異世界・猿蟹合戦

赤木冥

蟹の足は動くべきもの。

11


 長すぎる残暑がようやく終わりを告げようとしていた十月のその日。

大阪市内は広い範囲での停電に見舞われていた。

月ばかりが冴え冴えと白く夜空に輝き、梅田のビル群は夜の底に沈む。

夜というのはこんなにも暗い……いや、黒いものだったのだなぁ、と妙な感慨を抱きながら帰路を急ぐ中林の隣で時代遅れも甚だしいインバネスコートを羽織った男がぐふふふふ、と気味の悪い声で笑った。

「ちょ……先輩。やめてくださいよう。びっくりするやないですか。」

「だってさ、君。こんな『なにか』が起こりそうな夜だなんて、テンションが上がるでしょうに。」

「上がりません。僕は、さっさと帰って、冷蔵庫の中身を救出することで頭がいっぱいですから!」

「全部茹でればいいんだよ。タンパク質なんて。」

「闇鍋じゃないんだから、嫌ですよう。」

止まってしまった地下鉄(といっても、代替輸送だってしているというのに!だ)をいいことに、帰れないだなんだと騒いで、徒歩圏内の中林の家まで付いてきた疫病神……もとい、先輩をチラリと横目で見て、中林は溜め息を吐いた。

 街灯の一つも点いていない夜道というのは本当に暗い。月が雲に隠れると、闇は更に深さを増す。

心持ち、ぐらり、と足元が揺らぎ、世界が歪むような気がしたが、夜の暗さに慣れない所為だろう。

「おや、どうした。小林君。」

「……中林です。」

「いいじゃないか。大は小を兼ねるんだから、中も小を兼ねてよし。」

「よくないです。」

「じゃあ、あだ名。ニックネーム。愛称。」

「自分が呼びたい名前で人のこと呼ぶのやめてくださいよう。」

「そもそも名前なんて、識別のために付けられたものなんだから、俺が君を識別できればいいんだよ。小林君。」

傍若無人すぎる勝手な理屈を笑顔で振り回しながら、中林の二の腕を掴んだ男は空を仰いだ。

「見たまえ!月がきれいだよ。小林君。さあ、君の家に帰ろう。」

中林は、もう一度、深々と溜め息を吐いた。




21


「そっちに行ったで!」

ギギ…ギギギ……と耳障りな音を立て、八本の足が動き、先端からレーザーが放たれる。ひとっこひとりいない真っ暗な夜を青白い光が瞬間切り裂いていく。

その道筋に蠢く有象無象達は光に触れた刹那、灰に変わっていく。

ガタン、ギギギ、ガタン。

両の手に登ってきた異形の猿達を巨大なハサミで押し潰すたび、キィーーーーー、と奴らは金切り声を上げ、消える。

 大阪・難波。

無人の街では激しい戦いが繰り広げられていた。

月さえ見えぬ漆黒の闇の中、歪んだ時空の狭間から、バグと呼ばれる疫病神達がいちどきに攻め込んできたのだ。顔の真ん中に真っ黒な穴がひとつ目のように開いた猿に似た大小の異形がこの時とばかりに、分たれた世界へと侵攻してきた。

 それにしてもキリが無い。

猿……に似た侵略者達は、我が物顔で暗闇の街を蹂躙していく。

ランニングシャツを着た巨大なランナーは足元に群がる小さな猿を次々に踏み潰すが、掲げた両手の先を大猿に齧られ、悲鳴を上げる。

「なにすんねん!」

ぶん、と手を振り回すと、大猿が投げ飛ばされ、向いのビルにぶつかり、真っ黒な灰が夜空に舞った。

「あんさん、まだ準備でけへんの?」

些か悲鳴にも似た声色で、それでもうっすらとした笑顔を絶やすことなく、季節外れのランニングシャツの男は眼下の薄汚れたビルディングへ声をかける。割れたガラス戸から彼らの長年の友が顔をひょっこりと覗かせる。

