朝は常に新しい

 徹夜で挑んだ仕事も、終わればどこか昔のことのように感じる。

 一昼夜が過ぎて、翌日……ツララが出社すると、意外な現実が待っていた。

 どこか予想していたような、予感があったような気がする。けど、自分が正社員になるという意味が、そういうものだとは思わなかった。

 それでツララは、社内を駆け回ってナギリを探した。


「ハァ、ハァ、ふう……見つけましたよ、主任チーフ!」


 ナギリは別のフロアの喫煙室で、優雅に紫煙しえんをくゆらしていた。

 ツララはこの時、彼女が初めて愛煙家だと知ったのだった。

 普段は全くそんな素振りは見せなかった。社屋内は基本的に禁煙だし、煙草の残り香を感じるほどにナギリと距離を縮めたことはなかった。

 あの日の夜でさえ、彼女は完璧なデキる女として振る舞っていた。

 その素顔を見たからもう、今はなにも驚かない。


「おや、ツララ君。どうしたんだい? そんなに急いで」

「どうしたんだい、じゃないですよ」


 ツララを見ても、ナギリは眼鏡めがねの奥で目を細めるだけだった。

 今日はなんだか、いつにもまして凛々りりしい雰囲気に身を包んでいる。まるで、孤高という言葉の美しさで着飾ったみたいだ。

 余裕があって、なんだかツララの悔しさが無意味にささくれだつ。

 そう、ツララは今、猛烈に悔しかった。


「主任、俺に正社員になるチャンスがあるって……こういうことだったんですか?」

「はは、それは思い上がりというものだ。君には私の代わりは務まらないよ」


 それだけ言って、ナギリは取り出した携帯灰皿に煙草をほうむった。

 そして、真っ直ぐツララを見て言葉を選んでくる。

 冴え冴えとした美貌が、朝日を背にツララを見詰めていた。


「私は別に、飛ばされて去る訳じゃない。逆だよ、逆」

「……へ?」

「これでも自分のキャリアには自信があるし、今後も高みを目指すつもりだ。この異動は、そのためのステップアップだな」

「そ、そうだったんですか」


 ツララは先程、出社してすぐ佐藤サトウアイから知らされた。

 朝宮ナギリは本日を持って、本社より異動になるというのだ。全くの寝耳に水だったが、ツララには心当たりがある。

 先日、突然正社員にならないかと持ちかけられたのだ。

 その意味がどうしても、ナギリの異動に繋がっている気がしてならないのだ。

 だが、ナギリはすっぱりとそのことを否定する。


「一度は本社を去るが、いずれまた戻ってくる。高くぶためには一時期、深くかがみ込むこともあるだろう。自分でもいい挑戦だと思うしな」

「じゃあ、俺が正社員になるのは」

「君の能力と意欲が、非常に高いレベルにあるからだ。そのことを私は、上の連中に伝えただけのこと。事実は事実だが、自分では気付いていなかったかい?」


 呆気あっけにとられつつも、ツララはいまいち得心がいかなかった。

 その意を組んでか、しょうがないやつだと言わんばかりにナギリが溜息を零す。そして、優しげな苦笑でツララの前に歩み寄った。


「言っただろう? 君は私の代わりじゃないし、代わりなどできない。人は皆、誰かの代わりを求められていい存在ではないんだ。ただ」

「ただ?」

「君にしかできないことがあるから、それを頼みたい」


 ナギリが語ったのは、この会社での契約社員たちの待遇についてだった。

 正社員と違って、必要な時に動員され、繁忙期はんぼうきが終われば一斉に整理される。そうして在庫のように調整される労働力、それが契約社員である。

 そんなツララたちに、ナギリが常々便宜をはかってきたのを知っている。

 彼女は義務ではなく誠意で、一緒に働く人間として接してくれたのだ。

 その感謝を率直に伝えたら、照れ臭そうに彼女は笑った。

 一瞬だけ、ナギリが幼くあどけない雰囲気を見せた瞬間だった。


「勘違いするな、ツララ君。私が好きでやっていることだし、人間を人間として扱うことは社の利益にもなる。当たり前のことの方が、何事も効率がいいのさ」

「でも、やっぱり俺たちは主任に感謝してますよ。いや、本当に」

「それは嬉しいな。だったら、君も君ができる範囲でよろしくやってくれたまえよ」

「は、はいっ!」

「私は、自分が再び本社に戻ってきた時……君がそれなりに出世してくれていたら嬉しいし、その時は契約社員たちの格差も軽減されててほしいと思う。が、これは私の勝手な願望だ」


