夜を往くもの
眞壁 暁大
第1話
パチパチパチ……
自転車と適当なパイプにボロ布を幌のように立てかけた即席のテントの中で、男はソロバンを弾く。
弾く指を止めた男は、ソロバンを傍らに置き、すでに耐用年数の切れて久しい、弱り切ったLED照明の下でこれまたぼろぼろのノートにちびた鉛筆で計算の答えを一つ二つ書き入れると、やがてテントを這い出した。
見上げれば満天の星。が広がっているはずの夜空。
靄がかかっていたが、それでも以前よりはマシだった。男が旅立った街の空はもっとくすんで靄ががかっていた。
使い古した星座早見板を頼りに、明るい星を探す。
かろうじて見つけることができたその星に方位磁石を掲げてじっと睨む男。
しばらく身じろぎもせず固まっていたが、やがて姿勢を解く。
そうしてもう一度ノートを取り出して何ごとか書きつけて、安堵の息をついた。
男が街を出たのはもう二週間前になる。
見送るものは誰も居なかった。
もとい、誰も居なくなったからこそ、男は旅立つ決心をしたのだ。
男の暮らす街はこの時代には珍しい「地上の街」だった。
主だったコミュニティがウィルスの猛威から逃れるために地中に逃れたなか、男の祖先、曾祖父母くらいの年代の人々は地上に残った。なぜ残ったのかは親にも聞けずじまいだったが、おそらくは経済的な理由に拠るのであろうと男は思っていた。
残った人々は地中の街――シリンダーと呼ばれる多重構造都市――では産することのできない各種資源・食料・エネルギーなどをこの街で生産し、それと引き換えに抗ウィルス薬やワクチンと交換するという形で生計を成り立たせていた。
地上に残った人たちだからと言って、ウィルスに対する耐性が完全に確立しているわけではない。ウィルス耐性は地中の街の人々と大差ないのが実態だった。
ゆえに、男の育った街では死因の第一位がウィルスによるものであったし、死亡率も地中の街よりも高かった。だからワクチンや抗ウィルス薬の需要は高く、うっすら足元を見られている感覚はあったものの、地中の街との取引を継続せざるを得ない状態だった。
地中の街の人にとってこの街で産する食糧やエネルギーが不可欠なのと同じくらい、この街には抗ウィルス薬とワクチンが不可欠なのだ(たとえそれが地中の街の基準で言えば数世代遅れた旧いものであったとしても)。
そうした関係が崩れたのは、数カ月前に地中の街からやってきた貨物車のオペレーターが一方的に取引の中止を宣告してからだった。
オペレーターの言い分によれば、街のウィルス濃度が地中の街の基準・許容度を超えたためだという。
無人貨物車とはいえ、街で長時間、高濃度のウィルス環境下に曝露するのは不適当であるとして取引の中止が決まったようだ。
もちろん街の住人はこの決定に強く抗議した。
しかし、自分たちの都合を一方的に言い捨てた地中の街の無人トラックは二度と来ることはなかったし、それを追うには自分たちの街には乗り物がなさ過ぎた。
高性能の無人トラックに追いすがれるような乗り物に至っては皆無と言ってよい。
そうして、地中の街との付き合いは唐突に終わった。
地中の街に供給するはずだった資源・食料・エネルギーが街中に出回り、一瞬だけ男の街は好景気に沸いた。
しかしそれも一瞬にすぎず、すぐにバタバタと人が死ぬようになる。
旧くなったとはいえ、それなりの効果があったワクチンの供給が経たれたことで、一気に状況が悪化した。
危機感を覚えた街の大人たちは街のあちこちに打ち捨てられていた廃車をかき集めてようやく動くトラックを数台こしらえて、シリンダーに交易再開の陳情に向かう。
そうして三度にわたって送り出された男たちは、ただの一人も還ってこなかった。
三度目の代表団を送り出して一年後、男の街は次の代表団を送らないことを決めた。
ウィルスの猛威は衰えるところを知らず、死亡率は高い水準で安定はしていたが皆殺しにまではしない水準であったから、罹ったらそれは不運とあきらめるという思考様式に切り替えた。
決めた当時は相応に合理性があった。
再開のめどの立たない交易の陳情を繰り返すのに時間と手間を費やす余裕がなくなっていたし、コミュニティの維持のためならば仕方のない決定だった。現在の死亡率は高いものの、人口再生産の維持が可能なギリギリの水準にとどまっていたのも大きい。
しかし、それはウィルスが彼らの知己のウィルスであればこそ通用する話。
突如変異したウィルスによって、男の街は瞬く間に罹患率と死亡率が急上昇する。
