的に塞いだんでしょうな」
「そんなことができるのでしょうか」
「屋根の雨漏りとかで一時的な修繕などの時に使うテープがあるのです。しかもルーフィングは硬い下地ですから切れ目の断面が合わせやすい構造になっています。壁や屋根などに使用する防水補修テープを使えば意外と切れ目が分からなくなってしまう。現に僕も確認しましたが、僅かに亀裂のようなものしか見つけられなかった。一見すると劣化によるひび割れが生じたのかと思うくらいです」熊野教授は吐息をついた。「まあ、しかし、あとで屋根を調べれば分かることでしょう」
屋根の修繕? 私の頭の中はそのことでいっぱいだった。この屋敷の管理を一手に担っていた人物がいるではないか。斎川誠一氏の性格も熟知している人物。そして意外にもまだ若いかもしれない人物。梯子だって平気で上れそうに見える。
「犯人は佐竹さんじゃないですか?」
「ほう」熊野教授は嬉しそうに破顔する。「たしかに彼なら出来そうだ。彼は元宮大工だったし、まだ若い。この屋敷のことは熟知しているでしょうしね。だが、何故今なのでしょうかね。こんな差し迫った時期に、危ない橋を渡る必要がありません。彼ならいつでも犯行に及べた筈ですから」
「それは・・、和晃さんと同じ理由です。昨日の朝、蔵開きが公表されたので焦った彼は犯行を決意し、急遽実行に移したのではないでしょうか」
熊野教授はゆらゆらと白髪を揺らす。
「彼は知っていましたよ。瑞希さんから直接、蔵開きがあるから屋敷内を綺麗にしてほしいと頼まれていましたからね。この辺りを綺麗にしたのも彼ですよ」
私は唖然とした。「佐竹さんはいつでも犯行可能だった・・。それなのに今の今まで犯行に及ばなかった・・」
「佐竹さんは、この集落出身でね、若い頃、友人に金を騙し取られて、誠一に借金を頼みにきたそうです。結構な金額だったと言っていましたがね、かたがわりしてやったそうです。まあ、あの誠一のことです、その代わりに古くなった母家の修繕を一年契約で結んだそうです。返済込みとして安く依頼したんでしょうな。彼が宮大工だったことも知っていたし、丁度よかったのでしょう。安い賃金でこき使った訳ですよ。だが、それがきっかけで斎川家の使用人になったのです。別れていた奥さんも呼び寄せて、離れで住み込みとして働くようになった。そんな人です。誠一と佐竹さん、あの二人は案外気が合ったようですね。佐竹さんも居心地がよかったようですよ。人間不信になり世捨て人のようになっていたらしいですからね。ここの広大な土地が彼を癒してくれたのでしょうな」
「では、犯人は一体誰なんでしょう・・」
「そうですな・・」熊野教授は杖を弄ぶ。「犯人は何故、切り裂いたルーフィングをわざわざ修繕したんでしょうね。別にそのままでも差し支えないことでしょう? 青井戸さえ盗めればいい訳ですからね。だが、犯人は労を惜しまず、簡易的にだが修繕を試みた。それは何故か。ただ犯行を隠す為だったのか。それは違うと僕は思うのです」
私は熊野教授に見入っていた。枯れた楠木のような存在感に圧倒されていた。
「犯行を隠す意味がないからです。現に青井戸茶碗は無くなっている訳ですから。ならば、屋根を塞ぐことで密室を形成し、和晃くんにすべてをなすりつけようとしたのか? 彼の狂言として事件を終わらそうとしたのか? 青井戸茶碗など、もともと無かったということにしてね。だが、それも根拠が薄い」
「何故です?」
「屋根が修繕された痕跡など、いずれ分かってしまうからです」
「犯人はどうしても一時的に密閉空間にする必要があったんじゃないですか? 蔵開きの時までは密室にしておきたかったのでは」
「何のメリットがあります?」
「犯人は、和晃さんが来るのを蔵で待ち伏せしていたんじゃないですか? 皆の前で和晃さんを辱しめるのが目的だったのかもしれません。先生の言うように和晃さんの頭がおかしくなったと、世間に周知させる為です」