 それだけ言うと、ポンとツララの肩を叩いてナギリは歩き出す。

 すれ違いざまに、彼女は小さくつぶやいた。


「バトンタッチだ、ツララ君。君にはずっと、これからも期待させてもらうよ」


 そうしてナギリは去っていった。

 ツララは直ぐに振り返ったが、彼女が振り返ることはない。

 そうしてエレベーターのある廊下へと消えてゆくナギリに、黙ってツララは頭を下げるのだった。

 そして、ツララは正式に正社員になった。

 人事部にすぐに呼び出されて、契約の解除と同時に新たな雇用形態を説明される。当然ながら、保険や年金などの手続きが必要で、その書類も沢山渡された。

 なんだか、映画のワンシーンを演じてるような気分の連続だ。

 一抹いちまつの寂しさが込み上げてくるが、希望の船出でもある。

 ツララは引き続き、今の部署で新たな主任と共に業務を続けることになった。

 だが、自分のデスクに戻ると意外なクライマックスが待っていた。


「ウス、ツララ先輩。呼び出し、なんでした?」

「いや、俺は……正社員に、なるんだけど、さ。クロウ、お前どうした?」

「や、俺は今日でここめるんで」


 革ジャンにジーンズ姿のクロウが、相変わらず眠そうな目をしていた。

 だが、その奥には強い瞳の輝きがある。

 いつもの見慣れた姿だが、今日だけは内から湧き上がるような気迫に満ちていた。

 クロウは周囲を見渡し、珍しく大きな声を出した。


「えっと、すんません! 少し、いいすか……今までお世話になりました。俺、今日でここ辞めることになりました。金の目処めど、ついたんで」


 皆が仕事の手を止めた。

 中にはアイのように、立ち上がって駆け寄る者たちもいた。


「俺、バンドやってるんすけど、そっちと別に金を作る必要があって。サラリーマンなんて柄じゃないんすけど、皆さんのおかげでどうにかやれた気がします。ありがとうございました」


 そう言ってクロウが、深々と頭を下げる。

 顔を上げた時には、晴れ晴れとした微笑みがあった。

 ツララはなんとなく、旅立ちの別れだなと感じた。

 一羽の鳥が翼を休めて、力をたくわえていたんだ。そして今、ようやく再び空へと帰る日が来た……それだけなんだと思った。

 でも、ただそれだけだと言うには、ツララはクロウに親しみを感じ過ぎていた。頼られるのも嫌じゃなかったし、殺伐とした契約社員同士の付き合いも、クロウにだけはそれ以上の親近感を感じてもいた。

 そして、彼が去るこの場所はもう、労働力と賃金だけが繋がってる仕事場ではない。


「そっか、クロウ。元気でな。たまには連絡しろよ?」

「ウス。皆さんも、本当にお世話になりました!」


 他の者たちとも言葉を交わし、惜しまれながらクロウが去ってゆく。

 ナギリと違って、彼はもう二度とここには戻ってこないだろう。

 だが、彼のように誰もが巣立てるように、ツララは自分の居場所を広げて維持する意味を噛み締めていた。それが多分、正社員になる自分の一番の仕事なのかもしれない。

 そんなことを思っていると、手を振り出ていこうとしたクロウが戻ってきた。

 彼は思い出したかのように、ツララの前でかばんに手を突っ込む。


「先輩、これ。正社員祝い? みたいな? じゃ、連絡待ってるっす」

「お、おう。サンキュな、クロウ」

「へへ、そんじゃこのへんで」


 クロウが渡してきたのは、缶コーヒーだ。

 二本でセットになってて、ミニカーのオマケがついてくるやつだ。

 最後の最後で、きっちり彼はいつもの借りを返して去っていった。

 立つ鳥跡を濁さず、とはよく言ったものだ。

 貸しを作りたくて毎日おごっていた訳ではないが、ツララは嬉しかった。

 そして、今日の仕事を始める。


「……よし! じゃあ、みんな。俺たちの商売を始めようぜ。俺が正社員だとか、みんなはまだ契約社員とか、仕事自体には関係ない。まず、やることきっちりやってこう」


 めいめいに返事を返してくれる皆は、もう仲間だ。

 同じ仕事に携わる連帯感が、ようやく生まれつつあって、確かに感じられる。

 ツララはとりあえず、冷蔵庫に缶コーヒーの片方をしまってからデスクに向かった。そして、ノートパソコンを立ち上げつつミニカーの中身を確認する。

 できすぎな話に、思わず妙な笑みが零れた。


「はは、そういうことってあるもんかなあ」


 出てきたのは、パッケージに描かれてない純白のスポーツカーだった。

 多分、本物はツララの年収を全部突っ込んでも買えないだろう。

 シークレットアイテムは、チャンピオンシップホワイトのホンダNSX……貴婦人のような風格を持った一台だった。

 この幸運は些細ささいなことだが、今朝から驚きの連続だっただけにドラマチックである。

 そしてふと、思い出す。

 あの純白の魔法少女について、なにかコトナは情報を掴んだだろうか。

 それを今夜の食卓で話すためにも、まずは自分の仕事をこなすのが大事だ。


「んじゃま、やりますか。まずはこの間の修羅場の事後処理ですよ、っと」


 こうしてツララの新しい一日が始まる。

 そしてそれが、波乱に満ちた激動の一日になるとは……この時はまだ、思いもしないのだった。

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