わが世の春は俺だらけ

蒼瀬矢森(あおせやもり)

第1話 始まりはクライマックス

 人生最高の日はいつかと問われたら、今日と答えるはずだった。

 この日のために俺は生まれて、この日を一生忘れないと誓うはずだった。

 やり直したい。後悔のない人生を送ってきたつもりだった。後悔をした奴はやるべきことをしなかった奴だと思っていた。けど、違ったんだ。

 世の中にはどうしようもない後悔もある。

 人は体験して初めて後悔の本当の意味を知るんだ。

 俺はどうすればよかった。どうすれば、ああならなかった。始まりはいつだって唐突で、始まってしまったら止められない。俺はこの日を一生忘れないだろう。忘れたくても忘れられないだろうけど。




 夕焼けの神社の境内、可愛い彼女と二人きり。肌寒い風に肩を寄せ合ってベンチに腰掛けていた。何気ない世間話から始まり、言葉少なになり、やがて互いに口を閉じていた。会話がつまらないからではないことは言わずもがな。頬は紅潮、ムードは最高潮。

 やるなら今しかない。今やらないでいつやるのか。

 俺の熱い視線の意味を理解したのか、彼女は震えながらもその目を閉じた。

 高校のマドンナ、天川春乃≪あまかわはるの≫とファーストキス。

 人生最高の瞬間。俺は春乃の両肩を掴み、今まさに熱いベーゼを交わそうとしたその時だった。


 彼女の顔が俺の顔になっていた。


 何を言っているのか分からないと思うが俺にもわからない。

 まばたきを幾度も繰り返すが、その顔はやはり洗面所で向かい合う己の顔だった。

 夢か。夢なのか。夢じゃなきゃおかしいよな。夢だと思いたいのに両手に感じるぬくもりがこれが現実であることを突き付けてくる。

 

 どうしてこうなった。これまで誰かが俺に見えたことなどない。ましてや彼女が俺と同じに見える要素など微塵もない。容姿端麗、眉目秀麗、才色兼備。高い鼻筋、艶やかな唇が今や平たい顔にたらこだ。悪い冗談にも程がある。

 これまで付き合った経験のない俺の理性がキスというキャパオーバーな幸福を前にフィルターをかけたとでもいうのだろうか。なるほど確かに彼女は高嶺の花だ。俺なんかには不釣り合いだ。だからといって俺と同じ顔にするとはどういう了見だ!?

 自分のキス待ちの顔が見てられない。何だその顔は。干からびたフグでもそんな顔しないぞ。こんなに気色悪い顔をしていたとは思わなかった。一生キス待ちの顔だけはすまい。


「ん……」


 小さく声を上げ、春乃の体がピクリと動いた。

 まずい。時間経ち過ぎた。とはいえどうする。彼女が異常を感じた様子はない。俺にだけ起きている症状なのだろう。いや、そうであってくれ。かわいそうだ。その状況にある俺もかわいそうだ。誰か助けてくれ。


 どうする。打ち明けるべきだろうか。

 いや、駄目だ。相手の顔が俺の顔に見えましたって言われて信じるか? 俺なら信じない。気を悪くさせたらどうする。それで別れるなんてなったらどうしてくれる。まだAもBもCもしてない。Aが何でB が何かよくわかってはいないけど、何もないまま別れるなんて嫌だ。そういうことがしたい、お年頃だもの。


 しかし、どうしたものかな。

 このままキスできるか。無理だ。いや、無理でもやらなくては。彼女もファーストキスかもしれない。春乃は可愛いから付き合った経験があってもおかしくないけども。というか、いない方がおかしいよな。あれ? ファーストキスもしかして俺だけ? ……うん。知らなかったらファーストキスだよな。春乃もファーストキスだ。ファーストキスなことにする。


 顔を近づけてみる。クソ、自分の顔なのにいい香りする。脳がおかしくなりそうだ。こうなったら目を瞑る他にない。唇の位置を確認して目を閉じる。最初からこうすればよかった。視覚情報があるからダメなんだ。強くいつもの春乃をイメージする。

