第十六話 歩み寄り

 夕日が名残惜しそうに赤い帯を残しながら、西の水平線へ消えて行った。日が落ちれば夏の地中海も、海風が吹いて肌寒い。

 ようやく遺体の処理を終えたノアは、漁師小屋がある北の湾へ来ていた。気のせいだろうか、今日は一段と風が冷たく感じる。

 軽く体の泥と血を流したあと、手早く火を起こす。右の二の腕と肩を、それぞれ銃弾が掠めて皮膚を抉っていた。幸い簡易救急キットを持っている。

 水を沸騰させ、ピンセットと針を熱湯消毒した。針に糸を通し、裂けた傷口を縫う。

「ふっ……」

 負傷には慣れているが、流石に顔をしかめる程度には痛い。ゆっくりと呼吸しながら針を通していく。額には脂汗が浮かんだ。


 応急処置を終えて大きく息を吐いた。

 水に浸かって体を冷やす。頭上には月が浮かんでいた。


 言わなくていいことまで、言ってしまったかもな。


 先ほどのクリスとの会話を思い出し、そう思った。売り言葉に買い言葉というやつだ。冷静になってみれば、一連の出来事は普通の人間には刺激が強すぎた。感情が追いつくはずもない。なのに、それを尊重しなかった。

 この島で数年ぶりに再会してからというもの、彼女が自分を見る目は、獲物が狩人に怯えるそれだった。八年前、自分の料理を食べた時の真っ直ぐな瞳でノアを見ることはもうない。胸の奥が詰まるような感じがする。


 炎の灯りにゆらりと影が差す。人の気配を感じ、ノアは振り返った。焚き火の側に、クリスが立っていた。血と泥はすっかり落としたようだ。炎に照らされた顔にもう涙はなかったが、目の周りが赤く腫れている。

 何かを言いたげに、海水浴をしているノアの方へ歩みを進める。ノアは肩から上を水面に出して横目で様子を窺った。


「あの……礼を言ってなかった、と思って。助けてもらったのに。だから……ありがとう」


 彼女は俯いてモゴモゴとそう言った。ノアはああ、と髪を掻き上げた。


「そんなことか、別に」


 自分が助かるための囮として利用した上、一度は見殺しにしようとした罪悪感もある。反応に困り目を背けた。クリスは唇を結んで立ち尽くしていたが、やがて踵を返した。


「……さっきは俺が悪かった」


 彼女の背中へ向かって言葉を投げかける。


「仲間を亡くして悲しむ気持ちは理解できる。だから、俺が言ったことは気にするな」

「……私も、ごめん。助けてくれたのに、なんか、お前のこと悪く言っちゃって」


 互いに向き合って見つめ合う。二人の間に流れる空気が、少しだけ和らいだ。

 ノアは、思い出したように左の漁師小屋を指差した。


「俺は今日からあそこで寝る。襲撃の危険が減ったからな。お前もそうしたらどうだ」

「あの小屋で……?」

「まあ、外で虫に喰われながら寝るほうが好きなら、止めないが」


 立ち去る彼女の背中をしばらく見送った。解けて揺れるオリーブ色の髪、華奢な肩、しなやかな手足——。

 今日の昼間、黄龍会に殺されかけるクリスを見たとき、若い頃に消したはずの火がまだ燻っていることに気付いてしまった。

 これまでも、人並みに恋をしたことはある。男としての生理的欲求を満たすためのパートナーもいた。だが、常にその感情をコントロールしてきた自信がある。

 組織に一生を捧げた身だ。組織には家庭を持っている者もいるが、ノアは生涯特定のパートナーを持たないと決めている。ノアだけでなく、ファミリーのボスも弟分のヤコフも、最後まで組織と添い遂げる覚悟だ。


 今は少し寄り道しただけだ。必ず還る。ほんの少しの思い入れで仕事に支障は出さない。




 クリスはバケツと網を持ち、荷物をまとめて島を横断した。これまで拠点にしていた南の野営地から、北の漁師小屋に移動するためだ。何度も歩いているから地形は分かる。月明かりを頼りに、暗い林を越える。

 遮るものがほとんどなく虫が食い入れ放題のテントより、もちろん小屋で寝たい。焚き火を囲んで過ごすのさえ心穏やかではいられない相手と、同じ屋根の下で過ごせるのかという不安はあったが、外で寝るよりいい。

 それに、きっと大丈夫だ。梅花を追ってまで助けてくれたくらいだから、危害を加える気はないはずだ。腹を割って話せば、もしかしたら分かり合えるかも知れない。


 小屋の前にたどり着くと、小窓から灯りが漏れているのが見えた。緊張の面持ちで扉を開ける。ノアはクリスが来たことを分かっていた様子で、驚かなかった。

 手前の土間には灯りを取るための小さな火が燃えている。高床になっている奥の間は、四人ほどが足を伸ばして寝られる広さだ。すでにノアが荷物、主に武器類を拡げていた。手入れをしていたようだ。


