第26話 冬月真子の無痛魔法
がんばろうと言ったけれど、それはあくまでも下級生に対する励ましのことばだ。僕と筆子のこれからは受験勉強がメインとなる。僕自身勉強するし、筆子にも勉強をさせるつもりだった。
僕は彼女の両親とはかなり親しくなって、いつでも彼女の部屋に出入りできるようになっていた。僕たちはもう毎日部室に通うことはなく、放課後はなるべく真っ直ぐ筆子のマンションへ行った。僕はそこで筆子に勉強を教えながら、自分のための学習もした。
彼女は飲み込みが早く、すぐにいろんなことを吸収していった。この調子で勉強を続ければ、どこかの高校には入れるだろう。
しかし目を離すとすぐに漫画を描き始める。僕は監視をゆるめられなかった。「描いちゃだめ」とか「漫画は一日一時間まで」とかいろいろ注意しなければならなかった。
たまにお母さんの真子さんに会った。
「あらあら、また筆子の勉強を見てくれているの? ありがとう」と言って彼女は僕の手を握った。無痛魔法をかけてもらって、僕は気を失うほど気持ちよくなることがあった。受験勉強で睡眠不足が著しいときなど、身体中の疲れが一瞬で消えて、恍惚としてしまう。
「無痛魔法、筆子にはしてあげないんですか?」
「くせになるといけないからね。娘にはよほどのことがない限りしないわ」
「僕にはわりとよくしてくれますよね」
「筆子と結婚してくれたら、毎日してあげるわよ」
「え……?」どう反応していいのかわからなくて、僕は絶句した。
「ふふっ。冗談よ」真子さんは微笑んだ。からかわれている。
「それにしても無痛魔法、すごいですね」
「弱点がひとつあるの」
「弱点。なんですか?」
「自分には使えないの。私自身の痛みは消すことができないのよ。だから私は一度も無痛を体験したことがないの。残念なことにね」
「それは、本当に残念ですね。どうして自分にはかけられないんでしょう?」
「わからないわ。魔法のことはわからないことだらけ。なぜ魔法が生じたのかすら、現代科学では解明されていないのよ」
「そうですね」
「でももし私自身に無痛魔法が使えたら、私は痛みも死も怖くなくなってしまうでしょうね。それって、生物としてはまずいことなんじゃないかって気はするわ」
「怪我しようと病気になろうと、苦しくないんですものね」
「そうよ。そして今よりもっと仕事に邁進することになるでしょうね。家庭なんて持たずに世界中を飛び回って、今頃すり減って死んでいたかもしれない」
「それもすごい人生ですね」
「あるいはずっと無痛の世界に浸って、現実世界とかかわろうとしなかったかも」
「真子さんの性格ではそれはないと思います」
「そうね。うふふっ」
お父さんの冬至さんと出会うこともある。
冬至さんはいつも疲れて眠そうにしていて、家に帰ってきたら僕ばかりか娘と話もせず、寝室へ直行することが多い。
僕と筆子は勉強をし、たまに絵を描いた。筆子は漫画「100メートルランナー」を描き、僕はイラスト「深海魚シリーズ」を描いた。
「100メートルランナー」は中学生短距離選手ふたりの競走を描いた超短編漫画だった。ふたりは全国のトップを競い合う仲で、舞台は中学時代最後の大会。
ほとんどセリフはない。モノローグだけで場面が説明されている。なびく髪、光る風、飛ぶ汗、躍動する筋肉、ゴールを見る目、振り抜く腕、鍛え上げられた脚、そういったものの描写だけで成り立つ漫画だった。
かっこいい漫画だ、と僕は思った。スタイリッシュだ。
筆子に負けてはいられない。
僕は深海魚の研究をした。描いておもしろそうな魚はたくさんいた。
頭部が透明で、内臓が透けて見えるデメニギス。
頭部に恐ろしく長い突起があり、宇宙怪獣じみているミツクリザメ。
自分の数倍の大きさの獲物を収納できる巨大な胃を持つオニボウズギス。
世界でもっとも醜い動物とも言われるぶよぶよの身体をしたブロブフィッシュ。
古代魚の生き残りのようなラブカ。
深海魚は不気味で美しい。奇妙奇天烈な魅力を持った怪生物だ。僕はたくさんの深海魚たちが泳ぎ回る海底を描いていった。実際の深海でこんなに魚が群れていることはないと思う。でも僕が描くのはイラストで、学術画ではないんだからいいじゃないかと開き直って描いた。
「ちょっとグロいね」と筆子は言った。
「かなりグロいよ、深海魚」と僕は答えた。
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