熊野教授の丸眼鏡が鈍く光った。
「随分と面倒なことをするものですね。辱しめにあわすなら、全裸にでもして長屋門に張りつけておいた方が余程効果があると思いますがね。でも、いい意見だ。しかしね、塞河江さん。あの程度の工作では、もしかしたらすぐにでも見破られてしまうかもしれない。審議会のメンバーには一流の建築家もいるのです。すぐに看破され、その場しのぎにもならなかった可能性がありますよ。あまりにもリスクが高い」
私は項垂れるように頷いた。
「降参です。先生はどのように考えておられるのですか?」
「僕にも分かりません」熊野教授は目を細める。「ただ・・、この犯人には良心がある」
「良心ですか?」
「ええ。この犯人は蔵に忍びこむさいに、自らが切り裂くルーフィングを補修する為の特殊なテープをわざわざ持参して侵入しているのですよ。すぐに見破られるのを承知でね。それが何を意味していると思います?」
私は暫く茫然と蔵を見上げた。「櫓」と呼ばれる豪壮無比な蔵。その屋根に上って、汗を流し、一所懸命にテープで自分が破いてしまったものを塞いでいる。そんな人間を想像した。その時、私の鈍重な頭の片隅で閃くものがあった。闇夜の中で蹲る人影が見えた。
「雨露や小動物から貴重な品々を守る為ですね」
熊野教授が僅かに頷くのを見ると、
「失礼します」
叫ぶように言い、私は踵を返し、走った。
庭に面した母家の濡れ縁から、皆が寛いでいる応接間に飛び込んだ。先程私たちが座っていた場所に澤木の姿がなかった。
「あの、澤木くんは?」
お茶を飲みながら談笑している審議会のメンバーに声を掛けた。
「澤木?」陶芸家の柴田観山氏が不思議そうに私を見上げる。「そんなやついたかな・・」
「若い人ですよ」そう言ってから私は苦笑した。「あ、いいんです。勘違いしていました。すみません」
私は作り笑いを浮かべながら玄関へ急いだ。
内玄関の式台の前に並べられている靴をなめるように見るが、すでに澤木正嗣が履いていたニューバランスの靴がなかった。
時間を忘れ、立ち尽くしていると、玄関に熊野教授が現れた。庭から回ってきたのだろう。私の顔を見ると、杖を握り直し、呟くような小さな声で言った。
「何か、やむにやまれぬことがあったのでしょう。斎川家と澤木家は昔から反目していましたからね。名家同士の所謂、ライバル関係ですよ。それでも何とか平衡を保っていたのですがね、ここ最近ですよ、関係が悪化したのは」熊野教授は式台に腰掛けた。「澤木正造の代で一本松堂が傾き始めたからです。この家にも無心にきたという話ですからね。余程切羽詰まっていたのでしょう。誠一は金を貸してあげたらしいですよ。まあ、誠一は金に汚い奴ですが、皆が噂するほど因業な奴じゃないのです」
「しかし」
叫び声に近かった。慌てて周囲を見渡す。幸いなことに誰もいなかった。
「闇金まがいなことをやって一家離散させたり、追い込んで自殺させたりしていたのでしょう?」
「そんな話、誰から聞きました?」
熊野教授の目が細くなった。
私が答えられずにいると、熊野教授は目を伏せ、杖を弄んだ。
「噂の出所ははっきりしています。澤木正造ですよ。皆に仔細を聞いてみると、最後に行き着くところはすべて一本松堂です。何といっても彼は町の名士ですからね。説得力がある。自らの地位を利用し、噂をばら撒いた訳です。協同組合の人間や、ボランティア、地域住民、文化財保護指導員や、あなたのような人にね。悪い噂というものはすぐに広まります。いつしか誠一は極悪非道な人物になっていた。澤木正造は誠一を村八分にして、自分こそが一番になろうとしたのです。それもこれも誠一への負い目からでしょうな。名前だけでも上に立とうとしたのですよ」
