第30話 夢の時間
大迷惑な兄のためにメイド喫茶でパンケーキを無事完売させた鳴瀬玲は、中学生の友人を伴い、ライブ会場の集会場にやってきた。
会場の体育館は凄い数の人の熱気と興奮に包まれていた。
しかし彼女がプログラムを見ると、自身も演奏する兄達のバンドの順番が迫っていた。
「あのさ……どうやってあのステージまでに行くの?玲ちゃん」
「……私も今。それ、考えていた……」
本来。会場の脇にステージまで人が通れるコースがあるはずなのに、生徒達が興奮して全く隙間がない状態だった。
この光景に玲達はすっかりは立ちすくんでした
「こうなったらあの人混みをもみくちゃになりながら進むか。あるいは屋外に出てステージの裏まで廻るしかないが、もう時間が無いぞ?鳴瀬」
「無理だよ。時間が無い……ここまで来て、断念とは」
「玲ちゃん……」
彼女がいなくても演奏はできるはずなので、玲はそう悲しく笑っていたが、その時彼女の携帯にメールが来た。
「お
「バカ者。泣いている暇があったら、ステージに行く
「太郎さん!真剣に考えて!あの玲ちゃんが泣いているんだよ?」
この時、一人冷静だった雨宮が大きな声を出した。
「……こうなったら。上から行くしかないですよ、先輩!」
ステージをじっと見ながら雨宮は言うが、目を赤くした玲は何も言えなかった。
「雨宮君。玲ちゃんにターザンみたくロープで行けっていうの?まあ、できるかもしれないけど」
「違います。ここいる人達の力で、鳴瀬先輩をステージまで運んでもらうんです!」
「ほらみろ。俺と同じ考え」
「消えて!」
「いいから鳴瀬先輩。携帯貸して!このアドレスが、御兄さんですよね?」
「無理だよ……」
べそをかいた玲から携帯を奪った雨宮は、ものすごい速度でメールを打った。
「だって。もう前の組が終わったよ?今ステージに出てきたのは、お兄達だもの」
すると雨宮は、彼女の顔を覗き込んで、ニヤと笑った。
「……怒った顔も好きだけど、泣き顔も可愛いです!」
「へ?」
その時。
大音量で突然マイクがキィーンとハウリングした。
そして。シーンとなった瞬間。
マイクを持った人物が、口を開いた。
「あの。俺はこれから演奏する3年の鳴瀬優介っつうんだけど。俺のバンドのメンバーがこの会場の一番後ろにいて、たどりつけないわけだ。だけど、そいつがいないと俺達は全く何もできないんだ。だから……皆、頼む!そいつをここまで届けてくれぇーーー!」
優介のシャウトにざわつく会場。
この刹那、みんなの視線が、玲達に刺さった。
その時、雨宮は玲の背を押し、叫んだ。
「この人です!『わっしょい』でお願いします。せーの!『わっしょい』……」
「きゃあ?」
観客のたくさんの手で担がれた玲は、わっしょい、わっしょいと空中に持ち上げられ、ステーージまで運ばれた。
……ウソでしょう?これって、自分の意思で進んでいない。視界が上?下?
