第十五話 命を奪うこと

 クリスは一心不乱に走った。足がふらつき躓くが、立ち止まれば撃たれる。背後から梅花が追ってきているのだ。


「待ちやがれ!」


 パン、と弾ける音が聞こえ、銃弾が近くの木を抉った。彼女も催涙弾で視界をやられ、はっきり狙いを定められていない。

 ぼんやりと眩んでいた頭は徐々に冴えてきた。そして、間違った方向へ来てしまったことを悔やむ。気付けばノアがいるであろう場所からかなり離れてしまった。海岸に戻るべきだと分かっているが、もう戻れない。

 クリスは方向感覚を頼りに高台を目指した。木の間を縫うように進みながら、梅花を誘導する。

 梅花がその場所に足を踏み入れると枝が跳ね上がり、くくり罠が作動した。

「あ!」


 足を取られた梅花は驚いて仰け反り、転倒した。足止めに成功したと喜んだのも束の間、それが何になるのだろうと気付く。少し時間を稼いで距離を引き離しただけだ。数十秒の間に梅花は罠を外し、再び追ってきた。

 クリスは尚も罠の近くを狙って誘導する。

「げっ!」

 続け様に仕掛けが作動した。しかし踏みどころが逸れているのか罠が小さすぎるのか、梅花が足を取られる事はなかった。その上、返って彼女を逆上させる結果になったようだ。


「よくも舐めてくれたねぇ」


 辿り着いたのは、高台の行き止まりだった。足元には十メートルの断崖が迫る。背後には梅花が追い付いていた。

 再び絶望の淵に立たされた。いっそ飛び降りてしまいたい衝動に駆られる。だがこんな島で、苦しみながら一人で死ぬことを想像するとそれも嫌だった。


「楽には死なせないよ!」


 逃げ場のない場所へ獲物を追い詰めたことを知ると、梅花はニヤリと笑った。もう視界も回復しているらしい。

 縄抜けは何度も試したが無理だった。腕さえ自由になっていれば、他にやりようはあったかもしれない。混乱に乗じて銃を奪うとか、今だって相手の体に飛びかかって崖から投げ落とすくらいのことは試したかもしれない。だが無理なのだ。


 使えるものはないかと周囲を見渡す。そうしてふと梅花の背後、遥か後方から迫る人影を視認した時、クリスは微かな希望を持った。泥と血に覆われ、頭から足まで真っ黒に染まった男。それがノアだと分かった時、まだ光は消えていないと思った。

 梅花はまだ気付いていない。今まさに正面から、クリスの頭にトカレフの銃口を突き付ける。その銃弾から逃れなければ意味がない——クリスは足元の数十センチ先にあった罠の仕掛けの一つに、自ら足をかけた。足首にロープが絡まり、引っ張られる。そして背中から、後ろの崖下へ向かって自らの体を落とした。


「はっ?」


 その行動を見た梅花には、観念しての身投げに見えたことだろう。

 クリスの足首に絡み付いたロープの先は木の枝へ通じ、枝はしなってバンジージャンプをしたように衝撃を吸収した。万が一枝が折れたりロープが外れたりしたら、本当の身投げになるところだった。


 突然の銃声と共に、梅花の右手の甲を銃弾が貫通する。手からトカレフが落ちた。不意打ちを喰らった梅花は、悲鳴を上げて血まみれの手を抑えた。

 梅花が振り返ると、その目前に真っ黒な男——ノアが迫っていた。


「一つ聞きたい。俺の部下をどうした?」


 血で覆われた顔面に、紫色の瞳が不気味に光る。


「ボートで呑気に浮かんでた奴らなら、全員海の底だよ! あの腑抜けどもがあんたの部下ってんなら、生憎だったね!」


 梅花の視線はノアの顔から、その手に持った自動小銃へ移動した。それを見た梅花の表情が、これまでの比ではないほど怒りに歪んだ。


「てめえこそ、その得物はあたしの亭主のか? 亭主を殺りやがったのか? ああ?」


 ノアは答えなかった。


「てめえェ!」


 梅花が鬼の形相で向かって来る前に、カラシニコフが火を吹いた。銃弾の雨が彼女の顔や頭を貫き、体は跳ねて地面へ落ちた。


 女の息がないことを確認してから、ノアは崖下を覗き込んだ。宙吊りになったクリスは動かない。もう死んだのだろうか。冷や汗が伝った。撃たれる前に梅花に追いついたと思ったのだが。