斎川誠一を憂う人がここにいた。私はぶるぶると小刻みに震えていた。自分の浅はかさを呪うように。
「あなたには悪いが、澤木正造をボランティア巡視員の長にしたのは間違いだった。彼は巡視員の肩書きを利用して、在野の文化財を盗んでいたのですから」
「そんな、まさか」
「あなたが企画したボランティア制度は素晴らしいものです。しかし、それを悪用した人間がいた訳です。結成した平成二十一年からの十年間、この狭隘な舘岡市内では考えられない数の仏像が盗難にあっているでしょう? それがその証だとは思いませんか」
足の力が抜けて、私は座り込んでしまったが、やっとの思いで口を開いた。
「でも、それとこれとは、関係がないかもしれない」
「関係あります。独鈷大学文化財学研究室を舐めてもらったら困ります。僕はね、研究室を使って文化財流用の市場調査をしてみたのです。盗まれた仏像の型式から、盗まれた日時、場所を概算して、国内外の膨大な数のオークションサイトにアクセスして調査しました。なかなか見つかりませんでしたが、数年かけて地道に調査していたら、一件、舘岡市内にある寿慶寺という無住の寺の文殊菩薩像がヒットしました。この仏さんは詳細な記録が残っていましたからね。するとね、そのサイトから舘岡市で盗難届が出ている仏像が何体も出品されていることがわかったのです」熊野教授は吐息をつき、項垂れる。「僕はそのサイトを運営している楊という男に会うことができました。購入するから実物を見せてくれと言ってね。京都の駅前で会いました。寿慶寺の文殊像は三十センチほどの坐像でした。その男はべらべらと気前よく話してくれましたよ。こっちが聞きもしないのに、この品は舘岡というところの名家、一本松堂から買ったものだから、安心して購入してほしいってね。見せられた目録には澤木家所蔵の三代目小泉仁左衛門の鉄瓶も掲載されていてね、改めて澤木正造の関与を確信したというより、もう呆れましたよ。文殊像はその場で買ってやろうと思いましたが、三百万とふっ掛けられましてね。僕のポケットマネーでは手が出せませんでした。申し訳ない」
「そんな、先生が謝らないでください。そのサイトを是非私どもにも教えてください。検討して、市で買い戻せるものがあれば買い戻します」
「ええ。そのつもりです。もっと早くあなたに報せたかったが、誠一や澤木正造が相次いで亡くなってしまいましたからね。それどころではなかった・・」
熊野教授は私を見据えた。
「あなたの志は素晴らしい。企画力も実行力もある。だが、人は善意を隠れ蓑にすることがある、ということを忘れないでほしい。あとね、あなたの後ろには、市と独鈷大学がついているということを忘れないでほしい。一人で多くを抱えなくていいんですよ」
不意に涙腺が崩壊しそうになったが、何とか堪えた。
「安心なさい・・」熊野教授の顔が穏やかになった。「あの青年には、志がある」
「ええ」私は力強く頷いてみせた。「多分、来る筈です。彼の方から。青井戸茶碗を持って」
彼の善意と志を信じようと思った。誤算から生じたこの茶番劇を終わらす為に、彼ならきっと現れる筈だ。甘いかもしれない。その隙間につけ込まれるのかもしれない。こんな甘い考えだから、今の今まで私は誰かの妻や誰かの母になれないのかもしれない。
だけど、今回は年齢と経験を積んだ自分の目を信じてみようと思った。泣いている場合ではなかった。理想の男が現れるのを待つ四十の女に、涙は似合わない。
5
舘岡市は小さな地方都市である。山間の土地にオアシスのように広がる舘岡盆地は、律令時代から宿場町として栄え、近隣にその名を馳せていた。往時の旅人は「舘岡宿に辿りつけば何とかなる」を合言葉に、峻険な大津那山地を越えてきたと云われている。人が集うところに歴史が刻まれる。鎌倉時代創建の壮麗な舘岡八幡宮や、平安期から続く名刹の雲龍寺など、貴重な文化遺産が狭い市内の至る所に息づいていた。
