宿命のストローク
和毛玉久
本編
"When people heard the stroke of 10, the guitarist died of a stroke, playing his last stroke."
「なんだって、それは本当かい」
あの時、私は馴染みのナイトクラブに居た。
そこが「馴染み」であった理由といえば、そこでいつも演奏しているスカバンドのギタリストが、私の友人であったというだけなのだが。しかしその友人―ウィルは、一昨日の午後十時きっかりに倒れ、意識を失い、病院に運ばれて行ってしまった。
部屋の反対側からくぐもったチャイムの音が聞こえた。事務所兼寝床のモルタル壁に突き立てられた釘に掛かった時計が、午前十時を打つ音だ。いつもならこの音を目覚ましに、のろのろとベッドから這い出す刻。しかし今日は違った。私はその五分ほど前に突然鳴った電話でたたき起こされていたのだ。
『ああ、そうなんだよ。凶器は残されてなければ、足跡さえも無かったらしい。警察が言うには、奴は朝になったらそのままベッドの上で死んでいたらしいんだ……。ロイド。君はウィルと長年の友人だったんだろう。頼むから、奴が司法解剖に回されちまう前に、会ってやってくれないか』
電話の主、ウィルのバンド仲間でトランペット奏者である男、シグムントは気が動転しているらしく、その声からは唇の震えが感じられた。
「ところで今、お前はどこに居るんだ? シグムント」
『病院の霊安室だ。俺が朝イチで見舞いに来たら、医者や看護師が慌ただしくしていてな。警察も来ていたし。それで話を聞いてみれば、今朝には既に、ウィルは痣だらけになって、横向きで死んでやがったと言うんだ。そのまま一緒に霊安室まで連れて行かれ、今は電話で駆けつけたリュドミラと一緒にいる。こんな酷い事、誰が想像するってんだろうな』シグムントは電話越しに力なく乾いた笑い声を挙げた。
「とにかく、すぐにそっちに向かう」
そう言い、私は電話を切った。出かける準備は一瞬だ。椅子の背もたれに掛けていたジャケットを羽織って、最小限の荷物を収めたキャンバス地の肩掛け鞄を掴み、玄関へと向かう。
そして外に出て扉を閉めようとして、忘れ物に気づいた。
「おっと、これを忘れちゃならんな」
扉の横にあるフックに掛けていた、折り畳み傘を手に取り、畳んで鞄の横ポケットに突っ込む。昨日雨が降っていたために、干したままにしていた。
いつでも傘は持ち歩く。雨に濡れるぐらいなら、傘を差して涼しい顔をして立っていたい。それは私のささやかな拘りであった。
***
私は受付でウィルの遺体が安置されている、霊安室の場所を尋ねた。目の下に隈が目立つ受付係の女性は「地下二階」とだけ言い、無言で地下に降りる階段へ私を案内した。そこでさっさと去っていったので、後は自分で探せという事か。
階段を下りながら、ウィルが倒れた晩の状況を順繰りに思い出した。
私がナイトクラブ「ジュアン・ロコ」を訪れたのが午後九時半だった。その時、ウィルはわざわざバックステージから出てきて、私の来訪を歓迎してくれた。
「やあ、ラルフ。調子はどうだい」
「まあまあさ。相変わらず探偵稼業は繁盛とは程遠いが……。まあ、今日は気分転換に来たというところだな。お前はどうだ?」
「絶好調だぜ。今日もステージ見てってくれよな」
ウインクをして、いつも通りに少し気取った様子で踵を返すと、ウィルはバックステージに戻っていった。思えばこれが奴と交わした最後の会話だった。
九時四十五分になると、バンドが全員出揃い、演奏を始めた。
そして、時計が十時を打ち、同時にバンドはちょうど三曲目を演奏し始めるところだった。ドラムスがリズムを刻みだし、それにウッドベースが乗っかる。お馴染みの曲だ。そしてそこにウィルの奏でるギターが続く……その筈が、最初のストロークを鳴らした瞬間、ウィルは呻き、そのまま崩れるように倒れてしまった。