特に女性と乳幼児の死亡率が跳ね上がったのが致命的だった。
そうして最後に残ったのが男だった。
男はもう、その街にとどまる理由がなかった。
交易再開の陳情の代表団を送らないことを決めたことに男は不満があったが、今やその決定をした人間はどれもこれも死んでしまった。
文句を言ってもしょうがない。
男自身の考え方は単純明快。
シリンダーに向かう。後はついてから考える。
大人たちは
「車両自体がない、そもそも陳情に向かった代表たちが乗っていったまま、戻ってきていない。だからここに閉じ込められて過ごすしかない」
と言っていたが、男は着々と準備を進めていた。
そうして一人きりになった朝。
ひそかにコツコツ組み立てていた一人乗りのてづくりの自転車に水と食料を詰め込めるだけ詰め込んで、荒野に自転車を漕ぎだした。
荒れ果てた土地。荒廃しきった中に、かつて道だった場所がかろうじて見える。
高性能の無人トラックであれば難なく走破してきたであろう、そうしたアスファルトの残骸散らばる道路の成れの果ては、自転車で漕ぎ渡るには少々しんどい行程だった。
道なりに進めばシリンダーへたどり着くと思っていたが、道なりに進むことができない。
男は縮尺の大きすぎる地図を頼りに、星を見上げながら大雑把に現在位置を計算し、針路を変えるたびにソロバンを弾いて自分の移動距離を推定していく。
そうして旅程をノートに書き込みながら、本来の道なりに沿うように自身の針路を修正していく。
移動距離を測るのには万歩計だけが頼り。
自転車のホイールの回転数をカウントできるように簡単な改正を加えたものだ。
移動針路を図るのには方位磁石だけが頼り。
本来の道なりに進めば北北西になるはずのシリンダーを目指して、道から外れながらも針路だけは一貫させるように苦心した。
夜になればそうして大雑把に推算しながら進んできた距離と針路を、星を見て、ソロバンを弾いて修正していく。
街を出て二週間。
進路と地図とが正しければ、もう数日でシリンダーにたどり着けるはずだった。
食料も水もすでに底をついている。
男はすきっ腹を抱えたまま、テントに潜り込み眠りにつく。
翌朝。
朝、地平線の先に何か輝くものを見た男は、最後の力を振り絞ってペダルを踏みこんだ。
昼前になるとシリンダーが近いのか、路面が良くなり、さらにスピードが出せるようになった。
自分の計算が間違っていなかったことを確信してほっとする男の目の先には、聳え立つ尖塔があった。
男はまず、空腹から来る自分の錯覚を疑った。
シリンダーがあるはずの場所に、それが聳えているように見えたからだ。
スピードを緩めて近づくうちに、路肩にうずくまる焼け焦げた軽トラが目に入る。
忘れるはずもない、交易再開の陳情に向かうのを送り出した、最初の軽トラだった。
どうやら方向自体は間違っていないと確信した男は、そこで自転車を降りる。
軽トラが焼け落ちているのは、シリンダーの歩哨にやられたのだろう。
どこに歩哨がいるのかは見えないが、害意がないことを示すしかない。
男は背負っていたずだ袋まで解いて、両手を上に掲げて着のみ着のまま歩き出した。
しばらくして。
いくら歩いても歩哨の気配どころか、ヒトの気配すら感じられないのを怪訝に思った男が立ち止まる。
尖塔は最初見た時よりもずいぶん大きく見えるようになっていた。
根元の部分まではっきり見えるようになった。
刹那。
尖塔の根元に閃光が走った。
男の足元に、閃光から広がったかのような振動が伝わる。
かすかに空気もまた、揺れて男の頬をなぶる。
遅れるか遅れないか、ほぼ同時に轟音が男の耳朶を打つ。
尖塔は煙を巻き上げて空へ駆け上る最中。
男は両手をだらりと下げて、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
視線は一点、上昇を始めた尖塔――ロケット――を凝視する。
水平に近かった視線はじわじわと角度を上げ、やがて真上近くを見上げる格好になった。
ロケットが弧を描いて飛ぶのを追っているうち、男は仰向けに地べたに倒れこむ。
吐き出す煙が黙々と太さを増していく。閃光はやがて雲になった煙の先に見えなくなった。
音が止む。
光を失った男の目には、一筋の太い煙だけが映っていた。
夜を往くもの 眞壁 暁大 @afumai
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