誰そ彼の駅を発つから

カオスマン

誰そ彼の駅を発つから

 気持ちのいいまどろみから目が覚めると、彼は電車の座席に腰を掛けていることを思い出した。S区の駅から、目的地へ向かうために乗ったのだ。

 はっきりしない頭で、老人の歯のようにまばらに空いた席を見回す。嚙み合わせが悪いだろうな、と思った。口蓋には涎のつり革が今にもこぼれそうに揺れていた。

 目的地は終点であったため、乗り過ごしている心配はないが、現在地を確認しようと、ぼんやり路面図を見ながら案内放送を待った。

「次は、たそがれ。たそがれ。お出口は右側です」

 なんだ、あと四駅か。彼は安心し、背もたれに体をゆったりと預けてほっと一息ついた。そうすると、向かい側の窓の外を眺める余裕ができた。そろそろ日が暮れるが、まだ明るい。太陽は遠くの山稜に沈むため、重力に引っ張られながら落ちていく途中だ。

 視点を下げると、都市部が一望できた。

 立ち並ぶビルの合間を縫って道路が張り巡らされている。多くの車が走り、真っ赤なテールランプが明滅している様は、まるで血管を流れる血液だった。

 こうしてみれば、人は意外と目立たない。さしずめ細胞程度だろうか。

 街の肉体を構成する細胞の、蠢いている細胞の、そのひとつが彼だった。

 やがて電車の速度が緩やかに下がっていった。都市が遮音壁に覆い隠される。たそがれ駅に到着した。

 数人が立ち上がり扉が開くのを待っていた。

 電車が、口の端から空気を吹く音と共に扉が開くと、彼らは降りていった。立ち代わりに小学生が三人、元気に飛び込んできた。

「扉が閉まります。ご注意ください」


 小学生たちは男の前の座席に腰を下ろした。

 今日あったことや、遊びの予定、流行っているテレビやマンガについて話しているようだ。お互いがお互い、彼らの顔しか見ていなかったので、周りのことなどお構いなしに、活発な笑い声を高らかに響かせていた。いつか見た絵画で楽園に天使が飛ぶものがあったが、それを描いた画家もこの相似形から着想を得たのだろう。

 周囲にいた大人たちは特に何も言わなかった。彼らも各々で退避しているからかもしれない。彼らは他者と楽園を共有しない。それができるのは幼いころだけだ。

 男は、楽しそうだな、と、内心で微笑みながら見ていた。

 小学生たちの奥を流れてゆく窓からの風景は、都市を離れ、閑散とした住宅街に移っていた。

 太陽も山に足を隠し、空が真っ赤に焼けていた。表面に生焼けの雲と、焦げたカラスが浮いていた。

 駐輪場には自転車が並べ立てられ、風がいくつか倒してしまっていた。公園には影法師の少年少女が遊んでいた。住宅には灯りが付けられはじめた。その反射で猫の目が緑に発光していた。

 窓枠だけ切り取ると、美しい写真になった。

 写真の中の小学生たちが色あせ、ぼやけてゆく。

 彼にもあのような友達がいたことを思い出した。……いま、どこにいるのだろう。 記憶の中では顔のない少年たちがあぜ道を走り回っていた。

「……ガ……次は、よいくち。よいくち。お出口は右側です」

 車掌の声が過去から現在へ焦点を無理やり合わせた。

 小学生たちが騒ぎ出した。聞く限り、どうやらここで二人降りて、一人だけ残るようだ。

 彼らは扉の前に立った。

「さようならみなさん。さようなら」

 二人の小学生がそう言うと、扉が開いた。

 三人は別れを惜しむように手を振りあっていた。

「扉が閉まります。ご注意ください」

 ホームに立つ二人が見えなくなるまで、電車内の小学生は手を振っていた。

「さようなら……」

 小学生はそれっきり黙り込んだ。窓の外をまばたきすらやめてずっと見ていた。

 

 男は小学生への興味を失い、再び窓の外を眺めはじめた。

 日は西山のはるか下に沈み眠りについた。月は夜に溺れて死んでしまっていた。それとも、今まさに生まれているのだろうか。

 田園を照らすのは電柱の照明と自動販売機のみだった。光源に体をぶつける蛾と、それを見上げる男がいた。他には枯れ木と、地平線を縁取る山があるらしかった。いずれも影絵のように黒かった。