バンドは演奏を止め、皆が楽器を置いて救急車を呼んだり、応急処置をしたりした。しかしウィルの意識は戻らず、そのまま病院へ搬送されて行った。
そして倒れた原因が脳血管の破裂であった事が知らされたのが、昨日だ。この時知らせてくれたのは、付き添いで病院に行った「ジュアン・ロコ」のバーテンダー、リュドミラだった。彼女はウィルと交際しており、その事は私も含めて、周知の事実だった。彼女も霊安室に居るのだろうか。そういえばシグムントに訊くのを忘れていた。
考え事をしているうちに、地下二階に着いたらしい。遺体を保存する温度に設定されているためか空気は冷たく、リノリウム張りの廊下には誰も居なかった。
私は奥へと歩を進める。一人分の革靴の足音だけが静かな廊下に響き渡る。そして一枚のアルミ製のプレートが目に入り、私は足を止めた。
「
静かに扉を開けると、部屋の中心に置かれた寝台の上に、ウィルの物言わぬ体が横たえられていた。
その横で顔を覆って泣いているのはリュドミラ。快活で気が強く、いつも華麗に曲芸じみたフレア・バーテンディングを披露する彼女が、こんなにも静かにしているのを私は初めて見た。普段なら仕事の邪魔をしないよう、髪留めで上げられているブロンドの髪も、力なく肩の下に垂れ下がっている。
呆然と立ち尽くしているシグムントは困ったような目で私を見て、「ああ、来たね」と口角だけを上げた。彼は長身でひょろりとした体型が特徴の黒人の男だが、今日は何だか針金のように見えた。
「やあ、ロイド。ウィルの顔を見てやってくれよ。これが最後になるだろう」
私は黙って寝台に近寄り、彼の顔を見た。
綺麗な死に顔だった。ハンサムだとに昔から女性に持て囃されていた顔は眠っているかのようだった。しかし、被せられている布を少しめくって見れば、引き締まった体の上に青黒い痣が転々と浮かんでいた。
「葬儀はいつ行われる?」冷え切った空気の中、私は訊いた。
「死因を調べるのに時間が掛かるらしいから、早くとも二日後だとよ」シグムントが返した。
「そうか」私の短い返答が空気に乗って消えた。
しばらく黙ってウィルの顔を見ながら、私は殺人者について考えを巡らせた。脳卒中で意識不明の彼をわざわざ狙い、動けないところを執拗に殴打して、死に至らせる事は容易だったであろう。
「今、病室はどうなっている」
「警察がバリケード張って嗅ぎ回っているぜ」
「そうだろうな」
しかし、夜間の病院に忍び込むとは大胆な事をする。警備が手薄だったとすればそれも可能ではあろうが。だが病棟には夜勤の看護師が必ず居る筈だ。
廊下から靴音が聞こえ、一人の男が入って来た。目が合ったので、私は軽く会釈した。しかし髭の剃り跡の目立つ制服の男は、私の顔を見るなり嫌そうな顔をした。それもそうだ。警察からすれば私は、民間人の頼みで勝手に町を歩き回る、仕事の邪魔者でしかないのだから。それも組織に嫌気が差して抜け出した裏切り者の。
ここは去っておくとしよう。
「ああ、心配要らないさ。今日は友人に別れを告げに来た。それだけだからな。それじゃあな、シグムント、リュドミラ。葬儀でまた会おう」
私は霊安室を後にした。通り際に警察官の横で一瞬舌を出しておいたのは内緒だ。
***
霊安室を去ってから、私は病棟の各階を回った。警察が居たのは最上階である四階の手前にある病室だった。階段の蔭から覗くと、シグムントの言った通りに、紙テープのバリケードで入口が封鎖されているのが見えた。きっと病室の中では、手足に不織布のカバーを付けた鑑識の人間たちが犯人の形跡を探そうと這い回っている事だろう。