南北朝時代、雲龍寺中興の祖である白応禅師がお茶の栽培を推奨したお陰で、この辺りはお茶の産地として栄えた。なかでも朝晩の寒暖差が激しい鵜北地区は良質なお茶を育み、生産量こそ少ないが、多くの好事家を唸らす茶所になっていった。
江戸期になり、一時、茶産業が衰退したが、明治初期、斎川家と澤木家の両家が茶所復興の旗頭となって尽力し、今や往時を凌ぐ産地として見事復活を果たした。
市の中心部、舘岡駅から、鵜北本線に乗って、三駅目の鵜城町というところに私は住んでいる。古民家を一部リフォームした、ささやかながら私の城だった。一匹の猫との暮らしは案外と心地良い。洗濯物を干している時、表のチャイムが鳴った。ふと、空を見上げると、ひと雨降りそうな雲が近づいていた。
玄関前に澤木正嗣が立っていた。手には防炎素材のセイフティバッグが握られている。
「やっぱり来てくれましたね。でも、よくここがわかりましたね」
まさか家にやってくるとは。私はノーメイクだったが、主査の顔を作って言った。
「以前に松田さんが言ってたことがあって」澤木は泣きそうな顔で呟いた。「鵜城町の古民家に住んでいるらしいって」
あのお喋りジジイめ。私は心の中で悪態をついたが、平静を装った。
松田さん。澤木の前任者である文化財保護指導員で、歩くスピーカーと云われている。噂好きでお喋りで元気な元骨董商の親父である。
「それだけの情報で?」
「はい。狭い町だから古民家を目指していけば、辿り着けるかな、と思って。そしたら洗濯物を干している塞河江さんを見つけたので、ラッキーでした。すみません、休日なのに押し掛けてきてしまって・・」
「役所に来てくれればよかったのに」
「あれだけの騒ぎを起こして、役所へ行く勇気がありませんでした」
「それもそうですね。まあ、とりあえず上がってください。何もない所だけど」
「それでは失礼して」
そう言うと、澤木はきちんと靴を揃えた。
台所でお茶の用意をし、リビングとして使っている和室にいくと、座卓にバッグから取り出された木箱が置いてあった。その向かいに澤木が正座している。
「青井戸茶碗、八雲をお持ちしました。度々のご無礼、申し訳ありませんでした」
「よく決心されましたね」
「塞河江さんは、何故乗り込んで来なかったのです? 僕が言うのも何ですが、少し不思議でした」
澤木の言うとおり、破蔵事件が発覚したあの日から一週間が経つが、まだ一度も澤木家を訪れていなかった。警察に届けるべきだ、という意見も私の一存で少し待ってもらっていた。毎日きりきりと胃の痛むような心境で澤木が訪れるのを待っていたのだ。待つのは何よりも辛い。
「斎川家から逃げ出すように帰ったのは、私と先生の話を聞いていたから?」
澤木は恥ずかしそうに頷いた。
「心配になって後をつけました。すみません。垣根に隠れて盗み聞きしていたのです。熊野先生が事件の概要を看破されていたので、怖くなって逃げ出してしまいました」
私は座卓の前に腰をおろした。
「あなたの本当の目的は円空仏だったのね?」
「はい」蚊の鳴くような声だった。「資金繰りに困り果てた父が斎川家へ借金の申し出をするさいに、担保として持ち出したものでした。あの円空仏は、澤木家の家宝として神棚に祀られていたもので、親戚なんかは円空仏を斎川などにやったから罰が当たった。早死にしたのもそのせいだ、とかなんとか勝手なことを言って騒ぎだして収拾がつかない有様でした。澤木家のお宝はその殆どが父に売られて何にもない状態でしたから。あれは本当に浅ましかった。そんな時に塞河江さんから文化財保護指導員のお話があって、松田さんと少し仲良くなりました」
「その時、松田さんからセイフティバッグに保管された円空仏の話を聞いたのね。根も葉もない噂話を信じてしまった訳か・・」