「待ってや〜。なんせ、わてもあいつもしまわれとるさかい。」

無言でハサミを振り回していたカニが目だけでギョロリと声の方を見る。

ギギギ、ガタン……キィーーーーーーーー、ガタン、ギギ……。

ふくよかな体を白いスーツに包んだ温和そうな老人も杖を振り回し、猿達と戦っている。

二十五年前、太郎の身代わりになってくれた御仁だ。

老体とは思えぬ力で、場外ホームラン間違いない正確なスイングで異形の者達を叩きのめしていく。

キィーーーーーー‼︎

猿達の悲鳴が交差する中、ドォーン、ドンドン、と重々しい音に続いて、トントコトコトコと軽やかな太鼓の音が響き渡った。普段は鳴らされることのなかったスネアのリズミカルな音ににわかに指揮が上がる。

「おまっとさん!」

つい先日、誰もいない深夜に街からひっそりと姿を消したずぼら屋のふぐがポカリと真っ暗な夜空に浮かんでいた。その背に跨った丸眼鏡にとんがり帽子、赤白の派手な縞模様を纏った男は笑顔で太鼓を打ち鳴らす。古い友人の勇姿が、猿を相手取り闘う者たちに勇気を与える。

「お猿さん、わてらの街は渡さへんで〜。」

スネアドラムが鳴るたびに全方位に向かって広がる音波砲に、ひとつ目の猿達は耳を塞ぎ転げ回る。バグとは、即ち、誤り、瑕疵。

正しいもの、規則正しいものには恐ろしく弱い。

そもそも、神楽だってガムランだってそうだ。魔のものを祓うには、音もひとつの武器たりえるのだ。

正確に刻まれるリズムが猿の動きを止める。

攻撃の手が緩まった隙に、両手をあげたまま、ランナーが走り出した。

「あん人、まだ寝とるんちゃうやろか。起こしてきますわ。」

「おおきに!ついでに、アレも起動してきてんか。」

トントントコトン、と太鼓を鳴らしながら、丸眼鏡の男が愛嬌のある笑顔を覗かせる。

「まかしといてください!」

メロスは走った、と言わんばかりの力強い足取りでランニング姿に七三分けの男が走り始めた。

目指す先は通天閣。

真っ白なランニングが夜空に仄白く浮かぶ。

右足、左足、右足、左足。

陸上用の半ズボンから伸びたむっちりとした足が大地を蹴る。

左足、右足、左足、右足。

群がる猿達を高く掲げた両手で払い退けながら、旧友の元へと走った。

「起きてーな。ビリケンはん。えらいことなってますんや。」

普段であれば、ライトアップされている通天閣も、今は夜闇に紛れるオブジェの一つと成り果てていた。

胸の真ん中に『グリコ』と誇らしげに赤く染め抜かれたランニング姿の男は、通天閣の展望台を両手で持つと、ゆっさゆっさと大阪のシンボルを揺する。

「ビリケンはん。起きてーな!」

二度目の呼びかけで、グァアアアア、と地鳴りに似た低い音が響いた。

名も無い男にしがみつき、齧り、引っ掻いていた猿達がびくり、と身を竦めた。

「なぁ〜によ〜?あたしを起こすの〜は〜だぁ〜れ〜?」

それに続いて、グァアアア、ともう一度響いた音は明らかにあくびのそれだった。

決して大きくは無い体から発されるあくびの大きさには男も思わず目を瞬かせた。

「バグが入ってきよって、街がえらいことなんです。」

通天閣の5階が眩く光り輝くと、子供ほどの大きさのビリケンが姿を現した。

「バグ?」

「この……猿です!」

「猿?」

通天閣の窓に張り付くようにして外を覗く黄金色の像の目の前に、腕に噛み付いた猿をかざすと、ヒィッ、と細すぎる目を瞠り、ビリケンが飛び退く。

「顔、恐っ!こわっ!あたしの好みじゃ〜ないわ〜!」

尖った頭の先が小刻みに震えた。

「やだ〜わ〜。仲良くなれないわ〜。」