「うわああ!僕は違う?」
「アッハハハ……楽しい!」
背後では雨宮と百合子も観客に担がれていた。
「いいぞ!みんな、そのまま、ゆっくりステージまで運んでくれ。サンキュー!ヒュー?イエーイ!」
こうしてたどり着いたけれど、玲はボロボロ状態でステージに倒れ込み、まるで漂流して帰還した人みたいになっていた。
しかし。そこへすっと手が伸びた。
「大丈夫か、玲?」
「お兄……」
スタンドマイクを片手に持つ金髪の兄はスポットライトに輝き、その笑顔はめちゃくちゃ眩しかった。
天真爛漫な兄の優介。
兄のせいで妹はこんなに苦労しているのに。当の本人は何にも分かっていなかった。
……私はいつも何でも巧くやろうとして計算して偽ったりして。気持ちがこんなにドロドロしているのに……
「玲!ほら、お兄に捕まれ?アハハ、バカだなお前」
……この男は純粋無垢で清らかすぎて、キラキラ光って眩しいよ……
「玲?」
「……お兄!』
涙の玲は優介に抱き付いた。
「……世界で一番ダメだけど……世界で一番大好き……」
「アハハ。当然でしょ?」
こんな彼女は涙を拭いて兄を見た。
「お兄……待たせてごめん」
「まったく。世話焼かせんなよ?」
兄に手を借りて会場に背を向けたまま膝を立てた玲は、ゆっくりとステージから見渡した。
「エンジンかかっていますか?隼人さん」
「もちろん!今から海に行くか?」
彼女はウィンクするラ隼人と、ハイタッチをし、そして正樹へ歩み寄った。
「ステージからの景色はどうですか?正樹さん」
「最高にきまってるだろう、玲?」
正樹とハイタッチを済ませた彼女は、ドラムの翔の元に向かった。
「……なんて恰好だ。腕から血が出て、服もボロボロじゃないか?」
スティックを握り呆れた顔のその真面目な心配顔が今はとってもおかしくて、玲は笑いがこみあげてきた。
「ふふふ。あのね。翔さん。白状するけど、さすがの私も翔さんがいなかったら、今回のライブは……無理でした」
「まったく。今頃気づくとは!」
「ありがとう、翔さん」
微笑む玲に翔はふん!とわざと怒った顔をしてみせた。
「礼を言うのはまだ早い。玲?ここまで来たら優介の尻拭い、最後まで完璧にやり通してみせてくれ!」
彼の言葉に皆が声を出して笑った。そして彼女はキーボートの前に立ち、初めて客席を望んだ。活気にあふれた真っ黒な世界に深呼吸をした玲は振り返った兄に頷いた。
「いくぞぉーーーー!!」
こうして兄のシャウトが会場の沸点を一気に上げ、彼らのライブがはじまった。
夢中になっていた彼らのライブは、大成功で終わった。
優介の音程は、奇跡的にばっちり合い、玲がアドリブでハモっても綺麗に決まった。
冷静だった翔のドラムが、だんだんと早くなってしまった時は、玲は翔に声をかけて一緒にリズムを刻んだ。
隼人も途中で何度も間違えたし、正樹はコードを忘れて、手拍子で誤魔化していたけれど、カッコ良く見えた。
足をねんざしていた兄は、松葉杖を巧みに使い、ステージを狭しと動いていた。
……本番に強いのはいつもの事だけど、ここまで来ると完敗だな……。
やがて演奏を終えた彼らはアンコールの声に包まれたが、曲を用意していなかったので、最初と同じ曲をやった時点でこれ以上ぼろが出る前に、バンドはステージを降りたのだった
「ヒャホ――ッ」
ステージ裏で興奮冷めやらぬ高校男子三名。
それを眺める中学三年の玲は無事ライブが出来た安心感に、今までの苦労が急に込み上げて涙があふれてきていた。
……銀髪にして弟の振りをして。兄の代わりに説教をくらい、勉強をして。
湖を泳いで高校で起きた放火事件を解決して……ご飯つくってご飯つくって……パンケーキ売って。でもそれも、もう思い出になっちゃった……。
「玲ちゃん。良かったよ!」
「先輩!最高でした」
