(22)

 それは偶然が呼び込んだ出来事だった。


 その日、いつも最大限レンを守ってくれるアレックスはといえば、例によって抜き打ちの小テストで赤点を取り補習を言い渡された。調子がいいときは赤点を免れることもあるが、今回は調子が悪い日であったようだ。仕方なく、レンは広い廊下の大きな柱にもたれかかってアレックスを待っていた。


 けれども生理現象というものは空気を読まない。ひんやりとした空気が漂う廊下というロケーションもよくなかったのだろう。にわかに催してしまったレンは、その場を離れてトイレへ向かうことにした。


 意外にもフリートウッド校の女子トイレはきちんと男子トイレと同じ数だけある。この校舎は昔、まだ男女比が偏っていなかった時代からあるため、女子の数が極端に少なくなった今でも、同数だけトイレが存在しているとのことだった。


 そんな風なことを思い出しながら、することを済ませた帰り道、レンはイスの脚と床が思い切り擦れ合うたしかな音を聞いた。すぐそばにあった空き教室に耳をそばだててみれば、続いて衣擦れの音がした……ような気がした。なんだか揉み合っているような気配もある。


 レンは胸騒ぎを覚えて、空き教室にぐっと耳を近づけた。今度はにぶい音が二発した。とっさになにか固いものを――そう、たとえば顔面とかを、殴りつけた音だと思った。


 逡巡するよりも先にレンは空き教室の両開きの扉を開いていた。大昔に建てられたフリートウッド校の校舎のほとんどの教室は、スライドドアではなく両開きの大扉がついている。その片方をレンは勢いよく開けた。開けたあとで、「ここから先、どうしよう」と内心で冷や汗をかく。しかし、開けてしまったのだ。もう、なかったことにはできない。


 ひとの気配のない教室内にさっと視線を巡らせる。誤解だったら誤解でいいのだ。お得意の曖昧な笑みを浮かべて誤魔化して謝ればいいとレンは思った。そこまで考えて、男女が乳繰り合っている可能性もあるよなとまで思った。もしかしたら、男と男がそういう風にひと目を忍んでいちゃついている可能性もあるわけだ。


 レンはそんなこと考えながら重なり合うふたつの影を見つけた。ひとりの男子生徒が、もうひとりのひどく美しい容姿の男子生徒を組み敷いている。「マズイ、予想が当たっちゃったか?」……レンはそんな風に冷や汗をかきつつも、ふたりの男子生徒を観察する。


 上に乗っている男子生徒は言ってしまえば平凡だ。さしたる特徴と言えばそれなりに体に厚みがある、というところだろうか。上背はレンよりもないように見える。


 下に組み敷かれている男子生徒は、先述の通りの美貌だった。目を奪う金色のストレートヘアーが床に散らばっており、抜けるように白い肌には――青痣ができていた。


「アウト」


 気がつけばレンは険しい顔でそんなことを言い放っていた。よくよく観察すれば金髪の美しい男子生徒の衣服には乱れがある。この場でなにが起ころうとしていたのかは明白だ。その、おぞましさにレンの顔は珍しく剣呑なものへと変わる。


 けれどもしかし、「そういうプレイ」と言い張られてしまえばレンもまた手出しは出来ないわけで。いくら道徳的に問題があろうと、当人同士が納得づくの上での行為であれば、部外者であるレンにはなにも言えない。……けれどもどうやら、そういうわけでもないらしく。


「へっ、お前も混ざるか?」


 どうやら上に乗っている男子生徒はレンを男だと見なしたらしかった。レンはそのことに複雑な思いを抱く。たしかに、レンは男に見えるだろう。制服だってズボンを選択している。けれども女子寮の寮生であることを示す、グレーのネクタイをつけているにもかかわらず、男と勘違いされた。空き教室が多少薄暗かったからよく見えなかったのだ、とレンは思いたかった。


「悪いけどお断り。そんな下劣な真似は死んでもしたくない」

「じゃあとっととどっかへ行けよ」

「それは無理」


 レンが剣呑な目をしてそう言い切ると、空気が緊張にピンと張り詰めた気がした。馬乗りになっていた男子生徒はゆらりと立ち上がると、大股でレンの前まで近づいた。


「そうかい。それじゃ――その気になるまで殴ってやるよ!」


 振りからアクションまでが短かったことと、一発殴られれば正当防衛が成立するだろうという打算もあり、レンは男子生徒に思い切り頬から殴られた。身内にも他人にも、殴られたことなんてない。とは言え、多少護身の心得があったので勢いを殺すことはできたから、その一発で気絶する、ということはなかった。


 男子生徒にとってはそれが意外だったらしい。よほど腕に自信があったか、レンを見くびっていたか、その両方か。いずれにせよわずかに目を丸くして、膝を突くこともなく立ったままのレンを見る。


 レンはといえば、パッと見は涼しい顔をしているように見えただろう。けれども心臓はバクバク鳴っているし、内心はイヤなドキドキが止まらなかった。


 殴られた衝撃で頭の中はぐらぐらしていたし、口の中が切れて鉄の味が口内いっぱいに広がっている。最初は感じなかった頬への痛みも、じわじわと広がって行く。これは組み敷かれていた男子生徒のように、青痣になるだろうという予感があって、この場を無事に切り抜けられる自信もないのに、明日が憂鬱になる。


 レンはそんなちぐはぐな内心が妙におかしくなってきた。そして思わず口元に笑みを作り、「ふふふ」と怪しげな笑みを漏らしてしまう。それはどうやら相手には相当不気味に映ったらしく、明らかな隙が生まれた。レンはその隙を見逃さず、男子生徒の腕を掴むや脚払いをかけ、思い切り木で出来た床に向かって――投げた。


 しかしどうも相手もそれなりの経験者らしい。モロに投げが入ったわけではなく、受身を取られた。「これはマズイぞ」とレンの直感が言う。真正面からの殴り合いになれば、ヒョロいレンに勝ち目はない。護身の術だって、多少心得があるていど。隙だらけの相手を投げ飛ばせるくらいのお粗末な技術しかない。


 しかし――天はレンに味方した。


「――おいコラァッ! てめえレンになにしてんだあ!?」


 そんな声がしたと思えば、次の瞬間にはレンと対峙していた男子生徒が吹っ飛んだ。とっさに声がしたほうへと振り向けば、そこにはこれでもかと険しい顔をしたアレックスが立っていた。どうやら、男子生徒はアレックスの不意打ちによって吹っ飛び――打ち所が悪かったのか、アレックスの腕力が相当だったのか、見事に気絶したようだった。


 それを確認して、レンは全身から力を抜く。……というか、力を抜きすぎて腰まで抜けた。そんなレンを見てアレックスは大あわてだ。レンはと言えば、アレックスに感謝しつつも騒動の気配を感じてすでに憂鬱な気分になっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る