まだ物陰から伺っている私立探偵の存在には誰も気づいていないようだったが、ここから先に向かえば確実に追い返されるだろう。
私は早々に階段を下りて、病院から出ることを決めた。誰にも見られないうちに。来た道を早足で戻ろうとした。
―ふとその時、視界の端で何かが光った。視線を動かすと、階段の上から二段目の上に、金属質の丸いものが落ちていた。
ジャケットの袖を伸ばして手袋代わりにすると、私はそれを拾った。
それは、スズ製とみられる、小さな銀色のメダルだった。年季が入っているのか表面は汚れて、くすんでいる。
思わずメダルをしげしげと眺めてしまったが、私は我に返った。警察に気づかれる前に一刻も早くここを立ち去らなくては。
メダルをハンカチで包み、ジャケットのポケットに仕舞い、私は足早に階段を下った。
***
事務所に戻った時、急にコーヒーが飲みたくなったため、湯沸かし器にきっちり百五十ミリリットル計量した水を流し込んで、スイッチを入れた。
そして脱いだジャケットを無造作に椅子の上に被せようとして、私はメダルの事を思い出した。ハンカチに包んでおいたそれを取り出す。どうも私の思っていた以上に古ぼけていたらしく、白い綿のハンカチに錆びが擦り付けられていた。
メダルの中心には葉の付いたオレンジのレリーフが彫られており、裏返すと、アルファベットで「シチリアーナ」という刻印がされていた。
どこかのカジノのトークンに使われていたメダルだろうか。ただ、「シチリアーナ」という名前のカジノを、私は聞いた事が無かった。いや、そもそも私は賭博などに興味は無いので、仕事で立ち入る以外でお世話になった事は一度たりとも無いのだが。
これはウィルの病室に忍び込んだ犯人が落として行ったものだろうか?
少し考えて、私はその辺りの事情に詳しそうな人間に助けを求める事にした。固定電話のダイヤルを押す。電話はすぐに繋がった。
「どうも、ロイドです。ミスタ・ロバートソン。……ウィルの件についてはもう聞きましたか?」
「ああ。誠に残念だ。せめて彼に永遠の安らぎがあらん事を。そして犯人にしかるべき裁きが下されん事を祈るばかりだ」
ロドリーゴ・ロバートソン。彼はジュアン・ロコのオーナーだが、店の所在地であるアトマン通りの古株で、彼ならば何かこのメダルについて知っているかもしれない。
「それで、ウィルを最後に一目見ておこうと思い、病院に行ったのです。しかし、病室の近くの階段で、奇妙なものを拾いましてね」
「何だ」
「シチリアーナ、と刻印がされた、オレンジのレリーフの入ったメダルです。私にはどこかのカジノで使われていたメダルトークンに見えますが。シチリアーナという名前のカジノを、聞いた事はありませんか」
ふうむ、と唸る声が受話器の向こうから聞こえた。
「そうだな……。俺がまだほんの十八か、十九だった頃だ。アトマン通りに同名の小さな会員制カジノがあると聞いた事があった。俺も詳しくは知らないし、看板も入口も一般人からは見えない場所にあるとかで、実際に見た事は無かった。当時の噂では、支配人と直接関わりのある限られた会員だけが入場を許され、その客の中には、ギャングの親玉もいたとかだ。しかし、いつの間にか、カジノがあったと言われる建物はすっかり通りから消え失せていてな」
「ははあ」興味深い話だ。伝説級のカジノ。いかにもきな臭い印象を受ける。
「もう四十年も前の話だ。都市伝説みたいな物じゃないかと俺も思っていたが……。そんな所のトークンが病院に落ちているなどもヘンテコな話だな」
話を聞けば、ますます訳の分からなさが増した。ウィルが搬送され、正体不明の侵入者によって暴行を受けたのちに殺されたあの病院は、別に治安の悪い場所に建っていたわけでもなく、一般市民が利用するありふれた病院であった筈だ。そこに過去に語られた謎めいたカジノのメダルが落ちていたとは。