「いや、友達紹介ちゃいまっせ!こいつら倒すん手伝うてくださいな。あんたはん、神様でっしゃろ?」

「待って〜な。あたし、いま起きたばっかやし〜。低血圧やから、朝弱いねん〜。」

「夜やしな!」

咄嗟にツッコミが口から飛び出すのはやはり大阪人ゆえか。

グァアアアアア、と大欠伸をしたビリケンは、伸びをしてぴょこんと立ち上がった。

「もぅ〜。しゃぁないわぁ。」

あら、寝癖、と尖った髪の先を手で撫でつけながら、ビリケンはいつも座っている台座から飛び降り、軽やかな足取りで通天閣の奥へと消えていく。

数分後。

通天閣を彩るLEDライトが点灯し、鮮やかな紫からピンク、ピンクから赤、赤から黄、黄から緑、そして青へと光り始めた。

闇に覆われた大阪の夜空に浮かぶ光の柱。

ランニング姿の大男に纏わりついていた異形の猿達は、キィキィと鳴きながら、一体、また一体と闇の中へと逃げていく。

「よし、と。とりあえず、明るなったし〜。うちはもうひと眠……。」

トコトコ、と戻ってきたビリケンを窓から差し入れた指先でつまみ上げ、ゴールインマークと呼ばれるグリコのランニングを纏った男がニッコリと微笑んだ。

顔の濃いスポーツマンの爽やかな微笑みに、ビリケンは、ぽ、と頬を染める。

「あんたはんにはまだやってもらわなあかんことがありますやろ。」

「え〜。」

いつもそうしているように、両足の裏を揃えて前に出し、スポーツマンの大胸筋の谷間に座り込んだビリケンは、不服そうに唇を尖らせる。

「あたしの足で行くには〜遠いし〜。あたし、殆ど歩かないから〜。だから、足の裏もツルッツルなんやけど〜。」

「自分がちゃんと送り届けますさかい。」

「えっ、ほんと〜?」

少女漫画ならば星がキラキラと舞い散るほど嬉しそうに両手を組み合わせたビリケンが、グリコのゴールインマークを上目遣いに見上げる。

「それやったら、ええよ〜。」

「落ちんようにしとってください。」

行きますよ、と声をかけると、ランニング姿の男は再び走り出した。






12


「あかん……。またバグやぁ。」

数ヶ月ほど伸ばしっぱなしの髪の毛をわしゃわしゃと片手でかき混ぜ、中林はデスクの上にぐったりと倒れ込んだ。可憐な女子社員が見れば、汚い、と喚かれそうなものだが、そこはそれ。そんな女子など我が社……いや、少なくとも我が部署には存在しないのだから問題はない。

今度こそ、と書いたプログラムを動かしてみたものの、またぞろ想定外のところにバグが潜んでいた。これで何度目になるだろう。このプログラムで動くはずの画像が途中でブラックアウトし、シナリオがそこから先に進めなくなってしまう。

 例えば、人気のスマホゲームでも、スウィッチやプレイステーションのゲームでもそうだが、美麗なグラフィックも、心躍るアクションも、みんな最初はアルファベットと数字のプログラムから生まれる。商品として実際に目にするそれらの裏側では、アルファベットと数字で組み込まれた複雑なプログラムが動いているのだ。それらが表裏一体のもので、プログラムがきちんと動かなければなければ、どれほど面白いストーリーも可愛いキャラクターも動かすことはできない。

中林はマグカップを引き寄せると、すっかり冷めてしまったインスタントコーヒーを一口飲んだ。

……まずい。

不味すぎて目が覚めるから、これはこれで、存在意義を正しく果たしているのかもしれない。

それにしても……。

カチ、カチ、とキーボードを叩きながら画面を見つめるが、今度こそ、と勢いこんでいた手前、やる気が全く起こらない。アルファベットと数字の羅列を見つめていると、自分がこのままプラスチックの人形にでもなってしまいそうだ。

