五、 雨中の紅

 放課後、三浦先生から返されたスマートフォンを何気なくつけると、メッセージアプリの通知が来ていた。ぞろぞろと帰り始める生徒もいる中、机の上に通学用のリュックを置いたまま、椅子に座ってアプリを立ち上げる。外の雨音が五月蠅い。朝よりも雨脚が強くなっているようだ。

 通知の内容はグループの招待だった。朝のグループを作りたいというやり取りを思い出し、慌てて招待を受ける。すぐさま通知が入った。


ナオ「おそい」

ナオ「ちょっと話したいことがあるから」

ナオ「前に麻結を助けたT字路に来て」


 こちらの返答はお構いなしらしい。というよりもT字路ではなく丁字路なのだが、そんなことはどうでも良いか。そもそも、河原さんはテニス部に入っているはずだが、部活は大丈夫なのだろうか。


『河原さん、部活は?』

ナオ「休み」

ナオ「たまには休みたいって部長が」


部長権限で休みになったのか。運動部は柔軟性がないイメージがあったがそうでもないのかもしれない。


『ごめん、余計なお世話だった』

ナオ「いいよ」

『前に話をするために部活に遅れる連絡したって、広瀬さんから聞いたから』


少し間が開いた。なんとなく、自分が余計なことを話した、もとい打ち込んだ気がする。


『広瀬さん、話しちゃいけないことだった?』

『ごめん』

広瀬麻結「だいじょうぶ」

ナオ「まあとにかく」

ナオ「一旦、集まろう」

ナオ「直接話したいし」

『分かった』

広瀬麻結「はーい」


 やり取りがひと段落したので、指定の丁字路に向かうことにした。ひとまずスマートフォンをリュックにしまい、ふと周囲を見ると、教室内に残っているのは自分だけになっていた。


  ◇


 案の定、丁字路に着いた頃には二人とも到着していた。河原さんは赤地に白で犬の影が描かれている傘、広瀬さんは白地に黒でリボンがふちに沿うように描かれているデザインの傘をさしていた。改めてみると女性ものの傘はカラフルだ。対して僕のそれは紺に近いブルーの無地。地味も地味なものだ。

「遅い」

河原さんからの台詞にデジャヴを感じる。

「何やってたのよ。妙に遅いからどうしたのかと思って」

 もしかしたら二人は移動しながらスマートフォンをいじっていたのではないだろうか。そうでなければ、こちらが「遅く」はならない気がする。

「まあいいや。とりあえず、あんまり人通りがないところに行こ」

河原さんがそう声をかけて移動を始める。広瀬さんも一緒に移動を始める。つられて移動する僕。

「話したいことって何?」

「場所変えてから話すよ。そんなに大っぴらに話さない方がいいでしょ?あんたが」

僕が?どいう意味かと思いつつ、ついていく。角を右に左に。

歩きながら、河原さんは自殺未遂の女子生徒に関する話をしてくれた。どうやら、部活の先輩から話を聞いてくれたらしい。

「じゃあ、その人は転校するんだ」

「そ。可哀想な話よね。親に受験勉強で追い詰められて病んだなんてさ。引き取り先の人たちが、優しい人だといいわよね」

 テニス部の先輩に、くだんの生徒と特に親しい人がいたらしい。その人によると、彼女は受験に伴う親からの期待と重圧に耐えられなくなり、身を投げたらしい。両親もそこまで追いつめていたとは思っていなかったらしく、事態を知って動転したとか。放課後にテニス部の先輩に「あれから世話を焼かれて煩いくらい」と彼女から連絡が来たとのこと。どうやら彼女は精神的にも落ち着いてきてはいるらしい。

 しかし、両親は自分たちがまた同じようなことをしてしまうかもしれないと考え、また学校で自殺未遂をしたことによって通いにくくなってしまったため、親類縁者に一旦預けることにしたらしい。このまま転校するのだろう。

「まあ、命が助からなかったら、どうなってたかねえ。先輩は『クロウ』に感謝を伝えたいって言ってたよ。大事な友達がやつれていくのを目の前で見ていても、自分には何もできなかったからって」