だがこれを持っているような人物は、足繫く調査をすれば、むしろ限られてくるのではないだろうか。
「しかしですぜ、ミスタ・ロバートソン。私はこれが、ウィルを殺した犯人を突き止める重大な手がかりだと踏んでいるんです。こんなもの持っているような人物は、この町の中にはそうそういない筈です」
「ああ」とため息の混じった相槌が返ってきた。
「その通りだろう。ロイド。ウィルの誇りに懸けても、お前さんが犯人を探し当ててくれる事を俺は望んでいる。何なら報酬も出す。頼む、どうにかあいつの無念を晴らしてやってくれ」
「―仕事、引き受けました」
私はゆっくりと答え、電話が切れると早速契約書の作成に取り掛かった。
***
契約書を作成し終わったので、私はそれをファイルに入れて、ジュアン・ロコに向かった。アトマン通りまでは徒歩で二十分程だ。軽いウォーキングとしては充分な距離だろう。
アトマン通りにある店が営業を始めるのは、基本的に夕方からだ。そのため、昼間の通りにはほとんど人が居らず、店を出しているのは、昼間にカフェをやり夜に本業のバーをやるような店ぐらいのようだ。この町で日頃暮らす、数少ない人々に朝昼の食事を賄うというニッチな需要に応えるとは、賢い営業形態だ。
ジュアン・ロコは奥の方にある。ロドリーゴ・ロバートソンはそういう限られた需要を享受して、もう三十年以上経つと言っていた。言い換えるなら、彼はこのアトマン通りの長老なのだ。様々なナイトクラブが時代の流れに従って、ディスク・ジョッキーやらダンスフロアやらを取り入れている中で、彼の店だけは昔ながらのジャズクラブの体裁を保っていた。そしてそこに、私のような時代錯誤な趣味を持ち、落ち着いた空気の流れを好む人間が集まる。
だが、彼がいつも言うに、ジュアン・ロコに居るバンドメンバーやバーテンダーは第二の家族のようでもあるらしい。皆が皆と演奏する事を楽しみ、聴く事を楽しみ、話をしたり、酒を飲み交わしたりする事を愛しているのだと。私や他の常連もその一員として迎え入れられているように感じる事が多い。
しかし、その中の一人のファミリー・メンバーは惨たらしい方法で殺されてしまった。ミスタ・ロバートソン以外の皆はどうしているだろうか。
昼の太陽に照らされた町は、夜の様子とは違って見えた。まるでゴーストタウンだ。殆ど誰も歩いておらず、人々の声も聞こえない。
「ハーイ」
ただ真っすぐに歩いている私の背に、突然女の声が掛かった。振り返れば、飲み屋の野外テーブルに座った、紫色のシックなワンピースドレスを着た女性が手を振っていた。長い黒髪で目鼻立ちのくっきりとした、なかなかの別嬪だ。
「お兄さん、こんな時間にここで何をしているの?」
「君こそ何をしているんだ。見慣れない顔だが」
彼女は何が楽しいのかクスクスと笑うと、言った。チェアの上で足を組んで座っている。
「見た通り、ここで軽めのお昼を食べていたところよ。今は食後のコーヒーを頂いている最中ってところかしら? 貴方は? もしお暇なら話相手になってくれない? 最近この辺りのバーにピアニストとして雇われたばかりなの」
「生憎、仕事中でね」
「あら、残念」
わざとらしい表情で嘆きながら、彼女はピアニストらしいしなやかな指で、ショールの胸に着けたコサージュを弄った。そのコサージュはやたらと目に付いた。何かの花のようだが、私には分からなかった。
「ねえ、本当にお喋りしないの? こんな美人に誘われてるのに、随分と冷たいのね」
「自分の容姿を武器に我儘を通そうとする女性には、あまり良い印象を受けない」
「余程ストイックなのね。気に入ったわ」
