その日、午後三時二十五分。駅にて。

鶏パーカー

第1話

 晴れた休日の昼下がり、僕は都心のそこそこ大きな駅にいた。

 駅近くの大型書店で買い物を済ませた後、とくにやることもなく、かといってすぐに帰る気にもならず、ぼんやりと歩いていた。


 一日を何もせずに終えるのは、どうも居心地が悪い。「今日も何もしなかったな」と思いながら床につくとき、ちょっとした罪悪感を覚える。何も悪いことはしていないのに。いや、何もしていないことが悪いことなのだ。そんな気持ちから、今日は書店に出向いた。


 本には、それを書いた人の人生が詰まっている。文字の連なりを通して、見ず知らずの誰かの日々の連なりが透かし見える。書店には、そんな『どこかの誰か』の人生が大量に陳列されている。どこかの誰かの人生を摂取することで、僕の人生もすこしは良い方向に向かうのではないか。そうでなくとも、少なくとも読書をしている間は、どんな現実からも目を背けることができる。なにものでもない自分でも、なにかになった気分になれる。本には、目に見える厚み以上の魔力が宿っている。


 曖昧模糊な目的意識で出かけたものだから、すぐに手持ち無沙汰になってしまった。どうしよう、そう思いながら駅構内を歩く。

 休日の駅は、かなりの賑わいだった。平日でも賑わっているから、毎日賑わっているということにはなる。しかし、賑わいの構成要素、中身、雰囲気が違う。今日はみな表情が晴れやかで、時間に追われたサラリーマンの姿はまばらだ。いつもと真逆。この空気感の違いを色で表すなら、平日が灰色で休日がオレンジ。空気感ではなくて、そこらを歩いている人の服の色の違いかも。

 ふと、自分の視線が何かを探すように動いていることに気づく。ああ、また探してる。無意味なことなのに。無意味だと思う意識とは裏腹に、視線は止まらない。

 そういえばあのときも、この駅にいた――


 休日の賑わった駅。人通りを避けて、改札横のこじんまりとした空間に僕は立っていた。

 目の前には、当時付き合っていた彼女がいる。

「……別れてほしいんだ」

 そう告げたとき、彼女は泣きそうな顔で笑っていた。バニラのような、甘い香りがした。

「そっか」

 その一言だけを絞り出すように言った彼女の顔は、少しつついたら決壊しそうだった。

 彼女がどんな気持ちで、何を求めていたのか。僕には手にとるようにわかった。いや、おそらく誰にだってわかっただろう。それくらいあからさまな表情だった。

 それに対峙する僕の心は冷え切っていた。そういう表情はずるいと思った。泣いてすがるわけではなく、笑顔で本心を隠し通すわけでもない、中途半端なその表情。そんな表情をされたら、誰だって何をすべきなのか悟る。そして、それを無視することに罪悪感を覚える。自分から求めるのではなく、相手に悟らせて行動を促す。いやらしいやり方だと思った。

「いままで我慢させてたんだね」彼女は言った。

 そのとおりだと思った。

 僕はいままで、彼女のこのずるいやり方に散々振り回されてきた。僕の人生を彼女のために消費していく、そんな感覚だった。僕にはやりたいことがたくさんあるのに、この人と一緒にいる限り、自分の人生を生きることができない。そう思ったからこそ、別れを告げるにいたったのだ。

「じゃあ、元気で……」

 そう言って、僕は逃げるようにその場を去った。後ろから突き刺さる彼女の視線は無視した。今振り返ったら彼女の思うつぼだ。彼女の支配から逃れなければならない。


 あれから二年。

 それ以降、彼女とは会ってない。

 彼女はいまどこで、何をしているのだろう。

 なんとなく、まだこの街にいるような気がした。彼女のことは、目に見えなくてもわかる……別れてもまだ、彼氏面をしてる自分に苦笑した。


「あっ」


 不意にうしろで声がする。この声は、まさか……。

「あ、やっぱり。久しぶりだね」

 驚いた。今まさに思い浮かべていた人物が、思い出と同じ顔で、思い出とは違う服を着てそこに立っていた。二年前は耳よりも少し下のあたりで切りそろえていた髪も、肩まで伸びている。バニラのような甘い香りはしなかった。

「ひ、久しぶり」

 なにかいけないことを見咎められたような、そんなバツの悪さをおぼえながらも、最低限の挨拶は返した。あまりにも突然で、その一言を発すだけでも必死だった。脳みそに、落ち着く余裕がない。

「髪、伸びたね」と、笑いながら彼女はそういった。


 その微笑みを見た僕の脳みそは、急速に冷えていった。

 知らない表情だった。

 正確には知っている表情だったが、真正面から見たことはなかった。僕に初めて向けられたその表情は、彼女が親しくない相手に向ける、よそ行きの微笑みだった。

「それじゃ、私、急いでるから。元気でね」

 そう言って振り返りもせずに去っていく彼女の背中を、無言で見つめるしかできなかった。僕と彼女の間には、何も残っていなかった。期待していた何かは起こらなかった。いつの間に、僕の手を離れてしまっていたのだろう。二年前の別れを、今、はじめて実感した。

「帰ろう……」

 家路についた僕の心は、現実を突きつけられてもなお、彼女が後ろから駆け寄ってくることを期待している。平坦な道を歩きながら、意識は空想の山を降りてこようとはしない。

 僕の心はいまも、現実にはいない誰かとの恋愛を続けている。

 この病はいったい、いつ治るのだろうか。

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その日、午後三時二十五分。駅にて。 鶏パーカー @yardbird

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