「そっか、良かった」

僕は呟く。もしも「どうして死なせてくれなかったのか」とか言われたらどうしようかと、あの後何度も思った。自分の選択は間違っていなかった。それに安堵した。


  ◇


話ながら歩くことしばらく、着いた裏路地は、確かに人目につかないし、内緒話には良さそうだ。

「よく知ってたね。こんなとこ」

「私が前に迷い込んで」

広瀬さんが答える。心なしか、頬が赤い。可愛い。しかし、路地に関しては、確かに複雑なつくりではあったけれど、普通に辿れるとは思う。もしかして方向音痴なのだろうか。

「それで、本題だけど」

河原さんが流れをぶった切ってきた。

「あんたが『クロウ』である確証を見せてほしいの」

「確証?」

以前、指輪と父の地下室の話をしたときに指輪も見せたけれど。

「『クロウ』の恰好って、その指輪で変身するんでしょ?そこを見せてもらって、できれば、身体能力が上がったところも見せてほしいの」

なるほど。確かにそのものは見せていない気がする。だからこんな裏路地に移動したのか。

「分かった」

 僕は左手にはまった指輪の石座マウントのふちを、右手人差し指で時計回りになぞった。たちまち視界が暗くなる。

「おお」

「おー」

二人共声を上げる。

「すごい」

「なんか、ドロってしてたの、気持ち悪くないの?」

と河原さん。ドロってしてたの?何のことだろう?

「あ、どれくらい筋力上がったか試さないとね。試しに…そうね」

何を持たされるのだろうか。リュックを背負って傘をさしている状況で、あまり無茶ぶりは勘弁願いたい。

「あ、麻結。抱え上げてもらったら?」

思考停止。今なんて?

 広瀬さんの方を見ると、広瀬さんも固まっていた。硬直状態が解けた広瀬さんは声を上げた。

「な、な、何言って」

「いや、前に麻結を荷物込みで持ち上げられたのなら、今もできるはずでしょ?多分普段はできないだろうし」

はっきり言われると凹む。が、事実だ。広瀬さんは身長が高いわけでも、太っているわけでも、筋肉質であるわけでもない。どちらかと言うと、身長普通、やせ型だ。しかし、普段の自分ではとても持ち上がらないのも分かる。十キロの米袋を抱え込むように持ち上げても普通に重いからだ。まして、以前の持ち上げ方は横抱きだった。立っている人間を横から掬い上げるように横抱きにするのは普段ならできないだろう。スクールバックという重りもあることだし。

 しかし、この『クロウ』の恰好をしているときは話が別だ。実際に持ち上げたことがあるし、今回もできるだろう。河原さんの検証は妥当だと思う。

持ち上げる方である僕の方は断る理由もないし、むしろ喜んで横抱きにする。しかし広瀬さんの方は、前回はいつの間にやら身体を抱えあげられていたわけで、ひょっとしたら嫌だったのかもしれない。嫌がられていたら悲しいな。

そんなとりとめのないことを考えている間、二人は僕が間に入ることすらできないような応酬をしていた。

「いや、そうだろうけど、そんな試すような真似」

「でも気になるでしょ」

「そうだけど」

「じゃあいいじゃん」

「恥ずかしい」

「ええー、せっかくの機会なのに」

「良くない」

「じゃ、あたしで試してもらおうかな」

「は?」

「それならいいでしょ?」

「良くない!」

「なんで?」

「なんでも!」

 完全に置いてきぼりだ。どうすればいいのだろうか。心なしか広瀬さんの声が普段より大きい気がする。傘で表情があまり見えないのがいいのか悪いのか。嫌がる顔は見たくない。突っ立ったまま待ちぼうけを食らわされていると、

「とにかく、この子持ち上げてやって、一瞬でいいから」

と、河原さんがこちらに広瀬さんを押し付けてきた。目を白黒させるしかない。そもそも、普段からしてこんなに接近しないため、一気に鼓動が早くなる。戸惑いもあるがそれ以上に喜んでしまうのが申し訳ない。

「う、ごめん、重いと思うけど、その、よろしくお願いします…」

これ、嫌々だったらどうしよう。でも、そのままというわけにもいかない。一旦、僕の傘に入ってもらって傘を閉じてもらう。広瀬さんと目線が合わない。下を向かれている。やっぱり嫌なのかなあと思いつつ、頼まれたのは本当なので、傘を右手に持ったまま腰に回し、左手で太ももの裏を持ち上げる。あくまで慎重に、驚かせないように動き、そっと持ち上げた。腕の中の確かな重みとぬくもりを感じる。