変な女だ。ピアノに没頭し過ぎて感性がどうにかなっているのだろうか。彼女はコサージュを見る私の視線に気づいたのか、悪戯っぽく微笑んだ。
「これ? リンドウよ。素敵でしょう」
「まあ、お似合いだよ」
「ふふふ、ありがとう」その答えと同時に、テーブルの上の携帯が鳴った。
「あら、呼び出しだわ。もう行かなくちゃ」
そう言いハンドバッグを取ると、女はそそくさと去っていった。自分から呼び止めておいて、何のつもりだったのだろうか。
私の横でカタンという音がした。女が投げたアイスコーヒーのカップが、見事に屑籠に収まった音だった。
***
「これが契約書です」
「確かに頂戴した。これで、お前さんに正式に、ウィルの仇討ちを頼んだ事になるわけだ」
ジュアン・ロコにて、私はミスタ・ロバートソンに契約書を手渡していた。
「そうだ、ロイド。メダルは持っているか?」
「はい」
ジップ付のビニール袋に入れておいたそれを見せた。
「シチリアーナ……、本当に存在したというのか。この汚れ具合は本物としか思えないが……模造品である可能性は無いか?」
「勿論その可能性も否定はできませんが。しかし、私は本物だと信じています」
ミスタ・ロバートソンは禿げ上がった額に浮かんだ汗を、袖口で拭った。
「まあ、調査はお前さんに任せるよ。ところで、今夜はジュアン・ロコの皆で集まって、ウィルを偲ぶパーティをしようという話になっている。こんな風に沈んでばっかりなのを、あいつが好むとは思わんからな。ロイド、お前さんも来るかい。きっと皆喜ぶだろう」
「はい、是非とも」
約束を取り付け、私はジュアン・ロコを去った。
店の横の路地では、三人の男が煙草を吹かしていた。
反対側から中年のがっしりとした体格の男が歩いてきて、私とすれ違った。そして、後ろで何やら話し始めた。何の会話だろうか。私は携帯電話を取り出し、電話を掛ける振りをしながら会話を立ち聞きしようと努めた。
「よう、お前、随分と良い仕事をやってくれたじゃねえか。これで予想よりも早く計画進むぞ」
「ええ、ええ。こんな機会は二度とありませんよ。またと無い機会に恵まれましたよ」
「良かったな。お前の手柄はきっと上に認められるだろうよ。これで世代交代が叶うぞ、ハッハッハ!」
何の事を話しているのかは分からなかったが、良からぬ方法で出世を目論んでいる輩だろう。この町にはそういう危ない連中の集まる所もある。
男たちと私は反対の方向へ歩きだした。後ろで鍵束がジャラジャラと音を立てるのが聞こえた。
夕方、ウィルの司法解剖の結果が出たと、シグムントから電話があった。
『決定的な死に繋がったのは、左の側頭部を殴られた事によるショックだとよ。外からの見た目に外傷は無かったが、頭蓋骨内で血管が破裂していたとか言ってたぜ。脳卒中の人間を相手にしてボコボコにするなんざ、酷い事思いつく奴がいるもんだぜ。まあ、今夜はせめて明るくやろうな』
***
その夜、バンドのメンバー八人と、バーテンダー四人、そして招かれた馴染みの客が私を入れて六人、合計十八人がジュアン・ロコに集まった。
今日は休業のため、一般客はいない。集まった人々はウィルの葬儀が明日行われる事になったと聞き、そして、思い出をあれこれ話し合った。
私もハイスクール時代にウィルと一時期バンドを組んでいた事や、自転車で当ても無く走り続ける旅をした事を語った。
やがて、バンドのメンバー達がウィルに向けてと演奏を始めた。スピーカーも無く、マイクも無く、ただ楽器を奏でるだけの、いつもとは違うステージ。
ただ、私だけはまさかこの中に殺人犯が居たらという考えに陥っていた。この中に「シチリアーナ」のメダルの持ち主が居たら? 脳卒中で倒れたウィルにこれはチャンスとばかりに殴り掛かった奴が居たら?
