6
「…ぐ…うう…ぁあっ…!」
──低い、獣の唸りのような声が響く。
広いながらも、それに見合った光のない、薄暗い部屋…
その空間の広さを更に強調するような、傍目にも大きく、高貴という言葉が最も当てはまる、身も沈みそうなふかふかとしたベッド。
その上には、己の身を丸くし、抱きしめるように自らの背を抱えて悶え横たわる、ひとりの少年がいた。
その背には、およそ人間には到底存在し得ない、漆黒の羽根が生え揃っている。
それはまだ翼という形ではなく、数にして二十枚にも満たないかという、羽根の寄せ集めというレベル。しかしその羽根は、その少年の背中の皮膚を裂くようにして、ミリ単位の早さで、至極ゆっくりと自らを覗かせてゆく。
…己の背中の皮膚が軋むたび、少年は耳を覆いたくなるような、断末魔の叫びをあげる。
「──ぅあっ! …うっ…ぐ…ぅっ…
!あ…あぁああっ!」
まるでそれは病巣そのもの。
人間の内部に巣食う病魔を、それそのものを具現化したかのような、そんな症状──
その傍らには、そんな少年を優しく見守っている、銀髪黒眼の青年がいた。
聞く側が思わず耳を被い、顔を背けたくなるような、耐えがたい苦痛に満ち溢れた、そんな声を…
少年が時折、歯を食いしばりながらも洩らしているというのに、傍らの青年はそれを気遣うこともなく、聖母マリアのそれに似た、優しげな声で囁いた。
「──苦しいのか? 氷皇…」
その口元には、乾いた柔らかな笑みが浮かぶ。
すると、氷皇と呼ばれた少年は、苦痛にまみれたままの顔を上げ、求め縋るように青年を見た。
「…“サガ”…!」
「いいな、お前は…
羞恥に満ち溢れ、破壊的な闇を宿した瞳…
何よりもその、媚び堕ちるような表情…
そして、魔に屈したという、苦悩が示す絶望…
全て、魅力的だ」
サガと呼ばれた青年は、自らの親指で氷皇の顎を持ち上げる。
…氷皇の、体が震える。
例えようもない恐怖と後悔に。
「…サガ、俺はっ…!」
「己の選択を悔やんでいるのか?
だから言っただろう、能力や権力など、そうそう容易く手に入るものではないと」
「!…う、うあぁ…あぁっ!」
話の最中にも、何かを引き裂くような嫌な音がして、氷皇の背中にはまた数枚の羽根が生える。
氷皇はその絶え間ない苦しみと、刻々と人外の者へと変化する己の体に対する恐怖から、思わずサガに縋りつき、サガもまたそんな氷皇をいとおしそうに抱きしめる。
その笑みを、それとは真逆の残酷なものへと変えながら。
「…お前は苦しみの下にあっても、なお美しい…
歳を取り、死にゆく人間のままでいさせるには惜しい。
…魔にその身を委ね、堕ちるがいい…」
「──い…、嫌…だ、俺はっ…!」
氷皇はきつく目を閉じ、荒い息の下で必死に頭を振り、拒否する。
恐怖のあまり強張り怯え、途方もない震えまで来ている体を、無理やり抑えこむように己の右手で左腕を掴むと、氷皇はその恐怖心を、無理やり言葉へと転じて呟いた。
「…“あかね”…、朱音…っ! 助けてくれ…
怖い… 俺が、俺でなくなる…!」
「“アカネ”…?」
ここでサガの瞳に、初めて酷薄な光が射した。
聞いたその名前を忌むような、冷めた声で問う。
「氷皇…それは誰だ。何故、その名を口にする?
お前には、俺が居るというのに」
「…っ、朱音は…」
荒い息の下から洩れる声。
その口調が、優しく、慈愛を含んだ、柔らかいものへと変化する。
「…俺の、幼馴染み…
あいつが…居ないと、俺は…
…こんなにも…弱い…」
「…、気に入らないな」
サガは不意に、それまで愛でていたはずの氷皇をそっけなく突き放すと、ぞっとするような冷たい瞳で氷皇を見下ろした。
「お前が救いを求めるのは、俺だけでいい…
その女、ただ殺すだけでは面白くない。
幼馴染みだとか言ったな。ならば…せめて揃いに、お前と同じその姿に変えてやろう」
「──やめてくれ、サガ!!」
氷皇が渾身の力を振り絞って叫ぶ。
その瞳に、闇の絶望を色濃く抱えながら。
「…こんな姿に変貌した俺は…もはや、人間じゃない…
俺はもう…どうなっても構わない。だが、朱音には…あいつにだけは、手を出さないでくれ…!」
「…そんな懇願は面白くない」
そっけなく言い放って、サガは立ち上がると、つと、閉じられたままの大きい窓へと歩を進めた。
…無遠慮に、音を立ててそれを開く。
そんな闇の空気を打ち消すかの如く、和やかに吹く風にその見事な銀髪を静かに煽られたサガは、次には何かを企んだような狡猾な笑みを、その美しい口元に浮かべた。
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