「今片付ける。お前はそっちでいいか? 俺はこっちだ」

「いいよ」


 早速土間に荷物を降ろし、寝床を作る。向かって左端をノア、右端をクリスの寝床とした。

 板の上は硬さはあるものの、衣服を下に敷けば快適だ。草木でチクチクしないし、何より虫の心配がないことも良い。


 少し気の緩んだクリスはいつしか至近距離で彼に背中を向けていた。背中が硬いものに触れ、油断していたことに気付いて振り返る。

 至近距離にいる彼の手には、カラシニコフが握られていた。それが振りかざされる。黄龍会の千眼に殴られたときの光景がフラッシュバックした。

「なっ……!」

 とっさに小さく悲鳴を上げ、後ずさった。クリスは顔を引きつらせ、怯えと警戒心を露わにした。それを見たノアは戸惑いの表情を浮かべ、両手を開いて上に上げて見せた。


「違う。これをそっちへ置こうと思ったんだ」

「あ……ああ。ごめん、昼間それで殴られたことを思い出してしまって」

 彼の気遣う様子に返って申し訳なく思った。しかしこの一瞬の出来事で、落ち着いていた心臓はまたバクバクと鳴っていた。


「ところで傷を見せろ、クリス」


 荷物を片付けたところでノアが声をかけた。思いがけない言葉に顔をあげる。

「頭の傷だ」

 言われるがままに高床の段差に腰掛けた。ノアは背中側に回り、クリスの頭を見下ろした。


「殴られたときに怪我したみたいで。血は海で洗い流したんだけど」

「他は? 内臓は損傷してないか?」

「多分。背中を何度も殴られて今も痛い」

「急所は庇ったんだな。よくやった」


 ノアはクリスの髪をかき分けて眺めたあと、簡易救急キットを取り出した。


「一つ大きな裂傷があって、血が出てる。手当てする」


 クリスは、彼を冷徹で思いやりのかけらもない男だと一方的に思っていたことを恥じた。助けてくれた上に、手当てまでしようとする。八年前に拉致された先で初めてノアに会ったとき、本当は優しさも持ち合わせているんじゃないかと感じたのは、間違いではなかった。彼はこんなにも人間味があって、きっと話せば分かり合える。


「少し痛いかもな。痛かったら言えよ」

「え、痛いの? 痛いのはちょっと……」


 ピンセットと針を火で炙っている姿を見て、途端に不安が大きくなった。


「待って、ぎゃっ!」

 容赦なく鋭い痛みが走る。傷を抉られるような感覚だ。針が突き刺さる鋭い刺激が強くなる。だがまだ耐えられる。善意で手当てしてくれていると分かっているからこそ耐えられているようなものだ——。


「いっいたっ……ITAAAA!」


 ノアは片腕で抱え込むようにクリスの頭を固定した。痛みで反射的に体が跳ね上がるのを抑え込まれる。もうこれ以上は耐えられない。


「あっ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」


 彼は手を緩めるどころかより強く抑えるだけだ。やはり他人の痛みを理解する心なんて持ち合わせていないのかも知れない。

 荒い息をしながら放心状態で床に転がるクリスを、ノアは呆れるように見ていた。火を消して始末し、薪を外へ運び出す。

 クリスは気を取り直して横になり、就寝を試みた。



 目を閉じては開き、また閉じる。神経が昂ったままだ。体の痛みもある。特に頭は、横になるとズキズキと痛んだ。

 小窓から差す月明かりが眩しかった。一向に眠れず仕切り直そうと、体を起こした。


「眠れなくても目を閉じろ」

 隣から声が聞こえて来る。クリスは驚いた。ノアが体を起こしてこちらを見た。

「起こしてしまった?」

「元々小刻みに睡眠を取っているだけだ」

 器用な真似ができるものだと感心する。

 クリスは壁に持たれかかって深呼吸した。そうした方が、まだ少し楽だった。


「帰れるのかな」


 弱気になって、つい独り言が漏れる。こんな時に思い出されるのは不思議と会社のことよりも、気のおけない友人達や故郷のことだった。懐かしさと同時に、もう会えないかも知れないことに心が沈んだ。


「会いたいなあ……あいつらに」

 かつてはなんの利害関係も気にせず、心を許せる友がいた。ほのかな光の差す窓を仰ぎながら、二人の親友を心の中で呼んだ。


「お前の友達、どうしてる?」


 反対側の壁に背を預けながらノアが尋ねた。


「幸せそうだよ。すっかりパパになって落ち着いてる。……あいつらの子供は可愛い。先月少し会った。誕生会をして」

 クリスは目を細めた。仕事のしがらみの無い、ささやかな幸せの時間を思い出すと、今の状況との対比に切なさが込み上げる。


「てっきり、お前はあの二人のどちらかと結婚すると思っていたけどな」

「まさか」


 クリスは苦笑した。ルーベンノファミリーのことだから、自分の身辺をよく調べていたであろう。クリスと行動を共にしていた友人のことを彼が知っていても不思議はない。しかしそんな風に思われていたとは心外だ。


「私は結婚する気はないよ。私はこうして色々な方面から狙われる身だ。家族がいれば、狙いが家族に行く。だからできない」

「まるで俺達、裏社会の人間みたいな考え方だな」

 ノアは鼻で笑った。

「誰のせいだと思ってる! ……いや、もういいよ」


 ほんの少し前なら、あれほど恐れ憎んだマフィアのNo.2と、ここまで気を許して心の内を明かすなんて想像もしなかっただろう。クリスは自分の中の変化に驚いていた。

 驚いたついでにふと、昼間から気になっていたことを口に出してみる気になった。


「ねえノア、なんで私を助けた? 助けないで逃げることもできた……よね」

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