だが、ここに居る人間全てが、私もよく知る人間だった。皆善良で、ここで過ごす時間とここで奏でられる音楽を愛する者たち。そしてウィルを偲ぶ一曲が終わり、また皆が話している最中であった。
「あのよ、知ってたか? 皆。そういえばここにはいないが、リュドミラとウィルの仲を邪魔しようとする奴が居たんだぜ」
「ああ、あいつだろ。PAのアーヴィング」
リュドミラのバーテンダー仲間の男、ヴィクトールが話し始めた。慣れた調子でシグムントが答えた。大半の者が頷いている事から察するに、知れ渡っていた事なのだろう。
そういえば今日の演奏は音響設備を使わずに行われていた。
「そのPAの奴は今日、どこに居るんだ?」私は訊いた。
「あいつなら、他のクラブと掛け持ちしてるから、そっちに行かせたぜ。随分としつこい奴だったから、さすがのミスタ・ロバートソンも招きはしなかったよ」
そこで私は、ある天才的ひらめきに恵まれた。まさかそいつがウィルを殺した犯人だったのではないだろうか。リュドミラとの仲に不満があり、ステージの裏から、ウィルが倒れるのを見ていたので、脳卒中の事を知っている。どうやって病院に忍び込んだかは知らないが、殺人の条件が揃っている。
そして、昼間に立ち聞きした会話と、そのアーヴィングという男の行動が繋がった。「またと無い機会」とは、ウィルの重体の事だったのではないか。
そこで私は確信した。奴らは、アトマン通りの長であるミスタ・ロバートソンを店ごと葬ろうとしているのだ。シチリアーナとも何か関係があるに違いない。
私はジャケットと鞄を掴むと、一目散にジュアン・ロコを走り出た。
***
それから私はアトマン通りのナイトクラブに片っ端から殴り込んだ。「アリゲーター」、「ドミンゴ」、「ロゴス」と回り、四軒目の「ハヌマーン」で、当たりを引いた。
「アーヴィングという男は、ここに居るんだな?」
「分かったから、その手を放してくれ! 俺の関節がいかれちまう!」
用心棒を力技で黙らせ、バックステージに通された。
けばけばしいライトが次々色を変えているのが舞台裏から見える。その舞台裏に、路地で煙草を喫っていた、アーヴィングが居た。痩せ型で、赤毛のそばかす面をしている姿には見覚えがあった。
奴はヘッドホンを着けて機材に向かっていて、こちらに気づいていない。私は少々強めに、アーヴィングの肩を掴んだ。「ウッ」突然の痛みに奴が呻く。
「それを外せ」
私は空いている左手で、自分の耳を指しながら言った。アーヴィングは大人しく従って、ヘッドホンを外した。
「な、何だアンタ。何者だ」
「私立探偵のラルフ・ロイドだ。お前に話が有ってここに来た。さあ、ちょっと外に出ようか。別に殺しはしない」
「い、嫌なこった! 俺は何もしていない!」
そう言い、アーヴィングは暴れ出した。意外に力が強く、肩を掴んだ手を振りほどかれてしまった。
「これでも喰らいやがれ!」
アーヴィングは自分の腰から外した黒い革製のコインケースを私の頭に向かって振りかざした。咄嗟に鞄を盾にしてそれを受ける。そして、がら空きの足にこちらの足首を引っ掛け、引き倒してやった。
上から馬乗りになって相手を押さえつけ、私はコインケースを奪い取った。そしてファスナーを開けると、その中には銀色のコインがぎっしり詰まっていた。なるほど、相手にはそれと気づかせない見た目のブラック・ジャックか。クレバーだ。これで身動きの取れないウィルを滅多打ちにしたのだろう。
コインケースを逆さにして、中身を床にぶち撒ける。銀色のメダルには、どれも、葉の付いたオレンジのレリーフが彫られていた。コインではない。シチリアーナのメダルトークンだ。
「お前、シチリアーナについて何か知っているか?」
アーヴィングは無言で首を横に振った。何も言わないつもりか。情けない様に、私はため息を吐いた。
「まあいい。とにかくここで大人しく捕まってもらおうか」
だがそこで、私の頭に冷たい金属が押し当てられる感触がした。
「そこまでだ。計画の邪魔はさせねえ」