わっしょいで運ばれた百合子と雨宮は、髪も服もボロボロ状態でそんな玲を待ってくれていた。
そしてここにいる太郎は、警備をしている警察官に署長をしている母親の威厳を借り、無傷で裏口から入ったと自慢していた。
そこに興奮冷めやらぬ優介が現れた。
「おい?何泣いているんだよ?玲」
「ひっく。お兄……良かったね」
すると優介は嬉しそうに彼女を優しく抱きしめた。
「ああ。お前のおかげだし。なあ、玲はどうだった?楽しかったか?俺は滅茶苦茶楽しかった」
「うん。誘ってくれてありがとう……」
胸で泣く妹に優介は髪をくしゃと撫でていた。
「そうだろう?お前、いつも意地張って勉強ばっかしてるから、一度でいいからバカ騒ぎさせたかったんだ……これからはさ。もっと肩の力を抜けよ、あ、足痛て!?急に痛くなりやがった??」
「大丈夫?お兄!」
すると優介は中学生に命令をした。
「おい。太郎と百合子。そして犬ッコロ。俺を保健室へ連れて行け」
「は。御意に。百合子、優介殿の肩を持て!雨宮、警察官に俺の名前を告げろ」
やけに生き生きしている太郎とその仲間達に担がれて、優介はここから出て行った。
そしてシーンとなった部屋にはバントのメンバーだけとなった。
「お疲れさん。落ち着いたか?」
汗だくの隼人は彼女の肩にタオルをそっと投げた。
そのタオルは彼のコロンの香りがしたので、玲はそっと目を伏せた。
「はい。ありがとうございました」
「しっかし。あの『わっしょい』はすごかったな。目、回ったろ?」
そう話す正樹はスポーツ飲料の蓋をクシュ!と開けると、彼女にはい、と手渡した。
「ところで怪我は無かったか?玲。ああ。腕から血が出ているじゃないか……」
彼女の腕を取った翔は、引っ掻き傷の腕を優しくタオルで押さえていた。
「ぐす。あの。すみません……。私はみなさんにお話ししないといけないことがあるんですけど」
「話って?」
驚き顔の翔を見つめる玲の間に、隼人はあわてて入ってきた。
「あ?それな……玲。その……今は言わなくていいぞ。な、正樹」
「……そうだな。そんな事をしたらここから出られなくなるぞ」
「何の話しだ?」
「翔も。これを見ろ」
隼人のかざすスマホの画像には、彼氏シャツ姿のドキドキ玲が映っていた。
「恐ろしい事にツイッターで拡散されたこの画像を見て、この学校の全生徒が、お前を探しているんだ。だからこの楽屋を出る所を待ち伏せしていると思う」
「そうだ。今は自分の正体をどうこう言っている場合じゃないんだ」
正樹と隼人の真面目な顔に、翔も真顔でうなづいた。
「そうか。みんなは優介の弟だと知らないわけか」
「……ごめんなさい、翔さん」
まだ自分を男の子だと思ってくれている翔に、玲は心がものすごく痛んでいたが、今はこれをぐっとこらえていた。
「楽器はここに置いておくとして。どうやってここから出る?」
「警察の人に言えば、裏口から出してもらえると思いますが、問題はその後ですよね」
「……変装するにしてもな。ここには何も……これは?」
壁に立て掛けてあったものを彼らはそっと外した。
こうして警察に理由を話した彼らは裏口から担架を担いで出た。
翔と正樹が担ぐ担架に玲が乗り、横には隼人が付き添い、必死に彼女を隠してくれた。
やがて人気のないところで担架から降ろしてもらった玲は担架に揺られて気分が悪くなっていた。
その時、丁度届いたメールには、太郎達は百合子の家族の車で帰るというものだった。
兄はオールナイトと言っていたし、翔達も帰った方が良いというので、彼女も彼らに便乗して車で自宅に送ってもらったのだった。
「あれ。電気つけたままだ?……」
「おかえり。玲」
「え。ママ」
「そんなに驚かなくても良いでしょう?仕事が入ったから予定を切り上げてきたのよ。あなたその髪の色、どうしたの?」
