04/11話 ジャイアントスイング

 さいわいにも、落下は免れた。通路の端と、コックピットの円周部とは、五センチほど離れており、通路の床は、十センチほど低くなっている。その段差を、Γ字型に曲げた両手で掴んだのだ。彼は、そこから、ぶら下がるような格好になった。

「ふう……」

 雀雄は、軽く安堵の息を吐いた。気を緩めてしまいそうになり、慌てて、両腕に力を込める。

「なんとかして、メダルを取らないと……」

 それから、コックピットの勾配は、徐々に、緩くなっていった。そして、数十秒後には、完全に水平になった。

「そろそろ、かな……」

 雀雄は、通路に戻ることにした。懸垂の要領で、体を引っ張り上げる。右腕を、床の上に置き、それの肘を、段差につっかえさせた。

 がこん、とコックピットが振動したせいで、つるり、と右腕が滑った。がくん、と、体が、重力に従い、下がっていく。なんとか、再度、右手で、通路の端にある段差を掴み、ぶら下がることにより、落下は免れた。

「何なんだよ……」

 雀雄は思わず、ぼやいた。もう一度、通路に戻ろうか、と考える。

 しかし、すぐに、その案を却下した。コックピットが、動いていたのだ。反時計回りに、ゆっくりと回り始めていた。

「回転が止まるのを、待ったほうがいいな……」

 雀雄は、その後も、通路の端に、ぶら下がり続けた。しかし、コックピットの動きは、収まらなかった。むしろ、どんどん、スピードが上がっていっていた。

「く……!」

 駄目だ。コックピットは、とうぶん、止まりそうにない。ならば、早いところ、通路に戻って、メダルを回収しよう。

 雀雄は、そう考えると、懸垂の要領で、胴を引っ張り上げようとした。しかし、時すでに遅かった。重力および遠心力が、体を、外向きに強く引っ張っているせいで、引っ張り上げられないのだ。段差に掴まり続けるだけで、精いっぱいだった。

 コックピットは、その後も、どんどん、スピードを上げていった。数十秒が経過した頃には、一秒弱で一回転するようになった。

 雀雄は、必死に、通路の端に掴まり続けていた。もはや、体は、とても強い遠心力のせいで、重力に逆らっており、床と平行になっていた。

「ぬおおおお……!」

 どうにかして、止めないと。そうだ、プレイヤーの戦闘機をゲームオーバーにすれば、ステージが終了し、コックピットは、動かないようになるのでは。雀雄は、そう考えると、ディスプレイに目を遣ろうとして、顔を上げた。

 シートの下に、何か、光る物が見えた。思わず、そちらに視線を向ける。

 それは、さきほど拾いに行こうとしていたメダルだった。手前側にある脚の根元の陰から、全体の三分の一強が、外へ、はみ出している。遠心力により、脚の側面に押さえつけられているおかげで、吹っ飛ばず、通路上に残っているようだ。

 しばらくすると、そのメダルが、姿を消した。一瞬後、鼻に、どごっ、という、強大な衝撃と、強烈な激痛を受けた。

 思わず、両手を、ぱっ、と開いてしまう。遠心力に従い、体が、吹っ飛び始めた。

 雀雄は、周囲の景色が通り過ぎていくのを、スローモーションのように眺めていた。鼻孔から、鮮血が噴き出しており、宙に、尾を引いていた。

 メダルが、床に向かって、ゆっくりと落ちていっているのが見えた。表面の端に、赤い液体が付いていた。

 おそらくは、さきほど、シートの脚の陰にあった物だろう。何かの拍子に、外へ出て、遠心力によって吹っ飛び、鼻に命中した、というわけだ。

 そこまで考えた次の瞬間、背中に、大きな衝撃を食らった。そのショックにより、辺りの景色のスローモーションが解除された。

 がしゃあん、という大きな音が、鼓膜を劈く。視界が、ぐるぐる、と回転する。手足が、どかどか、と、あちこちにぶつかる。膨大な量の感覚を受けているせいで、それらを処理しきれず、何がどうなっているのか、わからなかった。

 十秒くらいが経ったのか、あるいは半秒も経っていないのか、とにかく、しばらくして、体が止まった。まず、雀雄は、体の、肌が露出している部位に、柔らかい布のような物が触れていることに、気がついた。次いで、顔が、それと似たような物に押しつけられていることを、知った。そのせいで、瞼を開けているというのに、何も見えなくなっていた。嗅いだだけでリラックスしてしまうような、甘い香りが、鼻孔を擽っていた。

 その物体に、ずっと顔を押しつけていたい、というような欲望が、わずかに生じたが、即座に振り払った。ばっ、と頭を離す。

 雀雄は、インテグレーターの近く、西に三メートルほど離れたあたりに設置されているクレーンゲーム機の中にいた。どうやら、コックピットから吹っ飛ばされた後、ガラスケースを破壊して、突っ込んだらしい。

 彼の周囲には、景品である、縫い包みが、たくさんあった。いずれも、全体的に丸っこくて、大きかった。壁に、ぎゅうぎゅうに詰め込まれるようにして、並べられていたり、床に、隙間を開けることなく、転がされていたりしている。

