第3話 真っ赤なポロと白のワンピース


 アクセルをゆっくりと踏み込む。

 信号で止まっていた真っ赤なフォルクスワーゲン・ポロが、そろそろと動き始めた。


 コンパクトな車体は小回りがきいて、幅員に余裕を持って走れるのが、坂城が一番気に入っているポイントだ。ただ年季が相当入っていて、いつ不具合を起こしてもおかしくない状態というのが大きな難点だった。

 ハンドルを回して、対向車に気を付けながら交差点内を右折する。

 久々の運転だけあって、肩に力が入ってしまう。それに加えて、今日は深刻な睡眠不足だった。汗ばむ掌を、チノパンの太ももで拭う。


「ドライブだ、ドライブだ」


 助手席にすっぽりと収まった中嶋は、上機嫌そうに鼻歌を唄っていた。

 センターコンソールボックスの蓋を開けて、ごそごそとまさぐっている。その中には予備の箱マスクを置いていたはずだが、彼女は全く意に介さずに、次々と手持ちのお菓子を詰め込んでいた。


「懐かしいね、このかわいい車。まだ乗ってたんだ」

「母親の趣味なんだよ。もうかなりガタが来ているけどな」


 特にサスペンションが弱っていて、時々異音がすることは、彼女には黙っておくことにした。

 道路情報のアップデートが止まっているカーナビを操作して、目的地の江の島までのルートを確認する。


「昔もこうして、江の島までドライブしたよね」

「そうだっけか」


 坂城は、なんとなくうそぶいた。それを聞いた中嶋が、えーっと非難の声を上げる。


「大学生の時にみんなで海水浴に行ったじゃん。忘れたの?」


 もちろん覚えていた。あのひと夏の出来事は、全身を焦がすような暑さと痛みを伴って、心の中に燻り続けている。

 でもそれを彼女に知られるのは、ずっと過去を引きずっているようで女々しくて、つい隠してしまった。


「楽しかったよね、みっちゃんとマサくんも初々しくてさ」


 想い出話に花を咲かせる中嶋。

 坂城もハンドルを握りながら、当時の記憶を思い返していた。


 大学二年生の四月。

 坂城は高校からの友人で、大学のフットサルサークル仲間の瀬戸せと将嗣まさつぐと相談して、同じ前期ゼミを履修することにした。

 研究テーマには全く関心がなく、教員がゆるくて出席確認がない、研究発表も希望者のみという、ただ楽に単位を習得する目的で選んだ授業だった。

 なるべく二人で同じ授業を受けて、出席や課題は交代しながら持ちつ持たれつ、対等な関係でやっていこう。そう瀬戸と、悪友同盟を結んでいた。

 だが結論からいうと、その協定は守られることがなかった。理由の一つは、二人揃ってほぼ全日程の講義に出席することになったからだ。


 肩口の長さで揃えられた、モカブラウンのふわりとしたウェーブヘア。

 アーチ型で薄い眉と、黒目がちの大きな瞳に、ゆるやかに下がった目尻。


 前期ゼミの初回で、教員の授業説明を聞き流していた坂城は、斜め向かいの長テーブルで行儀正しく座るその女子学生に、ぼんやりと見入ってしまった。

 そのせいで、彼女以外のゼミ生の自己紹介は、全く頭に入らなかった。


 椎名しいな道子みちこと初めて会話をしたのは、前期ゼミの課程が半分終了した、五月中旬のことだった。

 教員が研究発表の希望者を募った時に、椎名が挙手しているのを目にした坂城は、つられるように手を挙げていた。

 そして偶然にも、男女の名字順で椎名とパートナーを組むことになり、その相談を彼女に持ちかけた。椎名も講義には毎回出席していたため、坂城のことはすでに知っている様子だった。


