第16話

 名。

 固有名詞。

 聞き慣れた音。

 耳馴染みがいいかは、人それぞれか。


 彼は名前という言葉を咀嚼するように口の中で何度も繰り返した。

「そうです。人には名前があります。ユキオというのが先程の男性の名前です。私にもラキっていう名前があるんです。今度からはラキって呼んでください」

 胸を張って言うラキ。

 村を出たいと言っていた彼女だが、村の全てが嫌だったわけではなかったようだ。

「わかった。だが、名前か。初めて知った」

「そうですね。そういえば私たち、今まで自己紹介してませんでしたね」

 ラキはそうして視線を宙で彷徨わせた。

 日はまだまだ登ろうとしている。

 鳥たちはさえずり、止めどなく動いている。彼らにも名前はあるのだろうか。ないのだとしたら、どう個体識別しているのだろうか。

 彼は一瞬考えてから、気づいた。

「私は名乗りました。さあ、あなたの名前は?」

 ラキに聞かれても答えられないことに。

 頭のどこにも答えがないことに。

「……答えられない」

「それは、秘密ってことですか?」

 彼は首を横に降った。

 彼には、この世界で初めて目を覚ました時より前の記憶がなかった。

 生まれも育ちも何も知らなかった。

 知らないことには名前も含まれていた。

「違う。自分の名前を知らない」

 名前はなくても困らないのではないか。

 今の状態を正当化する声が聞こえた。

 鳥たちだって大丈夫なら、人にできないことはないはずだ。

 だが、今実際答えられず困っている状況は変わらなかった。

 彼はただ俯くことしかできなかった。

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