 ロープを掴んで彼女を引き上げる。首を触って脈を確認し、小さく安堵の息を吐く。

 体に触れると、彼女の心臓が激しく鼓動しているのが感じられる。力の抜けた指先は小刻みに震えていた。座り込んだまま呆然と正面を見つめているが、視点が揺れて定まらない。

「大丈夫か?」

 腕のロープを切りながら尋ねると、微かに頷いた。意識はあるようだ。ショック状態なだけだろう。

 両手でクリスの頬を支え、顔を覗き込む。黒い瞳は四方八方へ遊びまわっていた。三つ編みにしていた髪は解けて乱れている。頭から、口から、鼻から血を垂れ流しているが、それを拭う気力もないらしい。ノアはその場で彼女を休ませることにして、一人で海岸へ戻って行った。



 クリスはただでさえ怪我をした頭に血が昇り、半分意識があって半分ないような、真っ白な状態の中にいた。しかしノアが自分を崖下から引き上げたとき、また生き延びたのだと理解した。


 一時間ほど経った頃、ようやく呼吸が落ち着き意識も取り戻していた。

「船は?」

 海岸から戻ってきて姿を見せたノアに、クリスは尋ねた。彼は首を横に振った。


「逃げられた。もう一人の男も消えた。倒したと思ったが、息があったのかも知れない。もっとも、そいつも船の奴も致命傷を負っている。逃げたところで死ぬのは時間の問題だ」

「また襲ってくるんじゃ……」

「かもな。来るかも知れないし来ないかも知れない。次に来るとしたら、もっと大人数で、もっと準備をしてから来るだろうな」


 死ぬ寸前まで身を削って挑んだにも関わらず、脱出するための船は手に入らなかった。抜け出す希望は絶たれた。振り出しに戻ってしまったのだ。

 クリスはすっかり落胆した。


 憔悴しきったクリスをよそに、ノアは淡々と後始末を行った。近くの手頃な窪みへ死体を運び、埋める作業をクリスも手伝った。

 血塗れの死体の足を持ちながら、クリスはまだ夢と現実の間を行ったり来たりしていた。言われるがままに”それ”を運び、土をかける。穴だらけの原型を留めていない顔、大きく引き裂かれた皮膚、苦悶の表情を浮かべる物言わぬ人間、白く硬直した体。目の前の光景を受け入れることを、脳が拒否していた。


 どうして私は死体なんか運んでるんだろう……。まるで私が殺人鬼じゃないか。


 先に秀英の体が置かれていた穴の中へ、梅花の体を落とした時、思わず嘔吐した。


「我慢しろ。貴重な水分が飛ぶぞ」


 そう言いながら表情を変えることなく、手慣れた様子で作業を進めるこの男もまた、怪物に見えた。彼は死体を埋める前に、使える武器や所持品を押収した。クリスは死者から何かを奪うこと自体に罪悪感を覚えずにはいられなかった。


 確かに彼らは、黄龍会というマフィアの一員だった。だが、隣で淡々と作業する男も同じく闇の人間だ。闇の男に協力してこのような殺戮を犯すことが、果たして正しかったのだったのだろうか。


 ノアが最後の確認をしようと秀英の所持品を弄ると、ポケットから二つ折りの財布が出てきた。彼がそれを開くのを横から見ていたクリスは、思わず手から財布を奪い取っていた。

 震える手で開く。中には身分証があった。もう一枚めくると、社員証が出てきた。「劉秀英リュウシュウイン」の名前と共に、笑顔の彼の写真が刻まれている。その下には見慣れたBECのロゴと、「Make it a better place(より良い世界にしよう)」のコーポレートメッセージ。そして署名欄には彼自身の手書きの文字で、「We will(必ず実現する)」と添えられていた。