「あ、これ?今日だけ色を付けただけ」
「おやめなさい。あなた、夏季講習があるのでしょう?」
「……はい」
リビングにいた母はパソコンの手を止めずに話をしていた。
「それと。お父さんのスーツ、クリーニングから戻ってきていないみたいだけど」
「いけない!すぐ取って来ます」
「良いわよ、もう。明日は取ってきてちょうだいね」
「はい。ごめんなさい……」
「ところで。何か食べるものないかしら」
そんな母に玲は静かに答えた。
「素麺ならあるけど」
「炭水化物か。いいわ、それで」
玲は急いでキッチンに向かった。
こうして夢の時間は終わり。彼女にはいつもの時間がやってきた。
翌朝。
兄がくれた黒髪スプレーで銀髪を誤魔化した彼女は、家族の朝食を作り、仕事に行く両親を送りだした。
……さあ。私も今日から女の子に戻らないと。
高校生の兄はまだ夏休みで寝ているけれど、進学校に通う彼女は今日から登校だった。
そんな彼女は夏のセーラー服を着て、学校へ向かった。
「おはよう、百合ちゃん」
「おはよう。昨日はおつかれだったね。玲ちゃん」
そう言う百合子の眼に下にはクマが出来ていた。
すみれ嬢とパンケーキ対決した余韻がまだ残っていると見えて、百合子は釣り目気味のツインテールで決めていた。
授業はスタートしたが、勉強は予習してあった玲は、先生の話しは知っている事ばかりだった。
玲は大きな蝉の声にふと窓の外を見ると、綺麗な青空が広がっていた。
それはいつもと同じ光景なのに、ずいぶん懐かしい気がしていた。
そんな夏季講習の学校帰り道。
銀髪に染めた美容室で彼女は髪を元通りの色にしてもらった。
ビジュアル系の髪形も切りそろえてもらい、素直なボブヘアにしてもらった後は、クリーニング店に寄り父のスーツを受け取り、急ぎ家に帰り夕食を用意した。
そして帰宅した玲は、兄に声を掛けたが彼は部屋から出て来てくれなかった。
やがて今夜は遅くなる、というメールを両親から受け取った彼女は、独り食事を取り部屋で深夜まで勉強をしたのだった。
こうしていつもの毎日に戻って一週間。
彼女のパソコンには誰からもメールが来なくなっていた。
両親がメールをチェックする事を兄が彼らに打明けのがその理由を思っていた玲は、これを想定していたが、結構つらかった。
そしてお風呂から出てきた兄が、玲が女の子だと翔には告げた、とさらりと話をしてくれた。
彼がどんな反応だったかは教えてくれなかったが、翔は女の子が苦手だから自分はすっかり嫌われただろう、玲は思っていた。
そんな夏季講習の最終日の金曜日。
下校前に彼女は校長室に呼び出された。
「え。太郎さんも?」
「……まさか、と思うが。お前の兄上の学校祭の件なら、俺はシラを切るからな」
「いいよ。責任は全部私がかぶるから……」
二人で重いドアを開けると、そこにはすでに雨宮が立っていた。
……お兄の学校祭の件で、校則違反があったなら、私のせいだな。
もし彼らにお叱りがあるなら本気で全部かぶってやろうと彼女はごくと息を飲ん部屋に足を入れた。
「財前君に鳴瀬君。もっとこちらへ来なさい。重要な話しなんだ」
手招きする校長の机の前に、緊張しつつ三人は並んだ。
「えーと、まず。成績優秀者による海外推薦留学の選抜者を発表する……」
え?今頃その話?と三人は同時に思ったが、これを隠して澄ましていた。
「吟味の末、今回は一年の雨宮君に決定した。おめでとう!」
「……ありがとうございます」
とっくに知らされていた雨宮君の感動は薄く、加えて太郎のショックも薄かった。
「しかしながら最終選考に残った君達2名も見事な成績だった。次回に期待をして欲しい」
そう微笑む校長だったが、最後のチャンスだった太郎は、目頭がじわじわしているのを、玲だけは知っていた。
「……と言うかと思うだろうか。話しはこれからだ。鳴瀬君。君も合格だ」