 唇が重なったとき、俺の脳裏に浮かんだのは自分の顔だった。畜生。

 永遠にも思える一瞬が過ぎた頃、彼女が離れた。その動きに会わせて肩から手を放す。そして恐る恐る目を開ける。


「そんなに唇すぼめなくてもいいんだよ」


 彼女の顔は元に戻っていなかった。だがはにかんだ笑顔を見て、どうやら悪い印象は持たれていなかったようだと胸を撫で下す。なんだか打ち明けるのが難しくなったような気がするけど、彼女の笑顔には変えられない。できれば彼女の顔で見たかった。


「なんか、緊張してさ」


 そう答えると「わたしも」と春乃が笑った。

 そうだ。緊張していた。実際、キスの仕方なんて知らない。漫画とかでキスするときに歯が当たって痛いだのなんだの見たのを思い出し、できるだけソフトにキスをした。そしたらつい唇をきゅっとしてしまったわけだよ。わかったかね。ははは。……決して、接触面積を最小限にしたかったわけではない。


「どうかしたの?」


 春乃が怪訝そうな顔をして訪ねてくる。付き合って一月も一緒にいるんだ。そりゃ動揺くらい見抜かれるか。


「い、いや? 何でもないよ」

「もしかしてエッチな気分になっちゃった? ちょっとなら、いいよ」

「あ”?」


 しまった。反射的に威圧してしまった。慌てて自分の口を塞ぐが、どう考えてもこの反応はおかしい。

 お前は馬鹿か。夢のような台詞じゃないか。ちょっとならいいよだぞ。向こうから誘ってくれてるんだぞ。乗らない理由がない。断るほうが失礼だ。据え膳くわぬは何とやらだ。

 でも考えてみて欲しい。自分に興奮した? いいよとか言われたらどうする。どう考えても煽っているようにしか思えない。俺ならぶん殴る。手が出なかっただけ御の字だ。だが、これは流石に春乃を傷つけたに違いない。


「ご、ごめんなさい」


 ほら見ろ。委縮してるじゃないか。

 ああ、もう終わりだ。こんなDV気質見せたら駄目だ。そんな捻じ曲がった独占欲は俺にはないのに、違うって言っても分かってもらえない。終わった。俺の春は終わった……。


「い、いやいやいや謝るのは俺の方だ。ごめん。俺が悪かった。こんなことするつもりじゃ……」

「ううん。嬉しかった」


 ……はい?


「だって、私が露骨に誘惑したから怒ってくれたんでしょ。それって私を大事にしてくれてるってことだよね」


 ごめんちょっと何言ってるかわかんない。どMというわけじゃないよな。

 つまり、えっと、なんだ。安易に体を許そうとしたことに怒ってるって解釈されたってことか。

 ……へー。こんなに可愛い子に誘われて、そんな風にできる奴がいるのか。すごいな。性欲パンダかよ。逆に羨ましくないな。

 童貞にそんな咄嗟な判断できるはずがない。顔が俺になっていなければ、これっていいんですか? いいんですよね? となっていたに違いない。冷静に考えたら違うことは分かるのに、目の前に人参がぶら下げられたら必死になって走る。それが本能という奴だ。

 全くもって予想外の反応だが、乗るしかない。このビックウェーブに。


「そ、うだよ。うん。でも怖がらせる必要はなかった」

「うん。だけど私も悪かったからお互い様だね」


 なんだ。俺の彼女は天使か?

 顔も内面もいいなんて非の打ちどころがなさすぎないか。

 対して俺はどうだ。自分のことばかりじゃないか。嫌われるかもしれないからって隠し事をして、嘘をついて。

 ……打ち明けよう。それで振られることになっても受け入れる。不細工ではないがイケメンでもない。そんな俺が彼女と対等になれるのは心だけだ。それだけは折れちゃいけない。

 決意を固め口を開こうとしたそのとき、春乃が耳元で囁いた。


「私は君だからいいっていうんだからね」


 ……やっぱり打ち明けるのは今度にしよう。













 


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