「はい。何とかうちの家宝を取り戻したかったのです。悪い流れを断ち切りたかった。それに以前、蔵破りがあったのなら警備などがゆるいところなのかな、と思って、Gマップの航空写真で詳細に斎川家を見てみたのです。そしたら、屋根の一部に瓦が載っていないことに気づいたんです。これが有名な吝嗇家の蔵か、楽に侵入できそうだと思いました。斎川家は誠一氏が亡くなって一時的に空き家状態になっていると聞きまして、ちょっと様子を見に行ったんです。その時近くで農作業をしている人からこの辺では櫓と呼ばれていると聞いたのです。ある程度想定はしていたのですが、運がいいことに誰もいなくて、難なく敷地内に入ることが出来ました。周囲を散策していると、納屋の裏に三連縄梯子があるのを見つけました。誰もいないのをいいことに僕は屋根へ上ってみました。たとえ誰かに見つかっても、文化財保護指導員だと言うつもりでしたし、任命カードも持っていましたから、あまり緊張はしなかったですね。調査の一環ですと言ってやり過ごそうと思っていました」
「それで?」
「屋根に上がった時の方が緊張しましたね。予想以上に高かったですから。でも、勾配はなだらかだし、航空写真で見た通り、頭頂部は硬い布しか張っていないことが確認できました。野地板すら渡してなかったんです。これは聞きしに勝る吝嗇家だと思いましたよ」
「何故、その日のうちに入らなかったの?」
「道具がありませんでした」
「金切り鋏や特殊テープとか?」
「はい。近いうちに道具を集めて、夜中に忍び込もうと思っていました」
「だけどできなかった」
「はい。店のことや、父の債務整理などの金策に走り回っていて、月一回の指導員の集まりに出席するのが精一杯でした。最近では円空仏のことは殆ど忘れていました。それが、あの蔵開きの前日に、塞河江さんから連絡があって」
「これは急がないといけないと思ったんですね」
「そうです。焦りました。だけど、下見に行っていたお陰で予定通り、侵入できました」
「車はどうしたんです? 車で行ったんでしょ?」
「はい。近くの廃屋に停めておきました。さすがに斎川の敷地内に乗り入れることはしません。あの辺りは茶畑ばかりで人家もないですし、見つかることはありませんでした」
「警報システムが鳴ったらどうしたんです?」
「鳴っても、誰も気づきませんよ」
それもそうだ。周囲は茶畑しかない。私は目で先を促した。
「焦ったのは二階を探していた時です。突然、蔵の扉が開くものだから腰を抜かすほど驚きました。そしたら誰かが扉にかんぬきをして一目散に二階へ上がってきたのです。僕は階段のすぐ近くにあった和箪笥に身を顰め隠れていました。隠れるところはそこしかなかった。一応目出し帽を被っていたので、二階に上がってきた瞬間に突き落としてやろうと思っていました。すると、階段を上りきった和晃さんは、下の物音に反応して背中を向けたのです。そこを渾身の力で押しました。自分でやっておいておこがましいですが、死なないでほしいと思いました。人殺しにはなりたくなかった。だから、下から呻き声と罵声が聞こえた時は安心しました」
「それで侵入口をテープで塞いで脱出したのね」
「ええ」
「何で、テープで屋根を修繕したの?」
改めて本人の口からその事情を知りたかった。確かめたかった。
「僕はこれでも子供たちに社会科を教えていました。文化財がいかに貴重か心得ています。だから、鼠なんかの小動物や雨などが入り込めないように塞いだんです。人を突き落しておいて偉そうに言えないですが、そのことに憂慮しました。あの時はまさか人が来るとは思ってもみませんでしたから・・必死でした」
「そう・・、わかりました。それじゃあ、お茶碗を持って謝りに行きましょうか」
「どこへです?」
「鵜北町の斎川家です。日曜日も瑞希さんの陣頭指揮で目録作りをしている筈ですから」
6