「え!私?」
「君、インターネットでハーバード大学のテストを受験したね?」
「なんだと?」
顔を覗き込む太郎を手で払いのけた玲は、校長に向かった。
「はい。本来年齢が足りず入学資格はありませんが、自分の実力を知りたくて、年を詐称して受験しました。すみません」
「そう思ったよ。しかしだね。日本人で受験した中で君がトップだった科目があった。たしかに君はまだ大学に入学できる年齢じゃないから、このテストは無効だけれど。君が本校出身を知った向こうは、今回特別枠で君を招致してきた。ほら、これが成績だ」
校長が渡した書類を玲と太郎はじっと読んだ。
「……もう一度お尋ねしますが、私は選抜に選ばれたんですか?」
「そう。雨宮君と一緒だよ」
「わーい。先輩と一緒!!」
抱きついてきた後輩を、彼女は思わず突き飛ばした。
「私が……選抜……」
「返事は親御さんと話し合ってからでいいからね。それと財前君?」
「……はいっ」
隣で涙を必死にこらえている太郎にさすがの玲も可哀想になり、思わず彼の肩を男前に抱いていた。
「実はね。以前からシンガポールのフェニックス校から優秀な人材に留学に来てほしいと依頼がきていてね。私は今回、君を推薦したいんだよ」
「シンガポール?フェニックス校?この俺が……不死鳥……」
「良いネーミングだね。太郎さんにぴったり」
「先輩!かっこいい」
「そうだろう?これが資料だ。みんなお家の人を相談してきなさいね」
この後、彼女はどうやって家に帰ったのか分からないほど、ぼんやりしてしまった。
……ずっと行きたかった海外の学校。チャンスが来たけれど。夢が叶うはずはないもの……。
そんな彼女が玄関に入ると大きな靴が目に入った。
「ただ今……あれ?パパの靴がある」
……今は国会の会期中だから、こんなに早く帰って来るはずないのに……。
玲が不思議に思いながらリビングに行くと、父は兄とゲームをしていた。
「おかえり、玲」
「パパ。早かったんだね。今ご飯にするから」
「いいさ。ママは出張で今夜はいないし。久しぶりに寿司でも取ろうか」
「やったー」
嬉しそうな兄に玲は首を横に振った。
「ひどい。私の料理がまずいみたいじゃないの、お兄」
「ハハハ。玲もたまには、ゆっくりしたらいいじゃないか」
「ありがとう、パパ。でも私が家事をやらないと、みんな困るでしょう?」
すると父は、悲しそうな顔をし、ゲームに向かった。
「そうだね。玲。今夜は食事の後に、話しがあるから」
この日は先に御風呂に入った彼女は、父が取ってくれたお寿司を食べた。
そして明日の朝食の用意を済ませるとパジャマ姿で、父の書斎のドアをノックした。
そこで話しをした彼女はキャリア官僚の父は多忙で、自分の事など何も興味が無いと思っていたのが間違いだと痛感した。
「……なんで私の事、そんなに知っているの」
「舐められたものだな。私が何も知らないと思っていたな」
ブランデーを手に取った彼は、小さなグラスに注ぎ、そっと口を付けた。
「知らないというよりも、興味が無いと思っていたけど」
「まさか?進学校で著名で私の母校に通う優秀な愛娘に興味が無いはずないだろう。それで?ハーバードの付属校は何学部だ?」
「選べるみたいだよ。ちょうど行きたい学部が一つあったけど」
「けど?とは」
「私が行けるはずないもの。パパが良くてもママが反対するから。その事でまた家族でもめたり、お兄を傷つけたりするのは。もう、嫌なんだ」
「まあ。そうなるな。このままだと……」
グラスを片手に持ったまま父は机上の家族写真を持ち、娘の横に座った。
「ママの話しをするけど、本人には絶対言うなよ……」
彼はそっと話しだした。
