12
その朱音の体を、側に寄ることで辛うじて受け止めた懐音は、会話による先制を図るサガを制しようとしたが、既に遅し。
次の瞬間。
何かが引き裂かれるような嫌な音がしたかと思うと、氷皇の背から、不意に堕天使さながらの、漆黒の翼が生えた。
「!う…あぁぁあぁぁっ…!」
最も見られたくなかった者に見られたという絶望が、悲しみが…涙となって氷皇の頬を濡らす。
対する朱音は、唐突に目の前で起きた現象の意味が分からず、ただ、大きく目を見開いて立ち竦んだ。
「…ひ…おう…?」
…“なに”?
“何が起こったの”?
“あれは…本当に、氷皇…”?
“あれは…本当に… ヒト…”!?
「…なに… その…姿…?」
硬直し、血の気さえも失った朱音の体を、懐音が支える。
その手から伝わるのは、怯えを露にした震え…己の意志ではどうにもならない、畏怖。
…氷皇は自らの手のひらに顔を埋めたまま、絶望に肩を震わせる。
そしてそれに応じるように、艶やかな漆黒の翼が、その背で緩やかに揺れる──
「…っ」
さすがに全身の血が引いたのか、がくがくと震える朱音の足から力が抜ける。
それを救うようにしっかりと支えた懐音は、その手に僅かに力を込めた。
「何故だ… 答えろ、サガ!
何故、上条氷皇に手を出した!?」
珍しく怒りを露にした懐音を、一連の流れを、頬に伝う冷や汗を放置したままに見つめていた柩が抑えた。
「…懐音、落ち着け。その答えは既に出ているだろう…
なのに、何をそうも焦る? それ自体が愚問でしかないというのに」
「!っ、例え愚問でも何でも…」
怒りも露に、なおもサガを責めようとする懐音を、柩は片手を軽く上げることで制した。
…真っ直ぐに、サガを見据える。
「…サガ様、懐音の言うことは尤もです。幾ら貴方でも…今回ばかりはおイタが過ぎるんじゃないですか」
サガはその瞳に、ある意志を込めて柩を一瞥した。
「…死神の長か。どの辺りがそれに該当すると言うんだ?
命を刈るばかりの存在がよく言う。お前もあの世界に属する者なら、その本質を知らないはずはないだろう」
くつくつと喉を鳴らして酷薄に笑むその姿は、何よりも美しく、そして醜悪で…
結果としてその一連の言動は、懐音の怒りに更に火を注ぐ結果となった。
「余計な口を挟むな、柩。分かるだろう、こいつはまともに話が通じるような奴じゃない。
こいつを黙らせるには、ただひとつ。…実力行使で潰して、自分がどれだけ身の程知らずであるのか、思い知らせるしかない」
「…、全く…相変わらず歯に衣を着せぬというか…
まあ、そんな科白もお前だからこそ出るんだろうがな」
柩がどんよりと肩を落として、低く呟く。
懐音はそれにまるで構いもせず、改めてサガを鋭く見つめた。
不意に、その灰の瞳に宿る、途方もない殺気。
それはまだ直視しないうちから、サガの恐れという名の本能を、直に刺激する。
瞬間、ぞくりとした寒気がサガを襲った。
…それに伴って、冬の息吹にも近い、凍てついた肌寒さを覚える。
極寒の針で突かれているかのような特有の鋭さも、その身を刺し、麻痺を広めるかの如く、徐々に…緩やかに、五感を支配してゆく。
それは身も竦むような、紛れもない…
“恐怖”。
「…、美しい玩具だったが…残念だ。今回ばかりは手放さざるを得ないようだな。
他ならぬ、懐音…貴方に目を付けられたのでは…な」
サガは懐音の言動に留意しながら魔力を発動させる。
その魔力が床に、邪悪な光を放つ、漆黒の紋章を描いた。
「待て、サガ! まだ話は…」
このままでは、一方的にやられた挙げ句に逃げの一手を打たれてしまうと踏んだ懐音は、警戒も露にサガを留めようとする。
しかし、当のサガは、まさしく凄絶なまでに綺麗な…
天使と見紛うばかりの、柔らかな陽射しを思わせる、極上の笑みを浮かべた。
「…俺の方から話すようなことは、今は何もない。
氷皇のことは好きに扱えばいい。それこそ“生かすも殺すも”…好きにすればいい。
あの方の血を強く引いた貴方には、それが容易く出来るのだから」
「!…」
神魔という高位に属する、魔の中の魔であるはずのサガと顔を合わせても、知り合いであるということ以外は、さしたる反応も見せなかった懐音が、ここにきて初めて、激しく動揺した。
自らの血の琴線に触れられた際の、失態にも近いその過剰反応は、端から見ても容易に分かるものだった。
知らぬ間に表情を硬め、ほんの一瞬、わずかながら眉を顰めた、そんな懐音に…
その天使の微笑みを、不意に悪魔の嘲笑へと変えて、サガは非情にも言い捨てた。
「今日の所は退いておこう…
いずれまた何処かで。“兄上”」
「!…っ、サガっ!!」
懐音が憤り、激しく叫ぶも、当のサガは、懐音に対して、乾いた静寂の笑みをぶつける。
その笑みが潰える頃には、恐らくは、一般に瞬間移動と呼ばれる技を使ったのだろう…
サガの姿はいつの間にか、その場から消え失せていた。
後には、開け放たれた窓から、穏やか、かつ、涼やかな風が吹くばかりだ。
ぎりっ、と、彼らしくもなく、もはや何度目かも分からないほどに苛立たしく歯を軋ませて、懐音はサガの居た場所を、鋭い瞳のままに睨む。
そんな感情の起伏を露にする懐音に、柩は宥めるように、声のトーンをわずかに落として話しかけた。
「…諦めろ。サガ様は元々、ああいった御方だ…
お前には良く分かるはずだろう? 懐音」
柩の諭しに、懐音の拳が、より固く握りしめられる。
「…ああ、分かるさ。あいつの事なら嫌って程な。
どれだけ狡猾で、どれだけ人間を馬鹿にしているのか…
そんなことはもう、身に染みる程に分かっている」
懐音は指をきつく握り込む。
自らの手のひらに小さな三日月が複数、痕跡を残すことも厭わずに。
そのまま懐音は、低く呟いた。
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