安いオフィスチェアにぐったりと体を預けると、頭上から聞き慣れた、そして聞きたくない人の声が降ってきた。

「おや?小林君。随分と楽しそうだね!」

ああ、そうか。溜息ばかりついていると幸せの妖精さんが死んでしまう、というのはきっとこういうことだ。辛気臭い顔をしていると、それを弄ろうと、こういう人がやってきてしまうのだ。

「全く楽しくないです。ついでに、先輩の相手をしている時間はありません。それから、僕は小林じゃなくて中林です。っ。」

いつもより数段早口で歯切れ良くまくしたて、ぷい、と顔を逸らしモニターを見つめるも、失われたやる気は、失われた聖遺物と同じほど戻ってくる気配もない。

「えー。ひどいなぁ。そんなこと云うと、今見つけたバグ、教えるのやめよっと。」

「!」

今日の先輩は、白いシャツに焦げ茶色のパンツ、膝まであるロングブーツを履き、乗馬にでも挑むようないで立ちだ。プログラミングをするのに、全く必要のない小洒落たファッションで腕組みし、悲しげに眉を寄せる。

「俺の相手なんてできひんて云うたしねー。」

「相手、します!します!なんぼでもします!肩も揉みます!ピノも奢ります。だから、教えてください!……どこですか?」

「え〜。また、小林君の家に招待してくれるなら。」

「そ……それは遠慮して欲しいですけど。」

「じゃ〜やめた。」

「いやいやいやいやいやいやいや。うちでやりましょ。たこパしましょ。スウィッチもやりましょ。えーっと、忘年会と新年会も!」

にっこり、と文字にしても相違のないほどの笑顔を浮かべた先輩は、すぅっと指で画面の文字を指差す。

「ここんとこかな。そこを弄ると、そのさきも齟齬が出てくるから、それをチマチマと直していけば、多分動くよ!チマチマとしたこと、小林君、向いてるから大丈夫だよね!」

なんだか最後はひどいことを言われたような気もするが、先輩はそんなことお構いなしの満面の笑顔で、た・こ・パ、と僕の耳元で囁いた。

僕は、悪魔に魂を売ってしまった、ような気がした。




22


 暗闇に覆われた大阪では、激しい戦いが続いていた。

次々と襲いくる異形の猿達は、幾分その数が減ってきたものの、まだまだ完全に駆逐したとは言い難い状況で、太郎にも、太郎の代わりに道頓堀で寒中水泳した白髪の老人にも、はたまた、言葉少なにただただ猿達を切り刻み、払い落としていたカニにも疲労の色が濃く滲んでいた。

どれほどの時間が経過しているのか、はっきりとしたことはわからないが、このままではジリ貧というやつだ、ということはわかっていた。

「まだ来おへんのかいな?」

苛立ちをわずかに滲ませ、それでも笑顔の太郎は、弟の次郎、従兄弟らと顔を見合わせた。

「なんや、こんなことになった時のため、て言うても、そうそう『こんなこと』がないから、起動に手間取っとるんちゃう?」

「せやで〜。僕らかて、動くのに難儀したやん。」

「久しぶりに動くと、関節から折れそうになるよな。」

よく似た少し甲高い声で、口々に思い思いのことを言い合う太郎達をちろりと横目で眺めながら、カニは休むことなく猿達を払い退けていたが、突如、ギギギ、と嫌な音が響いた。

