第10話 清澄庭園でスケッチ

 帰宅したとき、リビングで姉が犬とたわむれていた。家で飼っている雌のウェルシュ・コーギーで、リコという名だった。食いしん坊で、よく吠えて、僕には全然なついてくれないが、姉にはべったべただった。

「遅かったわね」と姉が言った。

「友だちの家に遊びに行ってた」

「そうなの」

「絵を描くのが好きな友だちなんだ。漫画家になりたいって言ってた」

「ふーん」

「姉さんは犬友魔法を活かした職業に就くつもりなの?」

「そんなの、まだ決めてないよ」

「そっか」

「それに、犬の気持ちがわかって、犬関係の仕事に就くって、けっこうきついと思ってるんだ。ペットホテルでは、みんな檻に入れられて悲しんでるし、飼い主に捨てられたんじゃないかと怯えてる。動物病院では何をされるのかわからなくて怖がってる。私は犬の気持ちはわかるけど、犬と話せるわけじゃないから、大丈夫だと説明してあげて、悲しみや怯えを取り除くことはできないのよ」

「そっか。むずかしいもんだね」

「私の魔法は中途半端なのよ。虹の方がよほど即戦力的な魔法よ」

「そうなのかな……?」

 そう言われても、僕は少しも嬉しくなかった。絵が好きになればこの悩みも解消されるのかもしれないが、今のところそうではない。

 でも筆子を見て、このままではいけないと思った。

 僕は変わらないといけない。

   ◇

 五月半ばの日曜日、僕と筆子は近所にある清澄庭園にスケッチに行った。なぜかりりかもついて来た。聞きつけて、一緒に行くと言い出したのだ。

「スケッチしに行くんだよ? りりかは絵は描かないでしょ?」

「清澄庭園きれいだもん。行ったっていいでしょ」

 確かに清澄庭園は美しい日本庭園だ。江戸の豪商紀伊國屋文左衛門の屋敷跡で、明治になって三菱財閥の創業者岩崎弥太郎が買い取って整備したという由緒ある歴史もある。庭園の中には広い池があり、錦鯉が泳いでいる。大きなすっぽんもいる。入園料は百五十円と安い。

 僕は二度目の訪問だったが、筆子は初めてのようで、きょろきょろしていた。やがて気に入った場所を見つけたらしく、彼女はスケッチを始めた。いつものノートではなく、真新しいスケッチブックを持っていた。

「新品だね」と声をかけると、「今日のために買った……」と筆子は答えた。

 僕は水彩画を描くつもりで、そのための道具を持って来ていた。パレットに青と緑、白、黄色、茶色の絵具を出して、筆を使って淡い色合いの風景画を描いていった。

 真剣に絵に取り組もう、と僕は決めていた。

 りりかが僕の顔と絵をちらちらと見ていた。

「虹、なんか表情がよくなった」

「なんかって?」

「うん。そうだね……目とか」

「目って……別に変わらないよ」

「ううん、変わった。前は目が死んでた」

「ひどい言われようだな。そこまでひどくなかったと思うけど」

「うーん、言いすぎたかな。そこまでひどくはなかったかも」

 僕とりりかが話している間も、筆子は絵と格闘していた。風景画はやはりあまり得意ではないようだ。前よりはいいが、上手とまでは言えない。

「春日井くん、い、色塗ってるんだね……。いいね……」

 筆子は鉛筆スケッチだった。

「わたしもきれいに色が塗れるようになりたいなぁ。練習しよう……」

 筆子のやる気があれば大丈夫だ、と僕は思った。僕らには大人になるまでまだまだ時間がある。

 思い出に残る気持ちのいい日だった。僕は水彩画を仕上げ、筆子は鉛筆スケッチを完成させた。りりかは途中から昼寝していた。

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