 研究発表の課題を口実に、積極的に話しかけて、大学の食堂や近場の居酒屋で一緒に食事をした。

 また男子の次の名字、瀬戸とも研究発表の範囲が被っていたため、図書室を使って三人で勉強をして、その後にダーツバーで遊んだこともあった。


 そして前期ゼミの最終日が終了し、三人揃って最高評価での単位修得が決定した。その祝賀会と称して坂城は、夏休みを利用して、江の島へのドライブを企画した。

 複数人とはいえ、椎名と遠出をするのは初めてだった。レンタカーを借りるということも考えたが、つい見栄を張って、母親の愛車を運転することにした。


 あの日のことは、はっきりと覚えている。

 抜けるような青空と、陽射しを反射する真っ赤なポロ。

 駅前ロータリーに現れた、白色のワンピース姿で日傘を携えた椎名。

 そう、助手席に乗ったのは椎名ではなくて――


「あの日も、私が隣だったね」


 坂城は、助手席に座る中嶋を見た。

 十年前と同じく化粧っ気のない顔。狐を彷彿とさせる、切れ長の釣り眼。鼻周りに散ったそばかす。唇から八重歯を覗かせて、フロントガラスの先を眺めている。


 友達を誘っていいかな。


 そう言って椎名が当日連れてきたのが、中嶋だった。椎名と中嶋は高校時代の旧友らしく、男性陣とは初対面だった。

 男女二人ずつの組み合わせになったドライブは、江島神社や江の島シーキャンドルといった、立ち寄る観光スポットは話し合っていたが、特に席順は決めていなかった。


「みっちゃんとマサくんは、仲良く後ろに座ってさ」


 ポロの後部座席には、椎名と瀬戸が並んでいた。

 バックミラーが映し出す二人はどこかよそよそしくて、そして帰路の車内では、シートの上でお互いの指先を重ねていた。


「前から相談されてたけど、実際に見ると照れくさかったねえ」


 そう、知らないのは自分だけだったのだろう。


 四人での遠出はその日以降一度もなく、大学のキャンパス内では、瀬戸と椎名のペアで見かけることが多くなった。

 初めは坂城も輪に加わっていたが、坂城が知らない二人の趣味の話や、旅行の想い出話を聞くたびに、息苦しさを覚えていた。愛想笑いを浮かべることも辛くなって、徐々に距離を置くようになった。


 大学三年生のカリキュラムでは、瀬戸と椎名は同じゼミを選択していた。

 坂城も誘われたが、椎名が専攻する学問が難解なこともあって、他の易しそうなゼミを一人で受講することにした。


 その翌年の五月には、瀬戸と椎名が同じ業界の別会社から内定を受けたという報告を、坂城は人づてに聞いていた。

 安定した社会のレールに乗った二人に比べて、未だにやりたい仕事すら見つけられない坂城は、どこか就職活動に身が入らず、ただただ楽な方へと流されて、気が付けばフリーターになっていた。

 オンラインゲームのハン・ハンⅢに没頭し始めたのもこの時期で、実家に居着きながらバイト先を転々とし、ただ消耗していくだけの日々を過ごしていた。


 そして二十六歳の春先。

 椎名の姓が瀬戸に変わった招待状が届いた時には、もう二人とは埋められないほどの差がついてしまったことを、坂城はまざまざと思い知らされたようだった。

 対等な関係でやっていこう。

 そう瀬戸と交わした悪友同盟は、もう到底叶わないように感じられた。


「危ない!」


 坂城は、はっとして急ブレーキを踏んだ。

 進行方向の道路脇から、サッカーボールが転がってきていた。男の子が追いかけようとして、父親らしき男性がその腕を掴んで引き止めている。

 中嶋は、ふうと息を吐いて胸を撫で下ろした。父親は急いでボールを回収すると、男の子の頭に手を添えて、二人並んで頭を下げた。

 坂城はその様子を見届けてから、慎重にポロを発進させる。


「いいお父さんでよかったね」


 暢気に言う中嶋をよそに、坂城は表情を強く引き締めた。

 ずいぶんと回想に耽っていたようだ。これ以上不注意がないよう、太ももを強く抓って自戒する。


「最近のマサくんもね、今のお父さんみたいだよ」


 中嶋はスマートフォンを取り出して、人差し指で操作を始めた。下から上へと、画面をスクロールする仕草をしている。


「フェイスブックに載ってたんだ、二人の赤ちゃんの写真」


 坂城は運転に集中したいこともあって、ああ、と素っ気なく返事をした。

 中嶋は探していた投稿が見つかったのか、あったあった、と控えめにはしゃいでいる。


『コロナ禍で子育てが大変だけど、会社に相談したらしばらく在宅勤務にしてもらえました。子供が新型コロナウィルスに感染したら、と心配だったからとても助かりました。職場の皆さんも親切で、平穏な日常に戻ったら早く恩返しがしたいです』