左の下から二本目と三本目の足に、大量の猿達がしがみつき、ユッサユッサと動こうとする足を反対むきに揺らしている。

「ああっ!あかん!」

ギギギギギギ、とカニの足が軋む。

いくらバグとはいえ、実体化した猿達には相応の重さがある。それが、一カ所に集中してのしかかれば……。

ギギギ……ギギ……ギ……。

「あかん!太郎ちゃん、はよ太鼓を!」

「ドラムの皮がヘタってきてしもて……あああ、あかん!」

金属のこすれる嫌な音がして、カニの左下から二本目の足がぽっきりと折れた。

群がっていた猿達は地上に落ち、灰になって消えていく。

「カニさんの……カニさんの足が!」

カニは残りの足にしがみつく猿達を払い落とそうと、なおも足を動かし続ける。

「もう、無理に動かしたらあかん!他の足まで……!」

駆け寄った次郎が無残にも地面に転がったカニの足の前でしゃがみ込み、ガックリと膝をつく。その隙をついて、群がろうとする猿達を、白髪の老人が杖でなぎ払う。

「カーネルはん……。」

陽気な丸眼鏡の奥に涙を滲ませた太郎そっくりの次郎は、かつての兄の恩人を見つめた。

頭上ではまた嫌な音が響いている。

「ビリケンはん、まだかいな。」

ギ、ギ、ギ、と二本目のカニの足が断末魔の悲鳴を上げている。

「お願いや。わてらの街を……早う。」

長時間の戦いで、張りのなくなったスネアの音を太郎が響かせる中、閃光が空を覆った。

太郎、次郎、従兄弟とカーネル・サンダースは思わず眩しさに目を閉じた。

「こ、この光は……!」

「間に合ったんか……?」

キィーーーーーーーー!

キキキキィーーーーー!