 男は目を閉じ、自分も蛾になって灯りに向かって飛んでみた。羽が焦げ、千切れ飛び、腹から汁が漏れ出た。熱く、痛かった。地に落ちたところで、妄想を打ち切り、目を開いた。

 対面の座席には、影をそのままに、影絵から這い出してきた男が座っていた。彼からひとりぶん開けた場所には小学生が座っていた。小学生の顔は目と鼻と口がなくなっており、ゆで卵のむき身のようだった。

 彼らは男を見つめていた。男も彼らを見ていた。

 車内は静寂に満たされていた。三人のほかには、もう、誰も乗っていなかった。

 つり革がひとつ、音を立てて落ちた。

「影になにが隠されていると思う?」

「白紙になにが映し出されると思う?」

「なにも」

 つり革がまたひとつ、音を立てて落ちた。またひとつ、またひとつと。

 男はこれよりも多くの言葉を交わす必要がない気がしていた。

 それからはつり革の落ちる音だけが車両に響いた。

 カツン、カツンと一定のリズムで響いていった。

 すべてが落ち切ったころ、車掌の声がスピーカーを揺らした。

「……ガー……次は……ガガ……よは……よは…………左…………」

 ひどいノイズで、それは、壊れかけのラジオが立てる悲鳴にも似ていた。

 電車は徐々に速度を上げ、やがて跳ね馬のように暴れまわった。つり革は速度に耐え切れずほろほろと消滅してしまった。枯れ木や山の影がどんどん横に延びてゆき世界を真っ黒に塗り変えた。時間以外、速度を決めるものがなくなった。

 影男とのっぺらぼうは、すくと立ち上がると扉の前に立ち、その時を待った。

 おそらく暗闇に己を思い出しながら待っていた。

 空気もなくなっていたので、扉は音もたてずに開いた。

「さようなら」

「さようなら」

 二人は一歩踏み出した。

 

 第一宇宙速度をはるかに超え、地球圏内を脱してしまった電車は、それでもまだ速くなっていった。そのうち宇宙や次元からも抜け出し、どこまでも走っていくことだろう。レールのない電車はもはやどこにも向かっていなかった。

 時間が消える時間を男は待った。

 静止した星は長い線となり、それらを暗黒が大口を開けて飲み込んでいた。

 しばらく経つと星は全て胃の中へ納まってしまい、電車内の照明だけが世界のすべてになった。

「…………か……たれ……かわ……………………」

 車掌の声は消えかけていた。

 男は自分の手を見る。少しずつ透けていた。

 そろそろ目的地だな、と思った彼は、窓越しに自分の虚像を眺め、記憶の海を泳いだ。

 辛い記憶や楽しい記憶が魚のように遊泳していた。

 その中に一匹、透き通って、いっとう美しい魚が身を翻していた。

 男は傍に近寄るも、警戒の色はまったく見せず、悠々と身を晒していた。

 男はその魚に触ってみた。

 電車の照明が一瞬消え、すぐに付く。

 窓に、幼いころの男と、まだ若い母親と父親が写っていた。

 男の手には、生暖かく、柔らかい、死んだ魚が握られていた。

 照明がまた消える。付く。

 青年の男と遊ぶ、友人たちが写っていた。

 魚が手から滑り落ちると、電車の床に沈んでいった。

 照明が消える。付く。

 たくさんの人が泣いていた。

 消える。付く。

 そうか。男は気づいた。

 彼は口をゆっくりと開いた。

 微量の息に喉を震わせ、誰にも聞こえないように呟いた。

「……さようなら」

 照明が消えると、彼は闇に呑まれた。


 がたんごとん。電車は走る。外は荒野。砂埃が舞っていた。

 東の地平線がにわかに明るくなっていた。

 電車はその勢いを緩やかに落とし、荒野の真ん中で停車した。

「終点、たはかれ駅。お出口は左側です」

 夜明けの日はまだ上り切らず、すべてがまだ眠っていた。

 圧縮空気の吹き出す音と共に扉が開かれた。

 降りるものは誰もいなかった。


 しばらくして扉は閉まり、電車はその後、動くことはなかった。

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