 これらが、クッションのように、雀雄の体を受け止めてくれたに違いなかった。おかげで、彼は、大きな怪我は、負っていなかった。多少、ガラスケースの破片を浴びたことによる切り傷や、体をあちこちに強く打ちつけたことによる痣は、生じていたが、犯行計画に支障を来すほどではない。

「まったく、酷い目にあった……」景品陳列エリアの壁に、むぎゅむぎゅ、と詰め込まれている縫い包みたちを眺めながら、雀雄は、溜め息を吐こうとした。

 背後で、びきっ、という甲高い音が鳴った。次の瞬間、どがしゃあん、という大きな音が、左方で響いて、溜め息は引っ込んだ。数瞬後、ぼふ、ぼふ、ぼふっ、という、連続的な鈍い音も、同じほうから聞こえてきた。そちらに、視線を遣る。

 床に鮨詰めになっている縫い包みたちの上に、何かしらの機械の残骸が転がっていた。すぐに、それの正体が、クレーンゲーム機で使用されるキャッチャーである、とわかった。

 それの左横には、ビリヤードボール大のボルトが落ちていた。雀雄は、それに見覚えがあった。インテグレーターのメンテナンスをしていた皇二の足下に保管されていた、マシンの部品に、よく似ていた。

 雀雄は、ばっ、と顔および体を左に向けると、インテグレーターに視線を遣った。そのコックピットは、今もなお、高速回転していた。

 直後、びきっ、という甲高い音が鳴った。同時に、何かが、マシンから発射され、宙を吹っ飛んでいった。

 それは、一瞬後──雀雄が文字どおり瞬きを一回した後、どごおっ、という音を辺りに響かせて、天井にぶつかった。衝突した箇所が、隕石によるクレーターのごとく、窪んだ。

 その後、その物体は、床に落ちて、ぼとっ、という音を立てた。それは、ゲートボール大のナットだった。

 インテグレーターの機械部分に組み込まれていた部品に違いない。おそらくは、コックピットの高速回転による遠心力に耐えきれず、吹っ飛んでしまったのだろう。

「不味い……!」

 雀雄は、クレーンゲームの内部から出ようとした。早く、物陰に隠れなければ、インテグレーターから吹っ飛ばされた部品を、食らってしまうかもしれない。あんな金属塊が、あんな速度で体に当たったら、どうなることやら。

 最初、彼は、立ち上がろうとした。しかし、床が縫い包みで埋まっているおり、それを踏んづけるせいで、足下がぐらついた。こけないよう、体のバランスを保つのに、ひどく苦労した。

 こうなったら、四つん這いで移動したほうが速い。雀雄は、そう判断すると、その姿勢をとった。ガラスケースに開いている大穴めがけて、進んでいく。

 その間にも、インテグレーターからは、次々と、部品が吹っ飛んでいっていた。それらは、ボール的当てゲーム機に設置されているターゲットのど真ん中に命中して、それごと装置を破壊したり、美少女キャラクターのプライズフィギュアに命中して、頭部を粉砕したりしていた。

 数秒後、ようやく雀雄は、ガラスケースに開いている大穴の手前に到達した。四つん這いの姿勢から、蛙のごとく、前方へジャンプして、大穴をくぐる。

 彼は、床に、どたっ、と落下した。俯き、「いてて……」と、ぼやきながら、今度こそ、立ち上がろうとした。

 次の瞬間、ぼごおん、という、それまでBGMのごとく聞こえていた、どの音よりも、大きく、低く、鈍い音が、辺りに轟き、鼓膜を劈いた。両手で左右の耳を塞ぎながら、顔を上げる。

 コックピットそのものが、雀雄めがけて、宙を吹っ飛んできていた。高速回転のあまり、台座から、完全に外れてしまったに違いなかった。

「……!」

 悲鳴を上げる余裕すらなかった。ばっ、と左方へジャンプする。

 次の瞬間、背後から、どがしゃごがしゃぼがしゃ、という音が聞こえてきた。直後、雀雄は、床に、どたっ、と俯せに着地した。

 音は、数秒間、鳴り響き続けてから、ようやく、やんだ。彼は、立ち上がると、おそるおそる、後ろを振り返った。

 クレーンゲーム機が、消失していた。コックピットの体当たりを食らって、奥のほうへと吹っ飛んでいったのだ、ということは、大して時間をかけずして、わかった。

 クレーンゲーム機が元あった所へ行き、そこから、西方へと視線を遣った。雀雄より十数メートル離れた所に、コックピットが鎮座していた。それは、真っ逆さまにひっくり返っていた。

 コックピットは、床を滑ったらしく、絨毯が、広範囲にわたって破れていた。それの両脇では、皺くちゃにもなっている。まるで、極太の轍のようだ。

 その痕跡の左右では、たくさんのマシンが、めちゃくちゃな状態になっていた。リズムゲーム機が横転していたり、エアホッケー台がひっくり返っていたり、ゾンビシューティングゲーム機がばらばらになっていたりしていた。

「はあ……」雀雄は思わず、溜め息を吐いた。「……そうだ、メダル、回収しないと……」

 彼は、インテグレーターの台座がある所に戻った。さいわいにも、目当てのメダルは、床に落ちているのが、すぐに見つかった。表面に、微量な血液が付着していたため、鼻にぶつかったやつだ、とわかった。

 雀雄は、それを拾い上げた。踏み台の置かれている所に移動すると、布袋を手に取り、その中に入れた。

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