耳障りな猿達の悲鳴が何重にもなって不協和音を織りなす。

「ぼ、僕は嫌だー!」

従兄弟がまばゆい光の中で力強く叫んだ。

かの岡本太郎の芸術、太陽の塔から放たれた光の束が、幾筋も幾筋も空の彼方から降り注ぎ、あたりはまるで常夏のニューカレドニアのような明るさだ。

その光に貫かれた猿達は、いちどきに灰になっていく。

いつまでも続くかと思われた不協和音はクレッシェンド、フォルテッシモ、そして、デクレッシェンドからピアニシッシモへと、徐々に小さく、小さくなっていく。

「来てくれたんやぁ。神様が。」

太郎の目からは涙がポロポロとこぼれ落ちていた。

次郎と従兄弟は抱き合い、号泣している。

どしーん、と大きな足音がした方を振り向くと、照明がいくつも壊れまだらになったグリコのゴールインマークがビリケンをそっと地面に下ろすところだった。

「遅なってごめんね、ごめんね〜。再起動の仕方忘れててん〜。苦労したわぁ〜。」

ペロッ、と舌を出して見せる、黄金に塗られた小さな神様に太郎は駆け寄った。

「ビリケンはん。おおきに。おおきに。」

カーネル・サンダースは肉付きの良い手をビリケンに差し出し、二回りは大きさの違うその掌を大切そうに握り、感謝を伝えている。

「これで……表の世界にバグが溢れんで済む。あっちの世界も、壊れんと済む。」

感無量といった面持ちのグリコも深く頷く。

キィーーーーーー……という声が最後に一度響くと、猿達の姿は全て消え去っていた。

光の束はそれを測ったかのように徐々に細くなり、最後には一筋の蜘蛛の糸のようになり、そして、静かに消えた。

太陽の塔は、静かに、その役目を全うしたのだった。

表の世界と裏の世界。

表裏一体の世界はどちらかが動かなくなれば、もう片方も壊れてしまう。

これで、世界が再び一つに重なれば、何事もなかったように日常はまた動き始めるのだ。

あの大阪だけが広範囲の停電に見舞われた日、剥がれ落ちてしまった世界の裏側で起きていたバグとの激しい戦い。表の世界をも守った戦いが幕を閉じた。

「さあて、あたしは帰って寝るわ〜。このツヤツヤの〜お肌のためにも〜。」

よいしょ、とグリコのゴールインマークに手を伸ばしたビリケンは、や・く・そ・く、とにっこりと微笑みかけた。

ランニング姿の男が小さな神様を大胸筋の谷間に乗せると同時に、どうにか耐えていたカニの二本目の足が落下した。カニは満足そうにハサミを二度、動かした。

戦いは、終わった。





3


 停電があったことなどすっかり忘れた大阪の街は今日もかしましい。

ひっかけ橋にはナンパとスカウト目的のヤンチャそうな若者がたむろしているし、いくつか電球の壊れたグリコのゴールインマークはそれでも今日も元気そうだ。

「先輩〜。ゲームのコラボカフェになんで僕が付いて行かなきゃならないんですか。」

ようやくバグの修正が終わり、今回の仕事にひと段落ついたのだから、帰りたい。帰って、そして、ゆっくり眠りたい!……というのが、一般的なプログラマーの発想だと思うし、少なくとも、中林は一般的なプログラマーだから、どんな欲より今は睡眠欲がナンバーワンの座を射止めているのだけれど、中には、一般的ではないプログラマーもいるわけで。

「なんで?愚問だな。そこに君がいたからだよ。小林君!」

くへへっ、と気味の悪い笑い方をして、先輩は金色のラバーソールでアスファルトを蹴る。今日はどこのロックスターか、というようなピタピタのベルボトムに厚底のラバーソール。花柄のシャツはご丁寧にビンテージ物らしい。

「緑川さんだっていたのに……。」

「いたっけ?」

立ち止まり、きょとん、とした顔をする様子からは、悪意のあの字も感じられないから恐ろしい。

「あれ?なんということだ!見たまえ。小林君。」

先輩が指さした先には、左の下から二番目と三番目の足が取れてしまった、かに道楽のカニがいた。

「えっ?なんで?」

よく見ると、カニには大きな張り紙がされていた。

『あちゃ〜。勤続疲労で折れちゃった?』

紙に書かれた文字を先輩が読み上げる。

僕はぷっ、と吹き出してしまう。

「こんな時までギャグにしてまうって、どんだけ大阪なんです?」

「いや、これにはきっと、秘密があるはずだ!」

先輩の目がキラキラと子供のように輝く。

「きっとこれは何かの暗号か……或いは、大きな事件のトリックが隠されているに違いない!そうは思わないかい?小林君。」

「……中林です。」

「待てよ……。実は足の中に、秘密の宝の在り処が隠されていたのかもしれないよ。……と、それじゃ単純すぎるか。」

嬉々として妄想を語る先輩を、通り過ぎる人は危ない物でも見るようにチラチラと眺めている。

「足の先にワイヤーの後でもないんだろうか。最近この近辺で誰か殺されちゃいないかな。どうだい?小林君。」

「知りませんよ。僕はただのプログラマーなんで。」

「それとも、新しくなんらかのトリックを仕掛けた足を仕込むために、あの二本の足を誰かが壊した、なんていうことも……。」

「変数が二個あるんじゃ、解は一個にならないじゃないですか……。」

周囲の冷たい視線を感じながら、先輩の大きな独り言に付き合う僕の足元がぐらり、とかしいだ気がした。

「うわっ。」

「おい!小林君。どうした。」

倒れそうになった僕の二の腕を先輩が掴んでくれたおかげで、どうにか体勢を立て直す。

「今の、地震、ですか?」

「君にだけ地震が来たのかい?なかなか器用なことをするじゃないか!」

「……気のせいですね。」

なんだか、世界の輪郭が先刻よりはっきりとして見える気がするのは疲れているせいだろう。

 僕は壊れたカニ道楽のカニを見上げた。

「バグ退治で疲れたせいですかね。」

「よーし!そんな時は、コラボカフェで巨大ハニートーストを当てて食べるといい!」

カニと同じくらい疲れた僕を引きずり、先輩は人混みの中を歩き出した。


                     完


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界・猿蟹合戦 赤木冥 @meruta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