愛車のパジェロ・ミニで曲がりくねった県道を軽快に飛ばす。ふと、横を見ると、澤木が顔を強張らせていた。トンネルが現れると、またすぐに違うトンネルが口を開けている。
「そういえば」私は恐怖で歪んだ澤木の顔をちらりと見る。「防炎バッグに入っていたのは実は円空仏じゃなくて、青井戸茶碗だったと分かった時、どう思いました?」
「正直、これは大変なことをしてしまったと思いました。あの時は盗み出したものの、畏れ多くてまだ袋から出してもいませんでしたからね。車の中にしまったままでした」
澤木は自嘲気味に口角を上げた。
「何だかすべて松田さんが悪いような気がしてきましたよ」
二人して小さく笑った。
「松田さんの怪情報が澤木君を動かした訳ですからね」
暫く間があった。
「やっぱり誰も悪くありませんよ」澤木が呟く。「悪いのは全部僕です」
新緑の木立が曇天に映える。樹影が現れては消えていく。道が二又に分かれる。私は左へハンドルを切った。
「先日、姪とジェンガをやったんですよ」
澤木が昔を懐かしむような口調で言う。
「ジェンガって、積み木のタワーを一本ずつ抜いていくゲームですよね」
そう言ってから、私は澤木が真相に辿り着いたと思った。
「和晃さんが半年間何をやっていたか分かりましたよ」澤木は独白するように言う。「大谷石を交互に規則的に積み上げた石蔵には当たり前だが、モルタルで施工した目地がありますね。彼は半年間その目地を石工用の蚤で丁寧に削っていたんですよ。劣化したモルタルは脆すぎて奥まで丁寧に削るには逆に時間が掛かります。尚且つ、大谷石は柔らかくて軽い石だから破損しないように削るには根気がいる作業でした。短い時間で怪しまれず作業するには半年を要したのでしょう」
私は大きく頷き、先を促した。彼の口は滑らかになる。
「目地をすべて取り除いても一見するだけでは気づかれない。元々が陰のようになっているから気づきにくいのです。後は、石を少しずつずらします。もしかしたら動かすのにグリスや油のようなものを使用したかもしれませんね。積石の大きは横幅三尺、縦一尺でしたから大体横九十センチ、縦三十五センチくらいでしょう?」
「そうですね。石蔵によって規格は違いますが、斎川家の石蔵は横幅一メートル、縦幅が三十七センチありました」
「なるほど、そうなると、さらに侵入口が広くなる。まず横に圧力を加えて徐々に内へ押し込むと、軽い大谷石はどんどん中へスライドしていきます。少しずつグリスを注入していけばもっと楽にできそうです。上の石を落とさないように上の目地の真ん中、石と石が交わるところを重力の支点にして、長方形の石材を時計の針のように回転させるような感じですね。半分くらい動かせば、それだけで五十センチ×三十七センチ四方の穴が出現する訳です。頭から仰向けにして入れば痩せている人ならば簡単に入ることができます。僕、三十センチ四方で試してみましたよ」澤木は照れ笑いを浮かべた。「脱出した後は、柔らかい針金などを石に軽く巻きつけて引っ張ったり、手で押したりして、それこそジェンガのように慎重に微調節します。大谷石は軽いのでこれもさほど苦ではないでしょう。最後に目地があった僅かな隙間から針金を抜き出せば、密室の完成です」
「ご明察です」
「ちょっと思ったんですがね・・、和晃さんって、すごく根気のある人だったんだ、と、逆に感心してしまって・・、真面目に働いていれば、いい職人さんになれたんじゃないかって思うんです」
私は小さく頷いた。澤木正嗣と斎川和晃。吝嗇家が管理した杜撰な蔵に翻弄された名家の倅たち。この二人は似た者同士だ。名家ゆえの孤独と過度な自意識。ただ自分のものを取り返したかっただけ。そんな強い観念が今回の騒動を引き起こした。私はそう感じる。
不意に頬がゆるんだ。やはり、考えが甘いのかもしれない。
木立を抜けると、新緑が目に眩しい茶畑が広がる。