 椎名のフェイスブックを、抑揚豊かに読む中嶋。


「みっちゃんよかったねえ」


 坂城は、そうだな、と適当な相槌を打った。


「グループラインでも見たと思うけど、マサくんもフルリモートワークにしているんだって。お父さんとお母さんがお家で一緒に仕事するとか、子供にとって理想の環境だよね。さすが大手企業勤務、好待遇ですなあ」

「そっか」

「なにそのやる気のないコメント」


 坂城は椎名と瀬戸、中嶋との四人のグループラインに加入しているが、自分からコメントを書き込むことはほぼなかった。ただ既読を付けるだけの作業に留めている。


「ちゃんとコメントしろよなあ」

「嫌だよ面倒くさい」


 坂城は、ぶっきら棒にそう言った。

 中嶋に披露宴の場で押し切られて、無理にグループラインに引き込まれたが、今さらなにを書けというのだろうか。

 他の三人は近況報告をしているが、自分自身の有り様を伝えると、より惨めになってしまいそうで嫌だった。

 中嶋は、坂城の固い面持ちを一瞥すると、柔和な声になった。


「まあでも私も、このグループラインを見ていると、時々プレッシャー感じるんだよね」


 赤信号で停止すると、中嶋は運転席から覗けるように、スマートフォンを斜めに傾けた。

 ピンチアウト操作で拡大した写真には、椎名の幸せそうな笑顔と、純白のウェディングドレス姿が映っている。


「今年で三十歳だから、両親も早く結婚しろって五月蝿うるさくてね。私が中学と高校の時は、しょっちゅう夫婦喧嘩をしてたのにさ。母さんなんて毎晩のように、離婚してやるってヒステリックに騒いでいたんだよ。でもこういう時だけ、不思議と意見がぴったりでさ」

「うん」

「それで専門学校に入ってからは、あまり帰らないようにしてたんだ。家には私の居場所がないような気がしてね……それなのにお母さんは、早くいい家庭をつくって安心させて欲しい、あんたの同級生なんて子供も産んでるのにって。もうなんていうかさあー」

「両親が不仲で、しかも言い争った家庭で育つと結婚願望なくなるよな」

「それな!」


 中嶋は、パチンと指を鳴らした。


「アキも、家庭環境が似ているからわかると思うけど、親って自分勝手で調子がよくて、すごく厚かましいんだよね。私のことよりも世間体や見栄ばかり気にしてて、マジでウザい。これから介護をしていくことも考えたら、気が重いよ」

「ああ、面倒くさいよな」


 シグナルが赤から青に切り替わって、再びポロが走り出す。

 中嶋は驚いたように、目を丸くしていた。


「大変だね、じゃなくて面倒くさいよな、か」


 忍び笑いが漏れ聞こえる。


「アキのそういうところ、いいと思うよ」


 無造作にシフトレバーに載せていた左腕に、つんつんと肘で突かれたような感触がした。

 坂城はちらりと、横目で見返す。


 日焼けしていない、細くすらっとした二の腕。

 その白い肌に反して服装は、光沢のある黒色のハーフスリーブカットソーに、黒色で裾にスリットが入ったブランド物のレギンスパンツ、そしてパイソン柄サンダルとトートバッグまで同色で統一した、全身黒のワントーンコーデだった。

 中嶋はデザインを生業にしているだけあって、年相応の洗練された印象を受ける。自分の学生時代から変わらない、綿麻の白いシャツとブラウンのチノパンといった服装とは大違いだった。

