あまり強いことを言わないで……

和泉茉樹

「個人の娯楽」というスタンスの僕からあなた方へ

 この一連の文章は、僕のぼやきであり、悲鳴です。

 いずれ、引用しますが、スキマスイッチの「奏」という曲が好きです。乃木坂46の新曲「僕は僕を好きになる」も好きですね。

 さて、今の若い方々、10代の若者が知ることがないライトノベル作品が僕は好きです。例えば「トリニティ・ブラッド」とか「ランブルフィッシュ 」とか「ラグナロク」とか「ウィザーズ・ブレイン」とか、そういうのが青春だった。僕はこの辺りを読んで育ったのです。はっきり言って、良い時代だった。満たされた時代、というか、過不足ない時代、というか。

 それでも僕はライトノベルの中で、コメディ、ラブコメは読まなかった。最初から読まなかったので、はっきり言えばらそれは、興味がなかった、という一言で済んでしまうけど、10年くらい前からは、ライトノベルがラブコメ辺りの物凄く極端な要素に支配された、と感じて、憂鬱になったりもしました。その感覚が消えていったのは年齢のせいよりも、むしろ、僕が掘り下げていると感じていたジャンルが、実は底なし沼のようなもので、どれだけ掘っても、移動しても、その沼の底が見えないし、沼から出られない、と悟ったからかもしれません。

 一方で、僕が沈み込んでいた沼に、もし何かしらの表札がついていたなら、その表札に書かれている沼の名前は、時間の流れとともに変わっている。最初は「ライトノベル」で、次は「一般文芸」、そして今はただ「小説」です。このことを考えれば、沼を掘ることには掘ったし、沼の中を進んだことは進んだ、と言えるかもしれません。どんどん深く掘り、沼の真ん中へ進んだような感じで。

 時間の中で僕の中では何かは変わったけれど、何がいつ、どうして変わったかはわからない。桜庭一樹さんや綾辻行人さん、森博嗣さん、その辺りを読み始めてから変わったかもしれませんが、唐突にライトノベルを読まなくなったのは事実。でもそこには、ライトノベルへの否定や反発だけではなくて、むしろ僕が新しく手に取り始めた「小説」が、どことなく馴染み深いライトノベルに似てて、しかし何かが違って、新しくて、そういう未知の分野が強い興味を僕の中に起こしたのも、また事実。

 僕たちが本を読む理由はいろいろあるだろうと思いますが、僕の中には単純に面白いからという理由しかなく、あまりファッションとして本を読むことはない。一方で、文章を書くことにはどうしても「評価されたい」という願望が強くて、最近になってやっと「書きたいものを書こう」と思えるようになった感がある。

 ここで乃木坂46の「僕は僕を好きになる」の歌詞を引用しちゃったりするのが痛々しいですが、夢は競い合って手にする幻想、というのは確かな真実だと思う。「評価されたい」なんて、完全に「他人よりよく見られたい」という、他人がいることが前提の願望だった。この「夢」が別の側面を見せると、「今の流行にはそぐわないけど、見る人が見れば評価されるはずだ」という感覚もあって、これもやっぱり願望だし、幻想に違いないのではないか。紙の本は出したいし、PVだって稼ぎたいし、ランキングの上位にいきたいけど、今はそれよりも、何かを書いていたい、ということが僕の内にまずあるのが、自分の老いで、角が取れた、とも言える。肩肘張らなくなったとも言えるかもしれない。競争の先に何かがある、栄光がある、というのは見えやすいけど、競走しなくちゃいけない理由はないし、競うよりただ書く、というのが穏便で、実はそこに本当の充足があると思う。何かの賞を取るのもそれはそれで満足だろうけど。こういう発想は、敗北主義っていうのかな。

 僕はライトノベルに育てられたけど、そんな僕はすっかりライトノベルを読まなくなった。でももう、僕が読む小説は全部がライトノベルと同じ琴線への触れ方をしている。どんな本を読んでも、大昔のライトノベルに胸をときめかせて、ドキドキしてワクワクした、あの頃の感覚がやって来る。それはきっと幸せなことで、やはり運が良かった。

 今のライトノベルは僕の時代より明らかに雰囲気が違うけど、僕はそれが悪いとは思わないし、みんな、読みたいものを読めば良い。だって、趣味だから。街を歩く時に背中に大きく、好きな小説のジャンルを書いて歩くために、本を読む人はいない。どんなジャンルやテンプレが好きでも良いんじゃないか。

 これはわかる人にはわかると思うけれど、女性と本の話をして、その女性が「村上春樹が好きです」と言い出したら、僕はきっと笑ってしまうと思う。分かりますか? この感覚。僕自身もなかなか人前で「村上春樹が好き」とは言いづらい気もする。

 別の要素では、僕が「SFが好きだ」と言って、即座に「星新一とか?」と返されると、反応に困る。

 こういう作家とか作品とかジャンルへのイメージが、それを読んでいる人の印象を作るのは、ままある側面だけど、先に書いたように、本を読むことを殊更、誇る必要もないし、本を読むこと自体が崇高なものでもない。趣味だし、娯楽ということです。タバコを吸う人が、吸っている銘柄がわかばかメビウスかで喧嘩したり、アルコールを嗜む人が、美味しく飲めるアルコール度数の数字で喧嘩したりするのはおそらくないわけで、だったら、他人の好きな小説のジャンルを否定するのも、不自然ではある。もっとおおらかに、うまく併存して、長く共存すれば良いんじゃないかな、というのが僕の感覚です。

 僕は本を読むことが勉強になるとは思わない。純粋な娯楽で、暇つぶしで、人生の彩りで、自己満足です。究極的な個人的な楽しみの場です。紙の本だろうとネット小説だろうと、今の時代は、どんな人でもどこかに一つくらい、思う様楽しめる作品が転がっているはずです。様々なジャンルの、様々なストーリーが、様々な文章で表現されていて、しかもそれはちょっと探せば簡単に出会えて、簡単に読める。本当に良い時代です。誰もが楽しい思いができる。「楽しい」というのが、何よりも優先されます。他人が楽しいと思っているものに、それは低俗だろう、という声を投げかけるのは、あるいは文化とかいうものを守ったり、支える意図もあるのだろうけど、どこか見当違いではないか。自分が楽しむために自分の時間を使い、場合によっては自分のお金で、自分の力で読んでいるのに、他人が「それは無駄だ」、「読んでも意味がない」と言ってきても、訳がわからない。

 もし僕が読んでいる本が、それは無駄だ、と言われたら、黙っているだろうけど、内心では無駄ではない、と思う。たしかに知識も身につかないし、現実で役に立たないし、銭にならないし、そういう意味では無駄ではある。

 スキマスイッチの「奏」の歌詞の中に、「君が僕の前に現れた日から 何もかもが違く見えたんだ」という部分がある。そのあと「君が輝きをくれたんだ」となると、身につまされる。僕は多くの本を読む中で、さまざまな輝きを目の当たりにした。一番最初、何かの物語が僕の前に現れて、読書、というものを知った時、教えてくれた時、その面白さの虜になった時、何かが違って見えるようになったわけですね。それから、輝きが分かるようになった。本を読むことは、僕の人生をまったく変えたし、鮮やかにした。

 だから僕が他人から見れば「無駄」と思える本を読んでいるとしても、僕の心の中では何かがキラキラと瞬いている。あるいは、書いている時にも何かが遠くで瞬くかもしれない。

 どんな物語にも、必要とする誰かがいる。だから全ての物語が肯定されることを、僕は願うけど、そうもいかないのかな。

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