「優介が最初に長期入院した時は、この家に私の母がいてね。同居していたんだか、ママと仲が悪くてな。ママはあの通り不器用で家事ははっきり言って向いていない。私もそこは承知で結婚したのだが、優介の看病の時にとうとう母と衝突してしまったんだ……」
ブランデーグラスの氷がカランと揺れた音がした。
「専業主婦だった母にしたら病気の息子や幼い娘の養育を放棄して、仕事に夢中な嫁と映ってしまったんだ。仕事を抱えた彼女も限界に近かったので、私は彼女には仕事に専念させ、母には優介の事を頼んだ。そしてお前は、田舎で自給自足をしていた私の祖父母に預けたんだよ……」
「もしかして。近くに川があって、山小屋みたいなところ?」
「そう。良く覚えていたね」
父は娘に優しい顔を見せた。
「お前はそこに二年程過ごしていたんだよ。そして優介の病気も治りママの仕事も落ち着き、母の機嫌が直った頃、私はお前を迎えに行った」
「あの時、お祭りがあった?」
「本当にすごいな。そうだ。帰りたがらないお前をお祭りに連れて行ってやる言って山小屋から連れ帰ったんだ。ああ、あの祖父母はまだ健在だよ」
「そうだったんだ。私。ずっと前世の思い出かと思ってた」
娘の声に隣に座っていた父はそっと足を組み直した。
「……あの時の事をお前に忘れて欲しくて、ママがそう誤魔化していたのさ。そしてお前を連れ帰った私はまた元通り楽しく暮らせると思っていた。しかし、まあその。玲がな、とても立派な女の子になっていたんだよ」
「だって、成長はするもの」
「そうか?転んでも泣かない、自分で自分の事ができる逞しい人間になっていた。そんな強い娘を見て、ママはさびしくなったんだよ。自分は無能な母だと」
「嘘だよ?あの強気な人が……」
父はふっと笑うと窓辺に立った。
「お前はママがいなくても独りで何でも出来てしまうし。ママの苦手な家事もこなしている。彼女にはそれが、プレッシャーなんだろうな」
「……優秀で、仕事もバリバリなのに」
「人から見ればそうかもしれないがね。誰にだって、劣等感はあるさ」
父は窓の外を見上げていた。
「……私もね。田舎の祖父母にお前を預けたことを後悔したよ。娘の一番可愛い時期にそばにいなかった父としての自分に。だから今、お前がこうやってママの代わりに家事をして家を仕切ってくれている事は、お前は不本意かもしれないが、私達にとっていつも愛する娘がそばにいるから、安心でいられたよ」
「……私は、ずっとママに嫌われているのだと思っていた」
「『親の心、子知らず』か。優介にはしっかりして欲しい、玲には家でおしとやかにして欲しいという無理な願望、いや?これは私達の甘えだね。でも、もう終わりにしないとな……」
「パパ?」
窓の外のスーパームーンを背に、父は娘をじっとみつめた。
「玲。アメリカへ行きたいんだろう?いや、行かなくては行けない。お前は選ばれたんだから」
「でも。お兄やママが……」
しかし父は首を横に振った、
「優介はお前に行って欲しいと言っている。兄としてこれ以上、妹の重しにはなりたくない気持ちを分かってやりなさい。ママの事は私が何とかする!お前は……お前の道を進む時が来たんだ」
「……でも、私が行っても良いのかなって思うんだ。もっと相応しい人が良いかなって」
「玲?この際だからはっきり言うが……」
この時、彼女の目前の父の真剣な目は一瞬、兄と重なった。
「この世界。男も女も関係ない。人間、実力が全てだ。生まれ持った能力を生かさないのは、死んでいるのと同じだよ」
「パパ」
「それにお前は私の娘だ。何だってやれるさ。空も飛べるし宇宙も行ける……。もう、これからは手加減なしで行け……。お前の本気ってやつをパパに見せてくれよ、な?」
こうして口角を上げた父の胸に彼女は思わず抱きついたのだった。
つづく
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