 ただ彼女にしては、普段よりも機能性重視のような気がしたが。


「なに見てるの?」


 中嶋は、ぐっと体を寄せた。

 狭い車内で、さらに距離が近くなる。ショートの髪が鼻先に迫って、濃厚な薔薇の香水の匂いに、坂城は思わず身動みじろぎをした。


「いや、その」

「なになに? 正直に話してみなよ」


 中嶋の目元と唇には、怪しげな笑みが湛えられていた。

 坂城は躊躇したが、意を決して口にする。


「ちょっと臭い、かも」

「え?」


 中嶋は反射的に体をシートに戻すと、手の甲を鼻に当てて匂いを嗅いだ。そしてトートバッグから、小さなスプレーを取り出す。


「うわ、昨日お風呂入っていないのバレちゃったか。もっと香水かけるね」

「いや俺が言ったのは、香水が強すぎて臭いってことだよ」


 聞いてもいないことを自白する中嶋に、つい吹き出してしまった。


 彼女とは昔からこうだった。

 大学時代は部外者だったはずなのに、フットサルサークルの飲み会にもしれっと現れる。

 卒業後は広告デザイン会社で激務にも関わらず、定期的にファミレスへ誘ってくる。

 デリケートさに欠ける発言があっても、お互いに悪意がないことを理解しているため、遠慮なく会話ができる。

 つくづく気楽な相手だな、と坂城は思った。


「お前さ、もう少し女性としての自覚を持てよ」


 笑い声を堪えるために、マスクの上から口元を手で押さえる。

 その態度に、中嶋はぎろりと睨み返した。


「そういうアキは、もっと私に気を遣えよな」

「気遣ってるだろ」

「どこがよ」


 坂城が運転するポロは、東名高速道路のインターチェンジに差し掛かった。

 緩やかな傾斜の上り坂から、入口料金所のETC専用レーンに速度を落として侵入する。

 エンジン音が大人しくなったせいか、雑音混じりのカーラジオが鮮明に聞こえはじめた。

 どうやら関東エリアの情報番組のようで、介護老人福祉施設で新たに発生した集団感染クラスターや、外出自粛の最中に、国会議員が夜の街に出向いて性風俗店を利用したといった、新型コロナウィルス関連の記事を、男性ニュースキャスターが読み上げている。


 いい加減食傷気味だな、と坂城は感じていた。


 また中嶋がコロナ鬱のような精神状態になっても困るので、彼女の言葉通りに、気を遣ってやることにした。

 選局を変えようと、センタークラスターパネルの周波数調整ボタンへ、手を伸ばそうとする。

 そのタイミングで、中嶋は独り言のように呟いた。


「なんか最近ずうっと、お風呂に入る気力がないんだよね」


 さっきの話を引きずっているのだろうか。

 だがその思考とは別に、坂城は心になにかが引っかかるのを感じた。どこかで、同じような台詞を聞いたような気がする。

 ETC認識のセンサー音が響き、路側表示器に『通行可』の文字が点灯した。

 すぐに赤と白の開閉バーが上がったため、カーラジオの操作を諦めて、ハンドルを握り直す。


「それにさ」


 料金所ゲートを通過する間に、中嶋は淡々と言葉を続けた。


「お風呂とかマスクとか、コロナ自粛とかさ。もうそういうの、いいかなって」

「え?」


 中嶋の吹っ切れたような物言いに、坂城はつい聞き返した。それと同時に、古い記憶の断片から、家族で一番優しかった祖母の姿が頭に浮かんだ。


 お風呂に入る気力がない。


 晩年にそう零していた祖母の言動は、医者に言わせれば鬱病でよく見られる症状とのことだった。

 気分の落ち込みとともに意欲が低下して、今まで問題なくできていた日常の事柄でさえ、遂行するのが億劫になってしまう。情けないなあ、死にたいなあ、と寂しそうに口にしていたことを覚えている。


「お前、まさか」


 咄嗟に、続きの言葉を飲み込んだ。

 猛スピードの大型トラックが、真横を走り抜けていく。加速車線の終点が、すぐ前方に迫っていた。

 本線へ合流するために、唇を強く結んで、意識を集中させる。そのせいで、中嶋の機微がわからなかった。


「私は、我慢してまで生きていたくないよ。もうどうせ――」


 アクセルを力一杯踏み込んで、ハンドルを右へ切る。

 車体が大きく振動して、サスペンションから耳を劈くような金属音が響いた。


「もうどうせ、世界はコロナで終わっているんだから」


 坂城は、本線の車の流れに乗ってから、助手席へ視線を移した。

 中嶋はいつの間に車窓を空けたのか、ドアアームレストに頬杖を突いて、わずかに顔を外へ出していた。

 短い髪が風になびいて、白く透き通るようなうなじを露わにしている。


「中嶋。お前、もしかして」

「なに?」


 そう物憂げな表情で聞き返してくる彼女に、坂城はなにも言えなくなってしまった。再び飲み込んだ言葉は、胸中に疑念となって残留している。


 もしかしてお前、死ぬつもりなんじゃないか。

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