ようこそ 鵜北茶の里へ
誇らしげな看板が見えてきた。
空は一面の曇天だった。だが、その遥か向こうに、青い空が少しだけ見えた。
ふと、助手席を見ると、すでに澤木の姿はなかった。
跡形もなく、煙のように消えている。役割を終えたということなのだろう。彼は、最近の友人である。私が主査という責任を負う立場に就任してから突如として現れたイマジナリー・フレンド、直訳すると空想の友人だ。澤木という名家は実在するが、澤木正嗣という人物は、私自身の中にいる架空の友人である。
若い頃から敬愛するシアトルのバンド、ニルバーナのカート・コベインにも「ボッタ」というイマジナリー・フレンドがいたらしい。余程、親密だったのか、彼が自殺した際に見つかった遺書は、その「ボッタ」に宛てたものだとも云われている。
空想の友人。
彼らはいつも都合のいいように振る舞ってくれる。なぜなら自分自身が生みだした友人だからだ。助言をくれる時もあれば、反面、自己嫌悪の権化になり私を苦しめる時もある。自問自答のツールというだけでもない厄介な存在でもあった。彼らは自由気ままに動き、抑制などきかない。それぞれに人格があり、知恵があり、喜怒哀楽がある。
この親愛なる厄介な友達が現れるようになったきっかけは、祖父の死からだ。祖父という自分にとって思想的にも大きな存在の穴埋めするように、突如私の前に現れた。最初に現れた空想の友人は、寿老人のような姿形だった為、必然的に「ジュロさん」と名付けた。その後、例のおぞましい新居が建つと家族との溝は深まり、疎外感や嫌悪感、孤独を癒してくれたのも空想の友人だった。この頃は、同学年で同性の「ミロクちゃん」が私の荒れ果てた心を埋めてくれた。
私には複数のイマジナリー・フレンドがいる。二年前に亡くなった熊野教授もその一人だ。彼はいつも私を正しい方向に導いてくれる。
「理想的な展開はもう終わったかね?」
澤木が座っていた助手席に熊野教授が、すっと現れた。
丸眼鏡の下の柔和な目を見つめると、不意に哀しくなった。
「こらこら、危ないですよ。しっかり前を見て運転しなきゃ」
「すみません、つい」
私は鈍色の空を睨み、ハンドルを握る手に力をこめた。
「しかし、あなたが懸念するのも仕方のないことです」
熊野教授の幻影が、にこりと笑う。
「尊敬していましたから・・」
私は項垂れるように頷いた。
蔵の内部を見て回った時に感じた違和感を思い出していた。とくに、目を引いたのは天井裏だった。屋根を補修したような痕跡と、杜撰な構造。さらに、青井戸茶碗「八雲」が無くなっていたという事実。脳内で最悪なことが構築され、そのことを丸ごと排除する為に私の中で理想の物語が始まった。一種の防衛反応みたいなものかもしれない。
「犯人は自分で破いた屋根をわざわざ補修までして、蔵の中にある文化財を守ろうとした」幻の熊野教授が呟く。「そして、二十年前に青井戸茶碗が盗まれかけたことを知っている」
「ええ。二十年前の事件は内内で処理されましたから。となると、今回のように崇高な理念を持ち合わせ、尚且つ、過去の事件を知っている人物は一人しかいません」
「当初は文化財である青井戸茶碗を和晃くんから守ろうという想いがあったのかもしれませんが、手元に置いていくうちに手放すのが惜しくなったのかな」
「名碗の魅力に取り込まれてしまったのかもしれませんし、返すタイミングを計りかねているだけかもしれないし・・」
私の苦しい言い訳に熊野教授は深く頷いてくれた。
犯人は一人しかいない。
舘岡市文化財保護課、木野原奈緒子課長。
今、私は彼女の家に向かっている。空想の友人たちを乗せて。
了
1
ある茶碗の理想的な探し方 長谷川野地 @0660
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