ココアの動脈

つかもと

第1話

「さちほちゃあん」


 靴を履きかけのまま、急いでドアを開けると、まひろが相変わらずの腑抜けた笑顔で手を振っている。 この力が抜けきった表情筋がまともに仕事するのは、まひろが大好きな陸上競技をしているときだけだ。 初めて大きな大会で長距離を走ると言うので、呼ばれて渋々応援に行ったとき、驚いた。手の掛かるかわいい弟としか思っていなかったはずのまひろが、 スタート位置について、スターターピストルが鳴るまでの間に、居なくなっていた。 見慣れた焦げ茶の瞳に、一瞬、チーターを思わせる黄みがかった光が走った気がした。 恒星のように燃える瞳と、真っ直ぐに走って行く流星痕のような後姿が、今も焼き付いている。 それからはもう、見に行っていない。


 まひろは興味がないことはとことん興味がないという困った性格で、特に学校の勉強なんかは最たるものだ。 とはいえ、勉強をしないと部活に出ることを禁止されてしまうので、時々教えを乞いにやって来る。 頼む立場の割にまひろは自分勝手で、振り回されてばかりだ。 突然メールで「今から行くから古文おしえて」と言われても、私にだって都合というものがあるんだけれど。 そしてメールの返信を考えている間に、インターホンが連続で三回鳴った。


 腑抜けた笑顔で手を振っているまひろは、プリントを数枚と、ペンケース代わりの細長い箱を持っている。 私がバレンタインデーの一週間前に百均で買ったギフトボックス。鞄くらい持って来たら、と言えば、手で持てるから、と言うだろう。 辞書と文法書も要るんじゃないの、と言えば、さちほちゃんに見せてもらう、と言うだろう。そういう奴だ。


「返事も待たずに来て。私が居なかったらどうするの」

「居るじゃん、さちほちゃん」

「……もういい」

「ほらほら。立ってないで上がろうよ。おじゃましまーす」


 開いた口が塞がらないままからからに乾いてしまいそうになる。まひろは我が物顔で二階に上っていって、ドアの前で立ち止まった。


「入っていい?」


 それは聞くのか。頷くと、また「おじゃましまーす」と言いながらまひろが私の部屋のドアを開けた。 私が階段を上らないのに気付いて、まひろがドアを開けたまま振り返ってきたので、 「ジュース取ってくる。先に行ってて」と声を掛ける。「はあい」と間延びした返事の後、ドアが閉められた。 まひろはいちいち私の所在を確認する。でも、私が居ないと駄目だというわけではないということに、私は何となく気付いている。

 オレンジジュースが入ったペットボトルと、コップを二つお盆に載せて階段を上がる。部屋のドアを開けると、ぼうっと空を見つめていたまひろが私に気付いて、嬉しそうに笑う。「来た」「来るよ、そりゃあ」まひろはプリントを黒のシャープペンシルでつついた。


「ねえ、かいまみってさ、覗きだよね」

「今で言うと、そうなんじゃない」

「何で、そこから恋が始まるの?」

「当時は犯罪じゃなかったから?」

「実は、ヘンタイだったんじゃないの」

「まひろ」

「なあに?」

「プリント埋めるのを後回しにしようとしてるでしょ。やらないと終わらないよ」

「ばれちゃってる、アハハ」


 全く悪びれることもなく、まひろは笑った。それからシャーペンでプリントに書き込みを始めたので、正面に座って覗き見ると、「おにばばさちほ」と書いてあった。 私はその丸文字を、半分にちぎれている消しゴムで乱暴に消して、まひろの頭にチョップをしておいた。まひろは笑いながら、わざとらしく怯えた振りをして、「さちほちゃんが怒った!」と騒いでいる。何がそんなに嬉しいのか。 文法書と辞書を本棚から取って来ようと立ち上がると、まひろがスカートの裾に手を伸ばしてきた。


「ここ、折れてるよ」

「本当?」

「あ、膝の裏、汗かいてる」

「うるさいなあ」


 次の瞬間、生温く濡れた感触がして、力が抜けた。その場に座り込んで膝の裏を見ると、まひろが赤々とした舌を出して顔を寄せていた。まひろは、スカートの裾の内側とも外側とも言えない辺りに二回、わざとらしく音を立ててキスをした。 女の子のような顔をして、悪戯っぽい上目づかいで私と目を合わせる。びっくりして声が出ないけれど、まひろの方が「かいまみ」する古文の中の人達より変態だと思う。


「しょっぱい」

「……何、言ってんの」

「さちほちゃんも舐めたら分かるよ」


 まひろは黒いパンツの裾を太ももが見えるくらいに捲り上げて、膝の裏を私に向けた。甘ったれた性格に不釣り合いの、厳つい筋肉がついている。体格はぱっと見細く見えるけれど、脚にはしっかりとした盛り上がりと、太ももまで伸びていく筋。まひろが走るためのもの。


「ほらほら」


 まひろが急かすので、顔を近付ける真似をして済ませようとしたけれど、顔を離すよりも速く、まひろが身をよじって脚を私の口に当てて来た。唇がまひろの大切な脚に触れる。まひろは猫にするように、私の髪と首の後ろを撫でた。


「ちょっとだけ気持ち良かった、かも?」

「まひろ、勉強」

「さちほちゃん大好き」

「いい加減にしないと……」

「さちほちゃんも俺のことがだあいすきなの、知ってるよ」


 両頬を強く引っ張ると、まひろはまた一段とへらへらした。


「自信ある」

「本当、何言ってんの……」

「俺は追い上げるのが好きだから」

「部活の話?」

「さちほちゃんはもう逃げられないところに居る。気付かせてみせる」


 まひろはいつか見た黄色の目をして、私を見た。口元は笑っている。引っ張っていた手を開いて、頬に添える。するとまひろは「ねえ、チューして」と言いながら、瞼を閉じて手に頬を擦り寄せて来た。 少し開いた薄い唇に触れないぎりぎりの辺りに、一瞬だけ口をつける。添えたままの手が、少し震えた。まひろは眠りから覚めたお姫様のように、睫毛を震わせてゆっくりと目を開けて、私の首に両腕を伸ばした。


「さちほちゃん」

「……勉強しようよ」

「じゃあー……和歌のやり取りについてね」


 私の目の端に映るまひろの腕は、女の子みたいに細くはない。


「女の人が最初に拒絶するのはさ」

「うん」

「燃えるから、でしょ?」

「知らないよ」

「意地っ張りさちほ」


 まひろは笑いながら、私を抱き締めた。赤ちゃんをあやすように、背中を優しく叩かれて、横に揺らされる。


「さっきね、鍵を拾ったよ。どこの鍵か探しに行こう」

「鍵?」

「そう。さちほちゃんそういうの好きでしょ」

「でも、誰かの落とし物なんじゃない?」

「ちゃっちい鍵でね、ずうっと置きっぱなしだった鍵だよ。大丈夫。どこの鍵か分かったら返そう」


 みしみしという音が聞こえてきて、コップの中の氷が割れたのだと分かる。私達と同じ部屋の中にあるのに、外の世界の喧騒のよう。 もう、オレンジジュースは薄まってしまっているだろうか。ペットボトルとコップの水滴がテーブルの上に水たまりを作っていても、 私達はまだ動かないでいる。文法書もプリントも、携帯も鍵も置き去りのままで。スターターピストルは、とうの昔に鳴っているのに。

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