 記憶の中で、秀英は確かにBECの仲間だった。クリスが掲げた言葉を彼も好きだと言って、他の社員の前でもよく口にしていた。クリスの夢を誰よりも理解してくれていると思っていた。

 だが、二つの意味で彼はもういない。写真の中の笑顔と、目の前で壊れた人形のように横たわる体は、あまりにもかけ離れていた。あの日々は嘘だったのか、何を思っていたのか、その口から聞く前に逝ってしまった。

 握り締めた社員証の上に、涙の粒が落ちる。


「ごめん……秀英……ごめん……」


 社長として、守るべき社員を守れなかった。今となって頭に浮かぶのは、彼の茶目っ気のある笑顔、落ち込んでいる時に会社で見せてくれた気遣い、和やかな日々ばかりだ。

 クリスは肩を震わせた。

 そんな彼女を、ノアは冷めた表情で見ていた。


「泣くな。水分を失う」


 ハッとして彼を見上げた。相変わらず変化のない表情を見て、やはり自分と異なる世界に住む怪物だということを思い知らされる。


「人が……死んでるんだ。それも……仲間だった人だ。そんなに理解できないか」


 声を詰まらせながら言葉を絞り出す。すると彼は、淡々と言葉を返した。


「何が悲しい。お前の命を狙った裏切り者だ。それとも、この期に及んでそいつをまだ仲間だと思ってるのか? あるいは裏切られた自分への哀れみか」


 一切の同情も見えない物言いに、クリスは彼を睨みつけた。


「裏切り者なのは分かってる。でも、そう簡単に割り切れないよ……。人を殺しても眉一つ動かないお前達には分からないだろうけど」


 過ごした日々が消えるわけではない。ただ自分は、秀英のことを何も知らなかったのだ。彼だって人だ。彼なりの考えがあったはずだ。本心を聞いて話し合うことができていれば、違う結果になってかもしれなかった。

 感情が次第に強くなっていく。


「確かに黄龍会は悪い奴らだ。……でも、彼を殺したお前も同じだ……! 私は悪人だろうと、誰かが死ぬのは嫌なんだ! お前が秀英を殺した……! たかがマフィア同士の争いに巻き込まれて死んだ……誰にも命を奪っていい権利なんかない!」


「それならお前も悪人だ。グスタボを殺したのはお前だ」


 ノアの目に苛立ちの色が浮かぶ。だが、堰を切ったように溢れた感情は止まらない。


「ああ、殺されそうになったから、そうするしかなかったんだ。好きでやったんじゃない……! 今でも後悔してる。そうせずに済む方法は無かったのかって……!」


「俺達だって、命を奪うのは目的のためだ。好きでやってない。それに、これは『お前の世界』でも当たり前に行われてることだ。今までたまたま、お前にその役割が回って来なかっただけだ」


 彼は徐々に語気を強める。眉間に皺を寄せた表情には怒りが見えた。


「自分が潔白だと勘違いしてるだろ? 今までお前が人殺しに関わってこなかったのは、お前が善人だからじゃない。汚い仕事を他人にやらせていただけだ。お前は、それを踏み台にして生きている。そして死体の山の上に、何も知らないフリをして座ってる」


 ——息子はあんたの身代わりに死んだんだよ!

 頭の中で罵倒の声が蘇る。


「お前は富に満たされた、閉ざされた空間で生きてきた。残念だがそれは普通じゃない。いいか、お前は他人に殺し合いをさせて蓋をすることで、その平和な生活を維持してきたんだ。……人殺しが嫌だと、どの面で言う?」


 ノアは強い口調で詰め寄った。怒りに燃えるような視線が迫る。


「そんなことは……分かってる!」


 クリスだって実業家を目指し始めてから、それなりに世界を見てきた。理不尽に人が殺されない社会は実際には、どこかの国の他人を見殺しにすることで閉ざされた平和を維持してきたことも、分かっている。

 CEOでいる間、何度も人殺しと罵倒されてきた。そう言ってきた人々には返す言葉もない。その通りだ。


 大粒の涙がボロボロと溢れ、それを見られたくなくて背を向けた。秀英の社員証を握り締め、背を向けたまま、駆け出した。

 そのまま振り返らなかった。

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