後ろには、あのがっしりとした体格の中年男が立っていた。
***
ナイトクラブ「ハヌマーン」の裏路地にて、私は所持していたハンドガンをホルスターごと奪われた状態で両手を上に挙げて立っていた。男は私の私立探偵許可証を見て、「ははあ、貴様は探偵だったのか」と笑うと、地面に放り捨てた。
「折角だから冥土の土産に話してやろう。俺の名は、スミス・エイゼル。その昔、アトマン通りから追われた男―エドアルド・エイゼルの三男だ。貴様のお察し通り、俺の親父がかつて経営していたのがカジノ「シチリアーナ」だ。親父はイタリアのギャングと一般社会の仲介人でなァ、ここを拠点にしてアメリカの麻薬ルートを牛耳ってやろうと仲間たちと目論んでたんだよ。だがな」
スミス・エイゼルは咥えていた煙草を地面に吐き捨てた。行儀の悪い奴だ。
「場所が悪かった。ここアトマン通りには俺達の取り入る隙が無かったんだ。それも昔からの町の仲間だけで、長年に渡って築き上げられていた暗黙の自警システムってやつがよ、お陰でシチリアーナは閉めざるを得なくなった」
話を聞きながら、私は何か使えそうな武器が無いか考えた。ハンドガンは今アーヴィングの手にあり、私に身動きを取らせないための脅し道具に使われている。幸い鞄は取られていない。中に入っているのは何だったか。
「だがシチリアーナはな、あれから各地に散らばって、麻薬売買の取引を続けてきた。俺達は長年、そうしながら機会を伺い続けてきた。そして今回、アーヴィングがアトマン通りでの違法行為を観察して、警察に報告していたギタリストを取っちめたというわけだ。これで自警団の手先が一人減る。そして明日葬式で店が留守のうちに、俺達は焼き討ちを仕掛けるつもりだ」
さも楽し気にエイゼルは口元を歪めた。
「まあ、貴様に語るのはここまでにしておくとしよう。さあ、残念だがこれで貴様は終わりだ、探偵。何か最後に言い残す事はあるか?」
私は息を静かに吸い込み、思いついた事をそのまま口にした。
「そうだな……。どうもそろそろ一雨降りそうな空気だな。そう思わないか?」
「あ?」
そしてその一瞬の隙を私は見逃さなかった。私は渾身の力で、鞄のリアポケットから取り出した折り畳み傘の柄をエイゼルの鳩尾にめり込ませた。
「ぐっ!」
「うわああ!」
驚いた勢いでアーヴィングが発砲した。弾丸は私の頬を掠めて、トタンの壁に穴を開けた。だが残念ながら、私は基本的に銃に極力頼らない事を信条としているので、その一発が最初で最後だった。弾丸は一発分しか入れていなかったのだ。
相手が混乱している隙に、手に持ったハンドガンを叩き落とす。そして右腕を掴み、脇の下に折り畳み傘を叩き込み、怯んだ隙に顎にも一撃入れた。
これでどうにか危機は脱した。腹を抑えて呻いているエイゼルのベルトにハンドガンが挟んであったので、それを取り上げた。
「さて、生憎明日は晴天らしいが……。それで、これからどうするつもりだ?」
「クソッ」
そう言いつつ、私もアーヴィングだけを捕らえるつもりでいたので、この状況をどう処理しようか困った。
「まあ、お前たちを警察に突き出すのが筋なんだろうが。だから大人しく―」
その瞬間、目の前の二人の頭から、血が噴出した。発砲音が無かったため、私は一瞬、何が起こったのか分からなかった。
どうやら、どこかから狙撃されたらしい。アーヴィングとエイゼルは脳漿を垂れ流して事切れていた。即死したようだ。
辺りを見回したが、狙撃手の姿はここからは分からなかった。それにしても、二人の頭は同時に、側頭部から反対側の側頭部へ銃弾が貫通するように、的確に撃ち抜かれていた。恐ろしいほど卓越した射撃の腕だった。
「ホワット・ア・ビューティフル・ストローク(まったく、何て見事な一撃だ)!」
誰に宛てるわけでもなく、私はただ一人吐き捨てた。
かくして私の仇討ちは、誰とも知れぬ暗殺者の手によって勝手に成し遂げられてしまったのであった。
(終)
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