 体が密着しているのを実感し、体中を血が巡りだす。先ほどよりもさらに鼓動が早くなる。僕はこのまま死ぬのではないだろうか。広瀬さんの顔が見れない。見られたくないかもしれないが、僕が見れない。今、顔が真っ赤になっている自覚がある。また、ゆっくりと広瀬さんを地面に下した。広瀬さんは僕の傘から出て、自分の傘を差した。表情は見なかった。

 時間にして数秒もなかったように思う。しかし、ひどく長く感じて、一方でもっとぬくもりを感じていたかったように思う。でも、これでいいのだ。きっと嬉しいと思っているのは僕の方だけだ。

「あーうん、なんかごめん。二人とも。高宮、元のカッコに戻っていいよ」

河原さんに言われて、今度は指輪の石座マウントのふちを反時計回りになぞり、視界がクリアになった。でも、先ほどの熱量はまだ残っている。いつもなら「クロウ」ではなくなった途端に脱力するのだが、今日に限ってはまだ変身中の体の軽さが続いていた。何が違うのだろうか。それも気になるが、河原さんがこちらに目線を向けずに明後日の方向を向いている。どうしたのだろうか。

誰も声を発しないまま時間が過ぎていく。何気なく腕時計を覗き込んだ広瀬さんが小さく声を上げた。

「ごめん、茉実のお迎え行かないといけないから、そろそろ帰るね」

「あ、そっかそうだね、ごめん。じゃあね」

河原さんは何のことかわかっているようだ。

「うん、じゃあね。高宮君もまた明日」

「へ、あ、うん。またあした」

一人だけ何のことだかわからないまま広瀬さんを見送る。白い傘が遠ざかる。ひとまず、河原さんに訳を聞いてみる。

「河原さん、茉実、ちゃん?のお迎えってどういうこと?」

「前に麻結が言ってたと思うけど、母親が亡くなったときに生まれた妹のことよ。今四歳で、保育園に通っているのよ」

「妹さんのお迎え?」

「そ、家事もやってるみたいだしね。偉いよね。あたしにはできないよ」

何だか、似たようなことが金曜日にもあったな。あの時は、横にいる人が広瀬さんだったけど。

「二人とも、すごいよ」

「へ、なんで」

「お互いの良いところをお互いに認めて、尊敬しあえるんだから、すごいよ」

僕なんかよりずっと。ものに力を借りなければ何もできない僕なんかより、ずっと、すごい。

 なんとなくそのまま河原さんと別れて帰った。先ほどあった熱はもうとっくに冷めてしまっていた。


  *


「おねえちゃん、かお、あかいよ?」

 前にも同じこと言われたなあと思いながら、茉実を促して帰る。顔が紅潮しているのは嫌でもわかる。茉実を言い訳にしてそのまま逃げるように移動してきてしまった。高宮君はどう思っただろうか。さっさと帰りたくなるくらい嫌だったと思われただろうか。

 そんなことはない。むしろ逆だった。このまま居続けられないくらい、恥ずかしくて申し訳なくて、はしたないと思ったからだ。あくまで実験、検証の一つ。しかし、ここまで動揺するとは自分でも思っていなかった。

 しばらくはライン越しの会話かと思いきや、顔を合わせることになるとは思っていなかった。そして、抱きあげられることになろうとは。奈緒に、先に話しておいてくれてもいいのにと言いたくなる。動揺の理由を誰かに押し付けたいだけなのは自分でもわかってはいるが。

 「クロウ」の件があるまで、自分は高宮君を一クラスメイトとしか思っていなかった。それなのに、偶然「クロウ」のことを知って、それでなんて、都合がよすぎる。それに、私自身地味でつまらない人間だ。友達には恵まれているがそれ以上は望めない。

 気づき始めた感情は、自分の中で押し殺す。そうすれば動揺しない。父のためにも茉実のためにも、私は私を律していないといけない。

 気持ちを落ち着けようとしているうちに家についてしまった。二階建て計四部屋の小さなアパート『せいがんそう』。外階段を上って奥側、二〇二号室、自宅の鍵を取り出し、鍵を開けた。扉を開けつつ、ふと、今日はやけに茉実が話しかけてこないなと思った。扉を開けたとたんに中に入っていった妹は、たまにこうして空気を読んでくれる。

妹に気を使われていたのではだめだ。私は自分を律するために一回大きく深呼吸をした。もう、頬の紅潮はなくなっていた。

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